老境で得た瑞々しいスナップショット
植田正治が生誕してから100年経つ。写真界で植田の名前を知らない人はいるまい。植田は鳥取県の境港で1913年に生まれ、2000年に87歳で亡くなった。ちなみにアンリ・カルティエ=ブレッソンは、1908年に生まれ、2004年に95歳で亡くなっている。
つまり、ブレッソンと同じく写真がメディアとして確立し、そして芸術としても認められるようになった20世紀を生きた人物ということになるだろう。
植田の作品を今日まで印象付けているのは、鳥取砂丘でのシュールレアリスム的で演出的、構成的な作品群だろう。植田=鳥取砂丘と連想されるくらいその結びつきは強いように思う。
そのモダニズム的でハイセンスな作風が、山陰という日本の中央から離れた地方で制作されたことも驚きであるし、砂丘という突出した自然を反転させて、人工的な背景布のように利用したことも画期的だった。
まさに、シュールレアリスムに多大な影響を与えたロートレアモンの有名な言葉「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」ならぬ「砂丘の上での、偶発的な出会い」を様々なオブジェや人々で実践したのだ。砂丘は特定の場所であり、特定の場所ではない、という二律背反した非場所的場所として扱われている。
さぞ、鳥取砂丘が植田にインスピレーションを与え続けたことだろうと思うが、植田のいた境港は、鳥取砂丘のある鳥取市内よりも、島根県の松江や出雲に近く、文化圏としてもそちらの影響が強いだろう。
境港出身では漫画家の水木しげるが著名である。ラフカディオ・ハーン=小泉八雲が山陰に色濃く残っていた民間信仰や妖怪伝説からインスピレーションを受け『怪談』などを著したように、水木しげるもまたそれらをモチーフに漫画にしていった。
水木しげるよりも約10歳年上である植田が、そのような霊的な環境からスポイルされているわけはないだろう。しかし、植田の作品はそういう影響よりも、徹底したモダニズムの上に立脚しているように思える。
おそらく当時のカメラ雑誌から国際的な視野や写真表現のエッセンスを得ていたのだろう。つまり、植田の作品は、郷土文化の影響というより、世界に開かれていったカメラ雑誌とそれを鋭敏に受け取った感性によって生まれたということになる。
しかし、文化の中心地でメディアの洗礼を受けずにそれを実践することは難しい。日本の地方に住みながら世界的な感覚を持ち、なおかつ独創的な表現をしていたことは彼のずば抜けたセンスを表していると言える。とは言え、ほとんど旅行しなかった植田にとって境港は、「植田調」を育んだ源泉であったことに変わりはない。モノクロ写真と曇天の多い山陰の風景は、独特の「調子」を生み出すのに最適な条件だったのかもしれない。
前置きは長くなったが、この『印籠カメラ寫眞帖』は、95年から97年まで『アサヒカメラ』で連載されたフォトエッセイ「印籠カメラ寫眞帖」と秘蔵写真からまとめられた最晩年の作品集である。「印籠カメラ」とは、80歳を超え、現役写真家として長老になった植田が、35mmのコンパクトカメラを「このカメラが目に入らぬか!」と印籠のように掲げた逸話から取られたものだ。往年の演出的な作品ではなく、片手に収まるコンパクトカメラ(ペンタックスのエスピオ、フジのティアラ)を携えて、日常の風景をスナップショットで鮮やかに切り取っている。また、広島、岡山、高知、東京、北海道など、結構遠出をしているのも興味深い。
共通点があるとしたら、被写体と色を厳選した洗練された構図ということになるだろうか。体調を崩し入院中の写真もあるが、文章が添えられてないと気付かないだろう。老人になっても、体調を崩していても、負担の少ないコンパクトカメラでは影響は出にくいこともあるが、瑞々しさやユーモアが失われていないことに改めて感心する。地方で先鋭的な作品を作り続けた植田は晩年になりさらに新たな境地を開いたのかもしれない。
写真のデジタル化を待たずに亡くなった植田が今日生きていたらどのような写真を撮ったのだろう。スマートフォンが「印籠」に成り得ただろうか?興味は尽きない。
初出『shadowtimes』Vol.50、2013年11月14日