引き裂かれた見ることへの欲望と想像力
澄毅-光が生む見えない余白と新しい質感
先日、パリ在住のアーティスト、澄毅(すみ・たけし)さんが訪ねて来てくださったのでその作品を紹介したい。澄毅さんは、明治大学でドイツ文学を専攻した後、多摩美術大学の情報デザイン学科を卒業した。主に写真を使ったアーティストである。
澄さんは、撮影した写真をプリントアウトして穴を開け、さらに夕日の光にかざして写真から光が漏れ落ちている様子を再び撮影して作品制作をしている。つまり、写真の複写による作品ということになる。撮影している機器はデジタルカメラであるが、一度プリントアウトしているため写真全体の彩度が落ちるのと、出力した紙の表面の質感によって、古い写真のように見える。
そして、人物の顔や体に無数に差し込まれた穴から漏れ落ちる光によって、宗教画の奇跡を現すような神々しさと同時に、顔や体が崩れていくような不安感を喚起する両義的なオーラをまとった作品になっている。この後、次々と他の体の部位も光よって喪失していくのではないかと想像が膨らむ。
顔を見ようとすると、穴から漏れる光に阻まれる。実際のところ、光源を見ているわけではなく、紙を見ているに過ぎないので、眩しくないはずなのだが、目が錯覚をおこして、反射的に直視するのを避けてしまう。
最初に写真が撮影された場所と、写真に穴を開けて夕日越しに撮影された場所は異なる。そこには時間、場所、光に遅延が生じている。それが同時に現われていることは一見わからないかもしれないが、崇高なものを見ると「目がつぶれる」というような、原始的な感情を引き起こしている。
写真は暗い部屋に開けられた穴から漏れる光によって、外の風景を反対側の壁に投影させるというカメラ・オブスキュラ(オブスクラ)をルーツにしている。その覗き穴は直接覗きこむのではなく、反対側の壁に映された風景を見るためのものだ。
現在は反対側の壁を見ているわけではないが、レンズを通して電子的に処理された画像をファインダーかモニターを介して間接的に見ている。カメラ・オブスキュラにおいて、もし覗き穴に直接光源が当てられていたとしたら、太陽を直視することと同じであり、目を傷めてしまうことになる。それは電子的な処理をしているデジタルカメラにおいても危険であることは変わりない。
しかし、澄さんの作品は、覗き穴に光源を当てられた状況を定着しているといことになる。もちろん、目がつぶれるほどの穴を開けているわけではないが、そこには、生理的な拒否感と、覗きたいという欲望が同居している。覗き穴を覗けないのだから…。非常にプリミティブでありながら、生理的にも精神的に訴えかけてくる作品だといえるだろう。
訪ねて来られる前に、作品のデジタルデータを何枚か送ってもらい、色彩分析をしてみたのだが、プリントアウトした写真を再撮影したものであり、写真全体に同じ光源が当たっているため、非常に色相の幅が狭いことがわかった。また、質感のある紙にプリントアウトしているため彩度も低い。しかし、最初の撮影時の光と、再撮影で漏れる光と紙のテクスチャーによって、明度と彩度の分布が独特になっている。光沢とマットが同居しているような不思議な分布であり、面白い効果を生んでいる。
澄さんに自身は、「光によって写真に空白を作ることで、想像力が換気される余白が生れる」と述べている。写真に介入し、さらに光を呼び込むことで、注視の拒絶と同時に、想像力の余白を与えているといえるだろう。それは光源を無意識に避けてしまうという人間の生理反応を起こさせているため、想像力に飛躍を与えている。
他にもプリントアウトした写真に切り込みを入れたり、虫眼鏡で燃やしたフィルムを撮影したりした作品を制作するなど、イメージへの物質的な介入と太陽光による介入を行うことで、光と質感の相関性を追求しているといえる。
太陽光の探求は、古くて新しいテーマであり、東西の文化的差異にも回収されにくいのもポイントだ。パリに住み活動を続ける澄さんにとっても、対話の共通基盤として重要なモチーフにもなっている。しかし一方で、フランスの著名な紋章学者・色彩学者であるミシェル・パスゥトローが指摘するように、日本人が持つ質感は西洋人に感知できない繊細さを兼ね備えている。パストゥローがそのことを日本産の印画紙で気付いたのは象徴的である。以下に引用してみよう。
「日本人の感覚では一つの色が青、赤、黄色ということよりも、その色が艶消しか、光っているかということほうが大切で、こちらのほうが一番本質的なパラメーターということになる。~中略~日本人にとは違って、私たち西洋人の眼ではこのすべてを見分けられるとは限らない。第一、ヨーロッパ語の語彙では白に関する語数が少なくて、日本の白を名付けることができないのである。しかし、日本人の感覚にとってこれほど大切な〈艶消し/光沢〉という対立を西洋がここ数十年で受容した分野がある。印画紙がそれだ。この分野での日本の支配が、私たちを徐々に〈艶消し/光沢〉という差にならしていった(それよりも前は、写真に関して、西洋人の目はむしろ粒子のきめ、トーンの暖かみということに敏感だった)。それで現像を頼むとき、私たちも日本人のように、〈艶消しの紙〉とか〈光沢のある紙〉というようになったのである。」
ミシェル・パストゥロー『ヨーロッパの色彩』石井直志、野崎三郎共訳、パピルス、pp.126-127
澄さんの作品には、西洋的な配色は見られない。限られた色相と光と質感の多様性によって構成されている。デジタル時代になって、電子モニター上では喪失した質感を、出力した紙に介入することで追求するのは実はとても日本人的な感覚だともいえる。澄さんは、太陽光という一見、普遍的なテーマを扱いながら、日本的な感覚を無意識に追求している。同時に、写真以前の原始の感覚までさかのぼろうとしているのかもしれない。
余談だが、澄さんの作品は日本にいるときに、アニエス・ベーに購入され、それをきっかけにフランスに渡ることになった。現在、アニエス・べ―のスタジオに澄さんの作品は購入されているという。アニエス・ベーはキュレーターを目指した後、デザイナーになった経緯があるので、その真贋を見る目は確かだろう。澄さんのさらなる飛躍を期待したい。
初出「引き裂かれた見ることへの欲望と想像力「澄毅-光が生む見えない余白と新しい質感」」『shadowtimesβ』2015年8月19日