線の美を追い求め、筆を「使えた」最後の世代の最高峰の画家と謳われる、「吉川霊華│近代にうまれた線の探求者」展が、東京国立近代美術館で開催された。回顧展としては、一九八三年のサントリー美術館以来実に約三〇年ぶりである。
内容は、畢生の代表作《離騒》を始め、初公開作品を多数含む約一〇〇点。スケッチ帳三八冊、模写、草稿、資料、印章等も展示され、実見できる機会の少なさから幻とさえ呼ばれる霊華芸術の全体像を捉える上で非常に貴重で有益な機会であった。
霊華作品の魅力は、その要所に配される清華な淡彩は勿論、何よりもまずその大和絵や東洋美術に深く学んだ古典的な線描美にある。特に、同様に古典志向で線を大切にする同時代の少数派の画家達と比べても、精緻で流麗な運筆自体が霊妙な音楽的詩情を豊かに生み出す点を大きな特徴としている。また、日本や中国の故事伝説を踏まえた伝統的画題や、晩年の画と詩文が同質に一体化する画風、格調高い軸装等も、高雅な気品を醸し出している。
ただし、霊華の場合、そうした古典研究は、単なる懐古趣味に留まらず、古典美術を生み出した原初の心境自体を自らの創作に昇華させることで、独特の真実味溢れる清冽で典雅な絵画世界を創出することに成功している。「正しき伝統の理想は復古であると同時に未来である」という霊華の言葉も、その意味でこそ解されるべきであろう。
吉川霊華(きっかわ・れいか)は、明治八(一八七五)年に旧幕臣の儒学者の息子として東京湯島で生まれる。初め浮世絵や狩野派を学び、明治二八(一八九五)年頃に有職故実家の松原佐久に師事し、松原の影響で幕末の復古大和絵派の冷泉為恭に私淑する。さらに、平安・鎌倉期の古絵巻等を模写し、大和絵の豊かな筆線表現を研究する。
明治四四(一九一一)年の初出品以後は、文展への出品を止め、孤高に研鑽を積む。大正五(一九一六)年に、結城素明、平福百穂、鏑木清方、松岡映丘と金鈴社を結成し、日本や中国の古典美術の研究に邁進する。大正一一(一九二二)年には帝展の審査員に任命されるが、帝展への出品は大正一五(一九二六)年の《離騒》ただ一度だけであった。
申し分ない経歴にもかかわらず、霊華が長らく忘れられた存在となったのは、元々寡作である上に、官展への出品が極めて少なく、その作品の殆どが霊華芸術を支援した個人の所蔵品であることが大きい。しかし、それ以上に重要なことは、霊華が当時の画壇の主流から距離を置き、終生独自の画道を追求したために美術史的評価が遅れた問題である。
当時の画壇の主流は西洋的近代化であり、日本画でも、視覚的造形性のみに純化し、展覧会用に大型化し、印象派的に色彩を重視する傾向が強かった。これに対し霊華は、そうした西洋志向を声高に否定するのではなく、東洋的古典画題、書画一致、床間用掛軸、線描という失われゆく伝統の美しさを、静かに自ら身をもって実践して見せたのである。
そうした骨太で筋の通った画家も正しく再評価できることこそが、本当の意味で文化の厚みなのではないだろうか?
東京国立近代美術館
二〇一二年六月一二日〜七月二九日
※秋丸知貴「展覧会評 吉川霊華展――近代にうまれた線の探究者展」『日本美術新聞』2012年9・10月号、日本美術新聞社、2012年8月、11頁より転載。