《モナ・リザ》を読み解き、絵画を学ぶ画期的教科書
渡邊晃一『モナ・リザの教科書』(日本文教出版・2021年)
世界中で一番有名な絵は、間違いなく《モナ・リザ》と言ってよいのではないだろうか?そして、作者のダ・ヴィンチは歴史上で最高の画家と言っても過言ではない。しかし、《モナ・リザ》のことをどれだけ知っているかと言われると心もとない。多くの謎があり、それを解こうとする多くの推理があり、どれが本当のことで、どれが想像の範囲なのか、ほとんどの人はわからないだろう。
本書は、《モナ・リザ》という史上最高の絵画の一つであり、多くの謎を秘めた作品を、最新の知見をふまえて解読した「研究の教科書」であり、同時にどのように《モナ・リザ》が描かれたか、その背景となる理論や素材、制作技法を丹念に解説し、《モナ・リザ》を範とした「絵画の教科書」にもなっているという、未だかつてない意欲的な試みである。さらに、《モナ・リザ》が、後世の画家やその作品、現代アート、他分野の芸術作品にまで、どのように影響を与えたか丹念に調べて掲載しており、現時点での決定版ともいえるものに仕上がっている。
著者の渡邊晃一氏は、絵画・美術解剖学を修め、福島大学教授として教鞭をとり、ロンドン芸術大学客員教員やエコール・デ・ボザールの客員教授として、ダ・ヴィンチや《モナ・リザ》の研究を進めてきた。本書は、福島大学をはじめ、宇都宮大学、岩手大学、福島県立医科大学、会津大学の講義のために作成された教本がともになっているという。同時に、作家として「Mona Lisa↔Mon.Alice」展(福島ビエンナーレ、2016)、「モナ・リザの肌膚」展(Zen foto Gallery、2014)、「モナ・リザの肌膚」展(銀座コバヤシ画廊、2019)など、《モナ・リザ》をテーマにした制作を続けてきた。さらに、映画『万能鑑定士Q-モナ・リザの瞳-』、日本テレビのルーヴル美術館特集番組などの監修もてがけており、今や日本における研究と実作を兼ねた《モナ・リザ》研究の第一人者といってよいだろう
本書の章立てもユニークである。著者が美術の三要素とするI、T、Mにしたがって3章からなる。1章のIとは自己表現、個性的な「ものの見方」であり、アイデンティティ、イメージ、イミテーションによって構成され、2章のTとは絵画技法、歴史的なテーマと「技術」であり、テーマ、テキスト、テクニック、テクスチャーによって構成され、3章のMは媒体と媒体「素材」であり、マテリアル、メディウム、メディア、メッセージから構成されている。また、I、T、Mは、眼・手・身を表しており、著者の絵画教育における提案にもなっていうという。なぜなら、近年の絵画は、鑑賞教育や個々の創造性が重視され、テクニックや素材、つまり身体性を基盤にした制作学が欠如していると感じているからだ。
本書が《モナ・リザ》の研究書というだけではなく、「絵画の教科書」としての厚みがあるのは、渡邊が画家で、現役の作家として活躍しており、絵画理論に加えて、素材や技法に対する知識や経験が豊富であることも大きいだろう。線遠近法や空気遠近法、スフマートに加えて、日本人には直感的にわかりにくい、ムーヴマン、コンポジション、プロポーション、マッス、ボリューム、マチエールと言った絵画を表す用語を《モナ・リザ》を題材に詳細に解説し、技法に関しても作成を豊富に挙げている、
本書に掲載されている渡邊自身の《モナ・リザ》の模写の完成度の高さも驚くが、各記事に技法の参考として掲載されている渡邊の作品はすべてクオリティが高い。参考図版のレベルを超えていることがわかる。その技法もフレスコ、テンペラ、油絵、水彩画、アクリル、版画、印刷、シルクスリーン、写真、ステレオグラム、コラージュ、CG、水墨画に至るまで多岐にわたる。水墨画は一見無関係のように思われるが、《モナ・リザ》の背景の描写が、宋時代の「山水」に類似しているとから影響関係を指摘されることもある。渡邊は、《モナ・リザ》の背景を水墨画で描き、掛け軸に仕立て額装した作品も制作している。
《モナ・リザ》が今日においても絵画の教科書として成立するのは、その内容だけではなく、その科学的な認識や技法の要素も大きいだろう。つまり、現代の世界観、価値観と直接的につながっているのだ。例えば、《モナ・リザ》は、ルネサンス期の作品であるが、油絵で描かれている肖像画である。イタリアでは壁面に描くフレスコ画や、テンペラ画が主流であったが、ダ・ヴィンチは、北ヨーロッパで生まれ、北方ルネサンスで育まれた油絵をいち早く取り入れ、晩年にフランスに招かれて転居してから後も、何度も手入れをしている。それが可能になったのはテンペラ画から修正が可能な油絵、壁画から運搬が可能なタブローへの転換期であるからでもある。
その他にも、ダ・ヴィンチが残した多くの手稿には、数多くの知見や発明とともに、「絵画論」や「色彩論」などの理論が書かれており、ダ・ヴィンチの絵画に活かされている。また、死体を解剖して描いた、美術解剖学が実践されている。そのため、最新の科学的な知見と照らし合わせて、描かれた絵画と、どのような関係があるのか、考察することができる。新しい科学技術が登場すればするほど、ダ・ヴィンチが意図していたことが判明するという関係にあるのだ。本書でも、2000年以降に活発になるデジタル技術による画像分析や、近年のコンピュータを使用した研究成果が豊富に紹介されている。
本書は、読むだけではなく、絵画の教科書として制作することで、《モナ・リザ》の技法や素材に加えて、研究の内容も深く理解できるという相乗効果が出るように企図されているといえよう。そのため本書の真価は、実践を伴わないとわからないが、本書を読めば絵を描きたくなるのではないだろうか?
近年の研究は、研究と制作が切り離され、素材を知ったり、手で描くことによる身体的理解がおろそかになっていると思える。それは古くは、理論を上位に、技能を下位に設けたアカデミーに起源をもつかもしれないが、現代アートにおいてもコンセプト重視で、制作を下位に置く慣習として残っているといえる。本書はその一つのアンチテーゼであり、理論と制作が不可分であり、双方を理解してこそ真の向上があるという主張にも思える。
渡邊は、その他にも、「福島ビエンナーレ」をはじめ、長年、多くの芸術祭の芸術監督を務めてきた。福島地方の芸術振興の顔でもある。そのような渡邊の多くの人々を結び付け、オーガナイズする力も、このような理論と制作を連動させる表現力が源になっているように思える。ダ・ヴィンチが「万能の天才」と言われ、万能であったが故に最高の絵画を描くことができた、ということは現在においても忘れてはならないと思える書である。