蒼海を越えた祈りの最高峰:特別展「宋元仏画」レビュー 日本文化に刻まれた奇跡の軌跡 宋元仏画—蒼海(うみ)を越えたほとけたち 京都国立博物館 黒木杏紀評

展覧会名:特別展 宋元仏画─蒼海(うみ)を越えたほとけたち
会期:2025年9月20日(土)~11月16日(日)
会場:京都国立博物館 平成知新館

京都国立博物館の平成知新館に足を踏み入れた瞬間、私たちは時空を越えた厳かで濃密な「祈り」の空気に包まれる。2025年秋、同館で開催されている特別展「宋元仏画─蒼海(うみ)を越えたほとけたち」は、日本国内に伝世する宋・元時代の仏教絵画、すなわち「宋元仏画」の全貌に迫る、過去最大規模の画期的な展覧会である。

出品総数170件以上、その約半数が国宝または重要文化財。この数字だけでも、本展がいかに稀有な機会であるかは明らかだ。だが、本展の真価は、単なる名品の羅列にあるのではない。数百年、あるいは千年近く前に異国の地で描かれた「ほとけ」たちが、いかにして荒波を越え、この日本で守られ、そして私たちの文化の血肉となっていったのか。その壮大なドラマと奇跡の軌跡を、圧巻の作品群が静かに、しかし雄弁に物語っている。

激動の東アジア—「宋元仏画」が生まれた土壌

本展の作品群を深く理解するために、まず私たちが立つべきは、10世紀から14世紀にかけての東アジアという、激動の舞台である。

当時の中国大陸は、巨大な唐王朝が滅亡した後、五代十国という分裂期を経て、宋(960~1279年)によって再統一された。宋代は、貴族に代わって科挙に合格した知的エリート「士大夫」が社会を支え、学問や芸術が極めて高度な洗練を迎えた、中国文化の黄金期の一つだ。しかし、その栄華は常に北方の異民族の脅威にさらされていた。北宋は女真族の金に首都を奪われ(靖康の変)、南宋として江南の地で命脈を保つも、最終的にはモンゴルのフビライ・カンが率いる元(1271~1368年)によって滅ぼされる。

一方、日本列島は、平安時代後期から鎌倉時代へと移行する大きな転換期にあった。貴族の支配が揺らぎ、武家政権が樹立される。相次ぐ内乱や天変地異は人々に「末法思想」を浸透させ、人々はより切実な救いを求めた。法然や親鸞による浄土宗、栄西や道元が伝えた禅宗など、新しい仏教がこの時代に花開いたのは偶然ではない。朝鮮半島では、高麗(918~1392年)が仏教を国教として篤く信奉し、宋や遼、金、そして後の元との間で、複雑な国際関係を舵取りしながら独自の文化を育んでいた。

「宋元仏画」とは、まさにこの激動の時代、ダイナミックな国際関係の中で生み出された芸術である。それは、宋の宮廷画院が追求した洗練の極致であり、江南の港町・寧波(にんぽう)などで日本や高麗からの注文に応じて制作された「舶載品」であり、そして禅宗の興隆が生んだ「水墨」という新たな精神表現でもあった。

日本の僧侶たちは、こうした先進の教えや文化を求め、命がけで荒波(蒼海)を越えて大陸を目指した。彼らが持ち帰った仏画は、単なる美しい「美術品」ではない。それは、混乱の時代に切実に求められた「祈り」のかたちであり、大陸の動乱を逃れた「文化の避難所」であり、そして何より、激動の歴史そのものを映し出す「証人」なのである。

第1章| 宋元文化と日本

憧れの「唐物」—足利将軍家が愛した最高峰の美
「宋元」という言葉は、日本では単なる王朝の名を超え、中世以来、特別な価値観をあらわすブランドであった。平安後期から鎌倉時代にかけて、日宋・日元貿易によって多くの舶載品がもたらされたが、それらが滅びた後の室町時代になっても、足利将軍家を中心に「唐物(からもの)」として珍重され、賞玩の対象であり続けた。その最たるものが、足利義満や義政のコレクション「東山御物」であり、座敷飾りの秘伝書『君台観左右帳記』である。本展は、仏画そのものに入る前に、まず日本人がいかに強く宋元文化に憧憬を抱いていたかを、選りすぐりの「唐物」によって提示する。

前期に展示された国宝「秋景冬景山水図」(伝徽宗筆、京都・金地院蔵)は、足利義満の収蔵印「天山」が捺された南宋山水画の名品だ。詩情豊かな画面は、日本の水墨画に多大な影響を与えた。

国宝 秋景冬景山水図 伝徽宗筆 中国・南宋時代 12 世紀 京都・金地院蔵 【前期:9月20日~10月19日】

また、同じく前期の重要文化財「蜀葵遊猫図・萱草遊狗図」(伝毛益筆、奈良・大和文華館蔵)は、その愛らしい動物の描写が狩野派をはじめとする日本の絵師たちに学ばれた。

重要文化財 蜀葵遊猫図・萱草遊狗図 伝毛益筆 中国・南宋時代 12~13世紀 奈良・大和文華館蔵【前期:9月20日~10月19日】

こうした絵画だけでなく、重要美術品「曜変天目(油滴天目)」(東京・根津美術館蔵)のような茶碗、あるいは漆器や青磁が、いかに日本の美意識、特に「わび・さび」の形成に深く関わったか。この章は、宋元「仏画」が日本で尊ばれた背景には、こうした宋元「文化」全般への底知れぬ憧れがあったことを、雄弁に物語る導入となっている。

第2章|大陸への求法—教えをつなぐ祖師の姿

海を越えた絆—師から弟子へ、法脈を伝える「生身」の肖像
宋元仏画が日本にもたらされた最大の原動力は、前述した「求法」の情熱である。仏教の先進国であった中国に最新の教えを求め、幾度も海を越えた日本僧たち。彼らは聖地や有力寺院を訪ね、教えを受けるだけでなく、その証として師の肖像画(頂相)や、信仰の対象となる仏画、経典などを日本へ持ち帰った。

本章は、その交流の熱量を「ひと」の姿、特に祖師たちの肖像を通して鮮烈に伝える。圧巻は、後期展示の目玉の一つである国宝「無準師範(ぶじゅんしばん)像」(京都・東福寺蔵)だ。無準師範は、南宋禅宗界の最高位「五山」の首座を務め、皇帝からも尊崇された当代随一の高僧である。この肖像は、彼の弟子となった円爾(えんに、のちの聖一国師)が、師から弟子へ教えが正しく伝えられた証(師資相承)として日本へ持ち帰ったものだ。

国宝 無準師範像 中国・南宋時代 嘉熙2 年(1238) 京都・東福寺蔵 【後期:10月21日~11月16日】

私たちは、この絵の前に立つと、まるで無準師範本人と対峙しているかのような錯覚に陥る。深く刻まれた皺、鋭くも慈愛に満ちた眼差し、かすかに蓄えられた髭。その描写は、単なる写実を超え、師の息遣いや内面までも生々しく伝える「生身(しょうじん)」の迫力に満ちている。これは宋代肖像画の最高傑作であると同時に、円爾がどれほどこの師を敬慕し、その教えを日本に伝えようとしたかという、熱い情熱の結晶でもあるのだ。

同じく後期に展示される重要文化財「道宣律師像・元照律師像」(京都・泉涌寺蔵)も、日本僧・俊芿(しゅんじょう)が南宋から持ち帰った律宗の祖師像であり、法脈の継承という目に見えない絆を「かたち」として伝える貴重な作例である。

第3章|宋代仏画の諸相—宮廷と地域社会

壮麗なる宮廷、篤き民の祈り—宋代が生んだ「ほとけ」の多様性
宋代の仏画は、すべてが禅僧の交流によってもたらされたわけではない。本章では、宮廷の洗練された美意識を反映した壮麗な作品から、寧波など江南の地域社会で、篤い信仰のもとに制作された作品まで、その豊かな多様性が示される。本展のハイライトの一つであり、前期展示で圧倒的な存在感を放ったのが、国宝「孔雀明王像」(京都・仁和寺蔵)である。

国宝 孔雀明王像 中国・北宋時代 11~12世紀 京都・仁和寺蔵 【前期:9月20日~10月19日】

北宋後期、11~12世紀の作とされるこの仏画は、まさに宋代絵画の到達点を示す。
通常一面四臂で描かれることが多い孔雀明王が、ここでは三面六臂という経典に明確な典拠のない姿であらわされている。その謎多き図像もさることながら、見る者を惹きつけてやまないのは、その超絶的な表現力だ。慈悲と威厳を兼ね備えた尊顔、空間を埋め尽くす孔雀の壮麗な羽根、幻想的な雲気。その緻密さと荘厳さは、宮廷あるいはそれに準ずる最高レベルの工房で制作されたことを物語っている。

一方で、南宋時代の仏画は、より内省的で、新たな信仰のかたちを模索する。後期展示の国宝「阿弥陀三尊像」(普悦筆、京都・清浄華院蔵)は、その白眉と言えるだろう。中央に阿弥陀如来、左右に観音・勢至菩薩を配す構成は一般的だが、その表現は特異だ。輪郭線を極力抑え、淡彩のぼかしを多用し、三尊全体を大きな舟形の光背がぼんやりと包み込む。それは、極楽浄土から「来迎」する力強い姿ではなく、鑑賞者の「心の中」に静かに浮かび上がるような、内なる仏の姿である。これは、仏も浄土もすべては自己の心の中にこそ存在する(唯心浄土)という、当時の中国浄土教の思想を反映していると指摘される。普悦という画家の名は中国の記録にはないが、日本の『君台観左右帳記』にその名が記されたことで、その価値が認められ、後世に伝えられた。

国宝 阿弥陀三尊像 普悦筆 中国・南宋時代 12~13世紀 京都・清浄華院蔵 【後期:10月21日~11月16日】

また、通期で展示替えされながら紹介される重要文化財「五百羅漢図」(林庭珪・周季常筆、京都・大徳寺蔵)は、南宋・淳熙年間に、寧波郊外の寺院に施入された全100幅に及ぶ大作である。1幅に5人ずつ描かれる羅漢たちの生き生きとした姿はもちろん、注目すべきは、画中に羅漢への供養(羅漢供)や勧進に参加する「当時の人々」の姿がリアルに描きこまれている点だ。これは、地域社会の有力者たちが一体となって成し遂げた大事業の「記録」であり、専門の仏画師工房の活動実態を知る上でも一級の資料である。

左:重要文化財 五百羅漢図(羅漢供) 林庭珪・周季常筆 中国・南宋時代 淳煕5~15年(1178~88) 京都・大徳寺蔵 【前期:9月20日~10月19日】 
右:重要文化財 五百羅漢図(勧進五百羅漢) 林庭珪・周季常筆 中国・南宋時代 淳煕5~15年(1178~88) 京都・大徳寺蔵 【後期:10月21日~11月16日】

第4章|牧谿と禅林絵画

墨一色に込められた宇宙—日本を虜にした禅僧画家・牧谿
宋元仏画のもう一つの大きな潮流が、禅宗の精神性を反映した水墨画である。本章は、本展の核となるセクションだ。南宋末から元初に活躍した禅僧画家・牧谿(もっけい、法常)は、日本美術史において最も重要な中国画家と言っても過言ではない。墨を面的に使う「破墨」や、筆数を極端に減らす「減筆体」を駆使し、簡潔ながらも対象の本質をえぐり出す彼の画風は、当時の中国では「粗野」と酷評され忘れ去られた。しかし、日本では禅の精神を最もよく体現するものとして最高の評価を受け、「和尚の絵」(和尚様)として足利将軍家をはじめとする権力者や茶人たちに愛好され、絶対的な手本となった。

その牧谿の随一の名品として、日本水墨画の歴史を決定づけたのが、後期に満を持して登場する国宝「観音猿鶴図」(京都・大徳寺蔵)である。 中幅に、岩上で瞑想する「白衣観音」。その姿は、悟りを求める修行者の理想像を象徴する。左幅には、竹林から歩み出て空を仰ぎ鳴く「鶴」。右幅には、古木にぶら下がり、何かを求めるように腕を伸ばす「猿」。古来、「猿啼」や「鶴唳」は、隠棲生活の静寂と、深淵なる禅の悟りを連想させるものであった。 牧谿は、水墨の濃淡、滲み、かすれを巧みに操り、湿潤な大気と、観音が瞑想するどこまでも清浄な空間を見事に描き出している。特に猿の毛並みや、背景の竹林の表現は、後世の日本画家に計り知れない影響を与えた。

国宝 観音猿鶴図 牧谿筆 中国・南宋時代 13世紀 京都・大徳寺蔵 【後期:10月21日~11月16日】

第5章|高麗仏画と宋元時代

金と丹が織りなす荘厳—宋元と響きあう、もう一つの仏画
宋と元の時代は、朝鮮半島の高麗王朝(918~1392年)の歴史とほぼ重なる。高麗は仏教をあつく信奉し、宋や元と密接に交流しながら、極めて高度で洗練された仏画を生み出した。本章では、中国の宋元仏画との関連性に光を当てながら、高麗仏画独自の魅力を紹介する。高麗仏画の最大の特徴は、金泥(きんでい)を贅沢に用い、丹色(赤)や緑青(緑)との鮮やかなコントラストを活かした、緻密で華麗な装飾性にある。

前期に展示される重要文化財「弥勒下生変相図」(李晟筆、京都・妙満寺蔵)は、縦2メートルを超える大画面に、未来の救世主である弥勒がこの世に下りて説法する劇的な場面を描き出す。王室画家・李晟の名が記された、高麗仏画の基準作である。

重要文化財 弥勒下生変相図 李晟筆 朝鮮半島・高麗時代 至元31年/忠烈王20年(1294) 京都・妙満寺蔵 【前期:9月20日~10月19日】

また、後期展示の「水月観音像」(奈良・大和文華館蔵)は、岩上にくつろぎ、水面に映る月を観想する観音の姿を、透けるような衣の繊細な筆致と金泥の華麗な文様で描き出した、高麗仏画を代表する主題の名品だ。これらの作品は、宋元仏画とは異なる、もう一つの「最高峰」の祈りのかたちを示している。

水月観音像 朝鮮半島・高麗時代 13~14世紀 奈良・大和文華館蔵 【後期:10月21日~11月16日】

第6章|仏画の周縁—道教・マニ教とのあわい

ほとけ、仙人、異教の神—うつろう「聖なるもの」のイメージ
本展の構成が巧みなのは、仏画を「仏教」という枠だけに閉じ込めず、隣接する宗教との関係性にも目を向けさせてくれる点だ。中国大陸は、仏教、道教、儒教、さらにはペルシャから伝わったマニ教など、多様な思想が混淆し、影響を与えあった「るつぼ」であった。

本章では、そうした宗教の境界を越えて共有された「聖なるもの」のイメージが探求される。前期に展示される重要文化財「蝦蟇鉄拐図」(顔輝筆、京都・百萬遍知恩寺蔵)は、道教の仙人を描いたものだが、その強烈な個性を持つ画風は、仏教人物画にも大きな影響を与えた。

重要文化財 蝦蟇鉄拐図 顔輝筆 中国・元時代 13~14 世紀 京都・百萬遍知恩寺蔵 【前期:9月20日~10月19日】

さらに衝撃的なのは、後期展示の「六道図(個人の終末論)」(奈良・大和文華館蔵)である。一見すると、死後の魂の裁判と輪廻転生を描く仏教の「六道図」や「十王図」のようだ。しかし、中央で三尊のように描かれているのは、なんとマニ教の教祖マニなのである。仏画の図像や形式を借りることで、異教であるマニ教が中国社会に布教しようとした様がうかがえる、極めてスリリングな作例だ。

第7章|日本美術と宋元仏画

巨匠たちの「手本」—模倣から創造へ、日本美術の血肉となる
最終章は、これら海を越えた「ほとけ」たちが、日本でいかに受容され、新たな創造の糧となったかを明らかにする。宋元仏画は、単に「憧れ」や「手本」であっただけでなく、日本の画家たちが乗り越えるべき偉大な「壁」でもあった。

後期展示の重要文化財「枯木猿猴図」(京都・龍泉庵蔵)は、桃山時代の巨匠・長谷川等伯が、まさに第4章の牧谿「観音猿鶴図」(の猿幅)に真正面から挑んだ作品だ。粗放な筆致、墨の濃淡の劇的な変化は、等伯が牧谿の技法を徹底的に学び、自らのものとしたことを示している。しかし、牧谿の描く猿が禅的な静寂を内包していたのに対し、等伯の猿は、荒々しい生命力と躍動感に満ちあふれている。これはもはや「模倣」ではなく、偉大なる先人との時空を越えた「対話」であり、新たな日本の美の「創造」である。

重要文化財 枯木猿猴図 長谷川等伯筆 桃山時代 16世紀 京都・龍泉庵蔵 【後期:10月21日~11月16日】

また、10月21日から11月3日までの後期限定で公開された国宝「蓮池水禽図」(京都国立博物館蔵)は、俵屋宗達の水墨画の最高傑作の一つだ。宋元画、特に牧谿の画風(和尚様)の本質を深く理解した宗達が、その墨の技法を日本古来の「やまと絵」の装飾性と融合させた、奇跡的な一点である。

重要文化財 枯木猿猴図 長谷川等伯筆 桃山時代 16世紀 京都・龍泉庵蔵 【後期:10月21日~11月16日】

前期に展示された曾我蕭白の重要文化財「群仙図屏風」(文化庁蔵)が、第6章の顔輝(がんき)の強烈な人物表現(顔輝様)を、さらに過激に増幅させて奇想の世界を生み出したように、日本の巨匠たちは皆、宋元仏画という偉大な「手本」と格闘し、そこから独自のスタイルを築き上げていったのだ。

重要文化財 群仙図屏風 曾我蕭白筆 江戸時代 明和元年(1764) 文化庁蔵 左隻 【前期:9月20日~10月19日】

重要文化財 群仙図屏風 曾我蕭白筆 江戸時代 明和元年(1764) 文化庁蔵 右隻 【前期:9月20日~10月19日】

文化の奇跡、その継承者として

特別展「宋元仏画」は、私たちに二つの大きな「奇跡」を提示する。一つは、およそ800年から1000年も前に、異国の地で描かれた紙や絹の絵画が、戦乱や天災、そして故郷での忘却という運命をくぐり抜け、今なお私たちの目の前に圧倒的な美と存在感を放って存在しているという「保存の奇跡」である。

そしてもう一つは、より重要な「文化受容の奇跡」だ。本展が明らかにするのは、宋元仏画が単なる「舶載品」として珍重されただけではなかった、という事実である。それは、中世の求法僧たちの命がけの情熱によってもたらされ、足利将軍家によって価値づけられ、そして牧谿を等伯が、顔輝を蕭白が受け継いだように、日本美術の「規範」として、あるいは乗り越えるべき「壁」として、私たちの美意識の根幹を形作ってきた。

宋元仏画は、もはや「中国の絵画」であるだけでなく、まぎれもなく「日本の文化遺産」の一部なのである。 海を越えて最高峰の祈りと美を求めた先人たちの情熱と、それを受け入れ、守り、自らの文化として昇華させた日本の包容力。その両方があったからこそ、私たちは今、京都の地でこの奇跡を分かちあうことができる。これほど豊かで、示唆に富む芸術体験は、そうあるものではない。

特別展 宋元仏画─蒼海(うみ)を越えたほとけたち メインビジュアル

 

京都国立博物館

 

 

 

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兵庫県出身。大学卒業後、広告代理店で各種メディアプロモーション・イベントなどに携わった後、心理カウンセラーとしてロジャーズカウンセリング・アドラー心理学・交流分析のトレーナーを担当、その後神戸市発達障害者支援センターにて3年間カウンセラーとして従事。カウンセリング総件数8000件以上。2010年より、雑誌やWEBサイトでの取材記事執筆などを続ける中でかねてより深い興味をもっていた美術分野のライターとして活動にウェイトをおき、国内外の展覧会やアートフェア、コマーシャルギャラリーでの展示の取材の傍ら、ギャラリーツアーやアートアテンドサービス、講演・セミナーを通じて、より多くの人々がアートの世界に触れられる機会づくりに取り組み、アート関連産業の活性化の一部を担うべく活動。