日本美術史を塗り替える、大阪の女性画家たちの知られざる活躍「決定版!女性画家たちの大阪」大阪中之島美術館 三木学評

日本美術史を塗り替える、大阪の女性画家たちの知られざる活躍

展示風景

「決定版!女性画家たちの大阪」
会期:2023年12月23日~2024年2月25日
会場:大阪中之島美術館

 2022年2月、大阪中之島美術館が構想40年、計画されてから30年の時を経て、大阪に近代美術館がようやく開館した。東京国立近代美術館、京都国立近代美術館が東西にあるが、独自の美術の生態系を育んでいた大阪の動向は、近代美術館がないことによって、大きく遅れていたといってよい。さらに、大阪には国公立の美術・芸術大学がないことも、調査する人材の供給や研究の積み重ねを難しくしていた。

それだけに、昨年、開館1周年記念特別展として開催された「大阪の日本画」展では、60名を超える画家による約150点の作品が一堂に会し、近代大阪の日本画の実態がある種の驚きを持って迎えられたといっていいかもしれない。そこにあったのは、むしろ近世と連続した生活や社会であり、絵画の様式であったといえるだろう。

日本美術史を学ぶとき、江戸時代と明治時代には明確な切断線がある。幕藩体制が終了し、狩野派などの御用絵師は、幕府や藩、公家といった重要なパトロンを失うことになる。さらに、1868(明治元)年の神仏分離の令(神仏判然令)の影響により、全国で廃仏毀釈運動が盛んになり、もう一つの大きなパトロンであった寺社仏閣の力も弱くなる。その後、各地で破壊された仏像に、宗教的価値ではなく、美術的価値を見出したのが、お雇い外国人の一人であったアーネスト・フェノロサである。

その際、江戸の絵画も海外に多く流出したが、同時に狩野派や円山・四条派といったさまざまな流派で伝承されてきた技法も失われていく。それを憂いたのが、佐野常民、河瀬秀治、九鬼隆一らがつくった「龍池会」(後の日本美術協会)である。フェノロサも龍池会の会員かつブレーン的存在であり、1882(明治15)年に龍池会で行った講演(後に『美術真説』(大森惟中訳)として出版)が、日本画の方向性を決めていく。そこで洋画に対する日本画の優位を説いたが、同時に漢文や漢詩の画賛を必要とする文人画(南画)を排斥した。いっぽうで当時、フェノロサは自身の理想に見合う日本画を見出すことができず、狩野芳崖、橋本雅邦らと新たな日本画の創出を目指すようになる。フェノロサはさらに、美術学校や官設の美術展も提唱していた。それに文部省の役人であった、九鬼隆一や岡倉覚三(天心)、今泉雄作らが呼応し、「鑑画会」を発足させ、1887(明治20)年の東京美術学校(後の東京藝術大学)の設立に結実する。その過程で、書画や浮世絵、さまざまな工芸が切り離され、西洋化した日本の美術や美術教育が誕生する。いっぽうで、京都では、1880年(明治13)年、 京都府画学校(後の京都市立絵画専門学校、戦後に京都市立芸術大学)が設立され、南画、大和絵、狩野派などの諸派が教えられたが、技法の一つになっていき、書は切り離されただろう。

さらに、文部省に美術審査委員会を設けられ、1907(明治40)年から、官設公募美術展(官展)である文部省美術展覧会(文展)が始まる(後に帝国美術院美術展覧会)。本場フランスでは、すでにサロンは民営化され、アカデミーも、フランス革命による改革や、反アカデミーの印象派などが台頭して以降、力を失っていたが、日本の場合はそれらを遅れて取り入れたことになる。1912(大正元年)の第6回文展から、日本画を審査する文展一部は、東洋画の伝統を重視する旧派の第一科と、西洋画の技法を取り入れる新派の第二科に分かれて審査されるようになり、1919(大正8年)の帝国美術院創設に伴って帝国美術院美術展覧会(帝展)と改称された。その他、岡倉天心が創立した日本美術院、没後の再興日本美術院をはじめ、複数の在野団体の公募美術展が開催されるようになる。

日本美術史は大きく以上のような流れとして習うわけだが、それはあくまで国家や東京・京都を中心とした見方であって、大阪においては、船場の商人を中心に、書画も盛んであり、床の間に掛け軸として絵画が飾られ、学校ではなく画塾で技法が伝承されていたという事実が、「大阪の日本画」で明らかにされていたのだ。その点では、「大阪の日本画」の方が伝統的なものを継承しており、フェノロサに端を発するJapanese painting=日本画の方が捏造されたものだといっていいかもしれない。

そして、「大阪の日本画」展の中でも一際目についたのが、女性画家の存在感だった。それも、大阪の環境と無関係ではない。つまり、美術学校という枠組みではなく、船場の良家の子女(いとさん、こいさん)が、お稽古事として、日本画を茶道や華道と同列に絵を習うことは特別なことではなく、茶道や華道が室内のしつらえや客人のおもてなしの作法であったことと同じように、日本画を描き、掛け軸にして飾ることが生活と切り離されてなかったことが大きいだろう。

近代大阪で活躍した女性画家の代表格が、島成園(しませいえん)だ。そもそも本展の起点は、2006年に大阪・なんば髙島屋で開催された「島成園と浪速の女性画家」展にあるという。ターミナル駅に隣接した百貨店が会場であったということもあるかもしれないが、なんと13日間で2万人を超える来場者が集まったという。その際、現在の大阪中之島美術館の所蔵品が多数出品され、今回の「決定版! 女性たちの日本画」展をキュレーションした小川知子が学術協力を行ったという。その反響を受け、大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室で開催されたのが、「女性画家の大阪―美人画と前衛の20世紀」である。この際、展覧会図録に、「将来開かれる決定版の展覧会(実現するなら近代美術館の開館後であろう)への布石と位置付けたい」(p.8)の記載していたことが、本展の展覧会名の由来となった。

2006年当時、私は大大阪時代(大正~昭和初期)に立ち並んでいた近代建築の利活用の運動をしており、時代的にも重なっているのだが、そのような展覧会が開催されていたことを覚えておらず、すっかり見落としていたことが悔やまれる。2006年からすでに17年の月日が流れ、戦前に活躍していた女性画家の研究も進み、満を持しての展覧会が本展ということになる。ただし、本展を見てもわかると思うが明らかになったのは、まだまだどのような活動をしていたか詳細がわからない膨大な女性画家がいるということだ。本展では、明治から大正、昭和時代に活動した大阪ゆかりの女性日本画家59人による作品186点を紹介されているが、知られてない画家の方がはるかに多いだろう。本展図録にも、「決定版」と冠したことが自分たちを苦しめ、むしろ詳細が不明な作家や作品が年々増え、研究上の課題や山積の一途をたどると述べている。しかし、それこそ日本画の可能性といえるかもしれない。

さて、本展では第一章「先駆者、島成園」を起点に、第二章「女四人の会-島成園、岡本更園、木谷千種、松本華羊」、第三章「伝統的な絵画-南画、花鳥画など」、第四章「生田花朝と郷土芸術」、第5章「新たな時代を拓く女性たち」で構成されている。

島は、画塾に入って師についたわけではなく、図案家の兄、島御風の仕事を手伝いながら独学によって絵を描くようになった画家だが、20歳で1912(大正元)年、《宗右衛門町の夕》で第6回文部省美術展覧会(文展)に入選。一躍全国的に知られるようになる。そして、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに、「三都の三園」と称された。

島がユニークなところは、いわゆる「美人画」の型にはまってないところだろう。もちろん、「艶麗な女性像で高い人気を誇った」(p.17)とされているので、妙齢の女性をつややかに描くことに長けていたのは間違いない。しかし、船場の子供たちの社会階層を着ている服や距離感によって描き分けた《祭りのよそおい》(大正2年、大阪中之島美術館蔵)や、姥や般若が描かれた女面が描かれた着物の上半身を脱いで、長い髪を梳く《おんな(黒髪の誇り)》(大正6年、福富太郎コレクション資料室蔵)細長い人体像にした太夫を描いた《伽羅の薫》(大正9年、大阪市立美術館蔵)、そして自分の顔に黒いあざをつけた自画像《無題》(大正7年、大阪市立美術館蔵)など、社会風刺から内面描写までさまざまな技法で描き分けている。また、人物デッサンの正確さを見ると、写真を使ったのではないかとも思える。

この時代、世界的にも第一次世界大戦後の人手不足により、働く女性が増え、社会には新しい女性が進出するようになった。また、『白樺』のような雑誌で、海外の美術が多数紹介されており、そのような影響も見て取れる。28歳で銀行員と結婚し、上海に引っ越ししてから上海の女性を描いている点も興味深い。洋装・短髪のモダンガールは描いていないものの《若き婦人》(昭和4年、大阪市立美術館蔵)などは、流行を取り入れた短髪の女性を描いている。

この時代の面白さは、女性の服がまだまだ着物が主流であるため、歴史的なテーマや花街、伝統的な風俗も違和感なく描いている点だろう。大阪の茶屋はほとんど残っていないので、当時の文化を知ることできる。結婚後は創作量も減り、その後戦争に向かうのでさらに創作は難しくなったと思うが、晩年まで小品を描き続けたという。1970年に没しているので、戦後の歩みを知りたくなった。

第二章の「女四人の会」は、島成園、岡本更園、木谷千種、松本華羊からなる女性画家のグループだ。島に続いて、岡本更園、木谷千種、松本華羊らも20代前半で文展に入選した勢いのある女性画家たちだった。「女四人の会」は、井原西鶴の『好色五人女』を研究し、1916(大正5)年にその成果を発表したときの名称だという。生意気な行動だと批判されたとのことだが、残された4人の写真を見ると、そのような批判は折り込み済みといった面構えで、これからの時代を築いていこうという自負が見て取れる。

ジャンルとしては美人画に入るのだろうが、岡本更園にはアルフォンス・ミュシャのような、アール・ヌーヴォー風の影響が見られ、背景の木々と着物の文様による、図と地が地続きのような描き方や、背景や小道具を使って女性の動作がうまく表現されている。いっぽう、木谷千種は、大阪の伝統行事や人形浄瑠璃など画題を好んだということだが、それだけに人物というよりも、あるし映画のワンシーンのような描き方になっている。すでに映画も上映されており、古い風俗を描いた中に新しい視覚がどれだけ影響を与えていたか気になるところだ。ワイドな画面でも線遠近法が狂ってない点も見逃すことはできない。特に後期展示に出品される、《浄瑠璃船》(大正15年、大阪中之島美術館蔵)は、太夫と三味線弾きを乗せる浄瑠璃船は名作だろう。

かつて大阪では、夕涼みをするために大川に屋形船が出航し、その船客のために、物売りに加えて、落語や浄瑠璃など芸能の小舟も出たという。奥には船場商人の令嬢と使用人が乗り、手前には太夫が語り、三味線弾きが音色を奏でている。フォーカスは、白粉が塗られた令嬢の顔と手、三味線弾きの顔と手に当たっている。近づけると、二人の形はぴったりはまる。これもまた、西洋的な技法と日本的な感性や技法を高いレベルで組み合わせたといえるだろう。木谷千種は、画塾「八千草会」を主宰し、多くの弟子を育てた。松本華羊は、歴史的な題材を得意としたようだ。

第三章では、「伝統的な絵画」として南画や花鳥画が紹介される。「大阪の日本画」展で、瞠目したのも、近代においても南画が活発に描かれていたことだろう。文人画とも呼ばれる南画は中国の南宗画に由来するが、水墨画・山水画に漢詩などの賛を加えた絵画として、職人画家ではなく、文人の余技的な絵画として江戸時代中期以降に発達した。なかでも大阪は西日本の中心地でもあり、明治以降も盛んに描かれた。日本の美術教育において、書画が一体であった文人画が美術教育から外れたことは、つくられた「日本画」以上にゆがめられた可能性があるだろう。脳の観点から言っても、表意文字を使う日本人は絵も書のように見えるし、書も絵のように見えている可能性はある。書を読む力、見る力がなくなったことによって、かなりの教養が失われただろう。

南画は画壇がなく、男女のヒエラルキーもないため、さまざまな背景を持つ画家を集い、地域のサロン的な役割を果たしていたという。近代大阪を代表する南画家、河邊青蘭とその画塾出身の池田青溪、渡辺花仙、さらに河邊の師である、橋本青江も紹介されている。

ここでも、波多野華涯の《西洋草花図》(大阪中之島美術館、大正14年)のように、一般的になった西洋の草花が描かれたり、村岡小丘の《人形ごっこ》(昭和14年、関和男氏蔵)のような現在の玩具、融紅鸞《熱帯魚》(昭和4年、関和男氏蔵)のように、熱帯魚が泳ぐ水中などが描かれたりしており、新しいモチーフと画材による表現が目を引く。

第四章では、「生田花朝と郷土芸術」が取り上げられる。生田は、まさに近代大阪という美術を取り巻く環境や風俗の中で育まれた画家といってよいだろう。父は、文人の生田南水であり、幼少期から俳句、漢学、国学を学び、菅楯彦に師事して大和絵、万葉集、国学、有職故実、さらに北野恒富に人物画を学んだという。北野恒富と菅楯彦は、「大阪の日本画」でも大きく取り上げられていた近代大阪を代表する日本画家である。

大阪の社寺の祭礼を画題として多く取り上げており、資料性も高い。しかし、ここでもその伝統的な風俗というよりも、革新的な視覚の獲得との融合が注目に値する。例えば、《四天王寺聖霊会図(原題・四天王寺曼荼羅)》(昭和2年、大阪城天守閣蔵)では、四天王寺聖霊会を上空から魚眼レンズのように捉えている。同時代に同じような図が多く描かれているので、生田もそれ見て、四天王寺の伽藍や聖霊会を一望できる描く方法を発見したと言ってよいだろう。本作が大きいので、掛け軸は絵の部分しか展示できてなかったが、手前の石舞台はもう少し高い視点からの鑑賞を想定していたと思われる。そこから視線を南の塔に導くように設計されている。登場人物は多いが、それぞれに明確な役割を持っている点が、四天王寺を知り尽くした生田ならではといったところだろう。

四天王寺は、1934(昭和9)年9月21日、室戸台風によって五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)が壊滅し、1940(昭和15)年、五重塔が再建されたが1945(昭和20)年、大阪大空襲によって境内の全域が焼失したため、往時の姿を残す貴重な記録でもある。

さらに、《泉州脇の浜》(昭和11年、個人臓)には、泉州の浜を巨大な横長のパノラマによって描いている。基本的には漁民の仕事を描いているのだが、犬と遊ぶ人なども描かれている。おそらくそのような一見、無関係に見えるものほど当時の風俗を表すリアルなものだろう。パノラマ館は1891(明治24)年に難波にも開館している。生田が成長した頃はすでに閉館していたかもしれないが、吉田初三郎が描いたようなパノラマ的な表現は当時、多くの画家が取り入れており、生田の表現もその潮流の中にあるといってよいだろう。

第五章 展示風景

圧巻なのが第五章の「新たな時代を拓く女性たち」であり、無数の女性画家の作品が所狭しと展示されている。解説には、「美人画は雑誌の表紙や口絵、挿絵として好評を博し、知名度は全国的に高まった。男性と互角に活躍する女性画家は今日でいう俳優やタレントのような存在だった」(p.126)とある。本展の資料でも展示されているが、見逃せないのは新聞や雑誌、あるいは百貨店という新しいメディアの勃興であろう。北野恒富も、挿絵画家として新聞や雑誌、百貨店などのイラストを描いた。なかでも、1913(大正2)年に創刊された、『歴史写真』(歴史写真会)は、皇室関係や国内外のニュースを紹介した月刊グラフ誌であるが、その表紙を多くの大阪の女性画家が手掛けている。木谷千種や島成園、生田花朝といった本展でも紹介されている画家が並ぶ。おそらく、このような雑誌文化が新たな画風の確立にも影響しただろう。

吉岡美枝《樋口一葉》(1942)、《ホタル》(1939) いずれも大阪中之島美術館蔵

吉岡美枝《シイの実》(1941) 大阪中之島美術館蔵

石田千春《めんない》(1927) 関和男氏所蔵

橋本花乃《七夕》(1930-1931頃) 大阪中之島美術館蔵

「女四人の会」が容姿端麗な女性が集ったため、アイドル的な人気を博したことも大きいのだろう。画塾は、次の島や木谷を目指す、ある種のタレント養成所としてニーズがあったということかもしれない。島成園の画塾、木谷千種の八千草会、北野恒富の白耀社など多くの女性画家を輩出した。島の場合は古い方法であったようだが、木谷千種は、外部講師を招聘したり、塾展を開催したり、現在の専門学校に近いこともされている。それこそ今でいう、少女漫画の漫画家やイラストの「絵師」に近いかもしれないが、アカデミズムではない大衆文化の中で、多くの女性が活躍したことは改めて確認しておくべきだろう。ただし、多くの女性画家は、島成園のように、結婚を機会に創作する機会が減ったり、残念ながらやめてしまったりすることも多かった。そのような困難な状況の中で、創作していた女性画家たちの営為について改めて敬意を表したい。まだ正当な評価を得てない女性画家たちは多数存在する。本展は、その端緒となる「決定版」といえるだろう。

伊東成錦《羽子板》(大正後期) 三露千鈴《羽子板》(大正後期) いずれも大阪中之島美術館蔵

大正から昭和初期に活躍した大阪の女性画家の面白さは、いろいろな観点から言えると思うが、国家、東京・京都といった国公立の美術教育と切り離された独自の文化圏があり、江戸時代の文化や技法が継承されたこと。いっぽうで雑誌や写真、映画といった新しいメディアの台頭、国際的な文化の交流が増加し、それらの影響を受けていること。近世と近代という日本の過去と現在、西洋と中国といった2つの文化を咀嚼する土壌があったこと。「お稽古事」によって日本画だけではなく、多くの文化的教養を有していたこと。社会の中で働く女性が台頭してきたこと。関東大震災の影響もあり、大阪の政治・経済・文化が相対的に活況を呈していたこと。などが背景にあるといえるだろう。まだ詳細が不明な女性画家から、さらに時代の動向が見えてくるのではないか。

さて、戦後の大阪は、多くの富裕層は阪神間に移動したり、郊外に移住したり、政治経済の体制も大きく変わったため、この続きの物語は途切れてしまったのかもしれないが、具体美術協会(具体)のような、美術・芸術大学出身ではない画家たちの集まりの中から、多くの女性アーティストが生まれたことは無関係ではない。芦屋という戦前の大阪の富裕層が移住した地で、多くの女性が会員になったことは、画塾を中心とした大阪の文化を継承しているともいえる。アカデミックな規範がなく、吉原以外はフラットな関係であったからこそ、世界を驚かす冒険的な表現できたともいえよう。戦前の女性画家たちの物語は、目を凝らせば、今も続いているのである。

初出『美術評論+』2024年1月15日公開。

三木 学
評者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹─色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員、大阪府万博記念公園運営審議委員。

Manabu Miki is a writer, editor, researcher, and software planner. Through his unique research into image and colour, he has worked in writing and editing within and across genres such as contemporary art, architecture, photography and music, while creating exhibitions and developing software.
His co-edited books include ”Dai-Osaka Modern Architecture ”(2007, Seigensha), ”Colorscape de France”(2014, Seigensha), ”Modern Architecture in Osaka 1945-1973” (2019, Seigensha) and ”Reimaging Curation” (2020, Showado). His recent exhibitions and curatorial projects include “A Rainbow of Artists: The Aichi Triennale Colorscape”, Aichi Triennale 2016 (Aichi Prefectural Museum of Art, 2016) and “New Phantasmagoria” (Kyoto Art Center, 2017). His software projects include ”Feelimage Analyzer ”(VIVA Computer Inc., Microsoft Innovation Award 2008, IPA Software Product of the Year 2009), ”PhotoMusic ”(Cloud10 Corporation), and ”mupic” (DIVA Co., Ltd.).
http://geishikiken.info/

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