目からの解放と心眼の獲得
いずれ感想を書こうと思っていたのだが、本書ほど通読に時間がかかった本もなかなかない。忙しくて読む時間が細切れだったこともあるが、内容が読み飛ばしにくく、筆者が構造をしっかりと作った本だからだ。
簡単に言えば、本書は複数の視覚障害者及び支援者にインタビューを行い、彼らが置かれている客観的状況ではなく、個々人の視点に立って彼らが認識している世界をできるだけ丁寧に記述し、晴眼者とは異なる感覚、認識、身体、さらにそこから生み出される解釈や意味が、社会全体にもたらす可能性について書かれたものである。
生物学者の福岡伸一氏が帯に「驚くべき書き手が登場した」推薦しているように、筆者自身が個人的なエピソードを織り交ぜ、視覚障害者と接して感じた驚きや感動を瑞々しい文体で書いており、臨場感が伝わってきて読ませる力がある。
福岡伸一氏の推薦文は正確には、「<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること。テーマと展開も見事だが、なんといっても、やわらかで温度のある文体が素晴らしい。驚くべき書き手が登場した。」である。
にも拘らず、なぜ読むのに時間がかかったか、であるが、主要な登場人物である、6人の視覚障害者と関係者に関するエピソードが、空間、感覚、運動、言葉、ユーモアという章立てで再編されており、個々人のイメージを掴み難いという点が挙げられる。
その一方で、関心のありそうなところだけを読み飛ばそうとすると、筆者の言いたいことが、個々人のエピソードごと欠落してしまうように思える。だから、小説のように、筆者の章立てに沿って、一から読んでいかねばならず、読み通すにも、咀嚼するにも時間がかかった、ということである。
筆者は当初、生物学者を志したものの現在の生物学の蛸壺的研究では世界全体を把握する助けにならないと感じ、途中で現代アートや美学の研究に文転した経緯がある。そして、生物の認識に革命的な影響を与えた、著名な生物者、哲学者であるユクスキュルの「環世界」などを参照する考え方として出している。つまり、異なる知覚を持つ生物は、それぞれ特有の世界認識がある、という考え方である。
それに倣えば、視覚障害者も、晴眼者と異なる環世界を持っており、情報が不足して不便であるというのは、客観的事実もあるが、晴眼者の思い込みも多分に含まれている、ということになる。同時に、晴眼者から見ても視覚障害者が獲得している知覚や認知、その世界には発見がたくさんあり、それを知ることで、一方通行的な福祉(情報提供)から、双方向的な世界(意味の交換)に変わる、という仮説を立てている。
ただ、視覚障害者の障害は一様ではないため、人物像が頭に入っていないと、獲得した知覚や認知の文脈と意味を理解しずらい。最初から全盲の方もいれば、途中で失明した人もいる。弱視から徐々に失明した人もいる。視覚障害者は、障害者の中でもかなり多様性をもっているといえる。
しかし、多様性の提示だけでは、普遍的な議論にならないので、彼らが獲得している知覚や認知、世界観をテーマ別にし、再整理されている。ただ、インタビューが元になっているので、個別のエピソードが非常にディテイルが細かく、その断片をつないで普遍化しようとしているので、そのレベル差に戸惑ってしまう。さらに、頭に入っていない人物像のエピソードが錯綜して入ってくるので余計に混乱する要素になっている。
もちろん、テーマ別に整理された内容はそれぞれ非常に興味深い。空間、感覚、運動、言葉、ユーモアというのも練られた整理だと思う。筆者の筆力によってまとめ上げられていてると思うが、その他のまとめ方の可能性もあったかもしれない。ただ、大胆な説だけに、なるべく誤解を生まないように、丁寧に網羅的に記述したということも読みずらさの理由としてはあるだろう。
とはいえ、この本が面白いことは間違いないので、本全体の意図や内容を非難するものではまったくなく、それだけにもう少し違う記述方法があったかどうか気になる、ということに過ぎないということをお断りしておく。
特に興味深かった点を挙げよう。まず、目が見えないことで、空間に視点がなくなり、空間全体で把握する思考になっていること。つまり3次元から2次元に変換しないので、3次元の空間を3次元のまま理解しているのだ。それによって、世界に対する理解は大幅に変わる。
見ることは、読むこと、眺めることは、目だけの特権ではなく、時に触覚や耳などが代行していること。実際、「見る」という言葉を視覚障害者も使っている。これに関しては、そもそも「見る」という言葉が、目で見ることをだけを指していなかった、日本語(大和言葉)の根源に戻るようで興味深い。あくまで五感が分化し、優劣がつけられたのは19世紀以降の西洋の影響が大きいだろう。それは共感覚的な問題とも重なってくる。
目を対象物に向ける必要がなくなり、情報量の多い目に惑わされることがない。身体的には歩く行為が、こけないことに重点が置かれ、体のバランスが良くなり、足に「探す」という役割が増える。
例に出されている、ブラインド・サッカーに関して言えば、ブラジル代表のルリカルド・アウベスは、空間把握能力が非常に長けており、自分の位置をはっきり認知していることがわかっている。脳を測定してみると、空間把握や記憶を司る海馬が発達している、という。そこにはリカルドが完全に失明したのが8歳と早い時期だったこと、サッカーの練習によって脳と身体が発達したこと、という二つの要因があるだろう。
だから、何歳で失明したか、どのような訓練を受けているかによって、視覚障害者が築いている世界も変わってしまう。視覚障害者は、海馬だけではなく、脳の視覚野の領域も使うようになっていくのだ。それだけ視覚が占めている脳の領域は大きいため、世界を変える可能性もまた大きいと言えるかもしれない。
その他、視覚障害者を頼りに暗闇を散策する、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」や、美術鑑賞を視覚障害者と一緒に見る「ソーシャル・ビュー」によって、視覚障害者にアートを説明する中で、実は人々が解釈している世界も多様であることがわかることなど、刺激的な内容に満ちている。
そもそも現代アートや美学研究出身の筆者が、視覚障害者の認知の世界を研究するきっかけは、「ソーシャル・ビュー」が大きなきっけとのことで、そこから生物学者を目指していた頃の考え方が結びついて、ユニークな研究になったことはとても興味深い。参与観察を重視する、文化人類学的なアプローチを視覚障害者に適用しているともいえる。
個人的には、本書によって、「見る」とは目だけに属す言葉ではない、ということを、改めて理解する重要なきっかけになった。そして、視覚障害者は、目から離れることで、質の異なる「見る」経験を獲得しているといえ、我々の目を疑うきっかけになるだろう。そもそも障害者と健常者の区別は必ずしも明確に分けられるものではないが、支援の対象であるという視点だけではなく、異なる知覚や認知で世界を「見ている」存在であるという認識の普及は、明らかに世界を豊かにしてくれるだろう。
初出『shadowtimesβ』2016年2月16日