異なる着眼点、共通の関心がつないだもの
本書は、戦後を代表する国民的作家、井上靖と司二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎が、共に美術記者だったことに着目し、新聞記者時代に書いた展評や、上村松園、上村松篁、河井寛次郎、須田国太郎、須田剋太、鴨井玲、三岸節子、八木一夫といった同時代の芸術家との交友録を通して、二人の美術・芸術観を明らかにする意欲作だ。一種のメタ批評といえるが、偉大な二人の作家を育むために不可欠な経験であったことを、綿密な調査によって解き明かしていく。
司馬が後に妻となった福田みどりと産経新聞に勤めていたことは有名だが、美術記者であったことはほとんど知られていないのではないか。それもそのはず、司馬は美術批評を忌み嫌っていたという。いっぽう井上は、記者時代に京都大学大学院に籍を置き、美学美術史を専攻したほどの美術通で、一時期、美術評論家になろうとさえ思ったという。一見、美術に対して相反する思いを抱いている二人であるが、世代の差も大きい。井上は司馬よりも一六歳上だからだ。
一九〇七年に生まれた井上は、学生時代から詩や小説を書き、一九三六年、大阪毎日新聞社に入社したが直ぐに日中戦争に応招、復職後、宗教欄と美術欄を担当している。いわゆる官展の記事に加えて、太平洋戦争へと突入する時代であり、「戦争画」などの展評も書いている。戦後、画家に対する戦争責任の追及の余波もあったのか、記者を辞めて創作の道に進むが、終生、芸術家を題材とした小説やエッセイを書いた。
入れ替わるように、産経新聞社の記者となった司馬も、宗教欄と美術欄を担当する。しかし官展の力は衰え、具象画から抽象画、純化していく絵画理論が中心となり、「文学性」が消えていく時代であった。司馬は、記者を辞めて作家となったことで、自由に美術を見る目を取り戻し、須田剋太らとの紀行がライフワークとなった。
もともと美術評論が生まれたのは、教会や王侯貴族の依頼から、サロン(官展)での発表に移っていき、大衆へ作品の評価を伝える必要があったからだ。そのため近代美術批評の祖と言われるドゥニ・ディドロは「サロン評」を書いた。スタンダール、シャルル・ボードレールと言った作家たちも、「サロン評」を書く美術評論家として先に文壇に登場している。その意味では、井上や司馬の経歴は正当ともいえる。その後、アカデミーの審査によるサロンに落選した画家たちが、自分たちで展覧会を企画し始める。それが印象派などの反アカデミズムであり、第一次世界大戦後はさらに過激になり前衛と呼ばれるようになる。
日本は遅れてアカデミーとサロンを導入したが、第二次世界大戦前後で大きく状況が変わる。井上が美術記者をしていたのは、文展(文部省美術展覧会)から始まる官展の最後の時期にあたるが戦時下の別の盛り上りがあった。司馬は戦後になって、文展の継承である日展が官展から民営化する過程で、美術団体が乱立し、抽象絵画やさまざまな前衛芸術が勃興する時期にあたる。司馬が「美術オンチ」と自称したのも、絵画を理論で解釈する時代への違和感といった方がよい。
二人はより観念的になっていく現代美術とは距離を置き、司馬は与謝蕪村、八大山人、井上は富岡鉄斎、そして小説の題材にもした石濤など、文人画を好んだ。たとえ洋画であったとしても、井上はゴヤやレンブラント、ダ・ヴィンチに、詩や物語を読み取り、司馬もゴッホや鴨井玲に文学性や人間性を見た。
井上は対象に没入し、司馬は俯瞰する。資質や関心は異なる点もあるが、近いところも多い。特に二人は宗教記者でもあり、記者時代から関西を拠点に美術だけではなく、神社仏閣や仏像、仏事にも深く触れている。美よりもさらに奥にある普遍性や、その元になっている人間性への関心は共通している。そして取材のため重ねた旅である。特に、二人が共に敦煌に旅をして、莫高窟の壁画に残る仏や天人に当時生きた人々の「生の美」を発見しているところが面白い。二人の作家は、着眼点は違えども、いつの間にかかけ離れていった美術と宗教、東洋と西洋、理論と肉体を文学によってつないだのではないか。それは地理的に言えばまさに「シルクロード」である。文明の衝突が激しくなる今日、二人の歩みに見習うことは多い。自身も井上と同じキャリアをたどり、退社後、司馬のように美術を見る喜びを取り戻した著者だからこそ発掘できた可能性だろう。