変わる技術と終わらない作画の歴史
2017年の邦訳が刊行され話題となったアーティスト、デイヴィッド・ホックニーと美術評論家マーティン・ゲイフォードによる『絵画の歴史 洞窟壁画からiPadまで』の増補普及版として、2020年に刊行されたのが本書だ。名コンビともいえる著者たちの最新刊『春はまた巡る デイヴィッド・ホックニー 芸術と人生とこれからを語る』(青幻舎、2022年)も刊行されており、改めて2人の知識の豊富さには舌を巻く。ただし、『絵画の歴史』は、その前にホックニーが著した『秘密の知識』(普及版、青幻舎、2010年)の続編とも言うべき位置づけになっているので、シリーズと考えた方がいいかもしれない。
『秘密の知識』を読んでいないと、『絵画の歴史』で何が語られているか、少し理解しづらいところはあるだろう。『秘密の知識』では、ホックニーは公式に写真が発明された1839年以前から、画家が光学機器を広範囲に使っていることを突き止めている。デッサンの補助道具、カメラ・ルシーダを使用した経験から、絵画に残るレンズのゆがみの痕跡を見出していく様子は極めてスリリングだ。17世紀に活躍したフェルメールが、カメラの前身となる光学機器を使っていたことは、近年よく知られるようになったが、そこからはるかに遡る15世紀初頭から画家たちが光学機器を使っていたと予想されている。つまり、線遠近法がカメラを生み出したという歴史観とは逆の、光学機器が線遠近法の成立に密接に関係しているという事実を明らかにしたのだ。ただし、画家は光学機器を使ったことは言いたがらなかった。だから「秘密の知識」というわけだ。
『絵画の歴史』は、カメラや光学機器と絵画の相互関係を主軸に、3次元の世界を2次元にして捉える「Picture」の歴史を洞窟壁画からiPadまで、古代エジプト絵画や中国美術、日本美術といった古今東西の絵画を例に挙げながら、2人の対話形式で縦横無尽に語られている。実は本書の英語版のタイトルは、「A History of Pictures」であり、Painting(絵画)とは異なる。Pictureといったとき、絵画、写真、映画、アニメーション、CGなど多くのメディアを含んでいる。ここで語られているのは、それらを包含したPictures(画像)の歴史なのだ。
絵画の歴史と重なる部分は多いが、20世紀になると、無意識を対象としたシュルレアリスム、特定の対象を描かない抽象絵画といった3次元から2次元にする画像ではない表現も多くなるため、分離していく部分も出てくる。本書は、コンセプチュアルであったり、抽象的になっていく現代アートの中で、素描や画像にこだわるホックニーのアンチテーゼにもなっている。そして、以下の述べるように、巨視的に見れば、Picture(画像)こそが歴史に残ると考えていることがわかる。
「人は誰も画像が好きだ。だからなくなることはないだろう。映画が演劇の息の根をとめる誰もが思ったが、演劇は生身の人間が演じるから、いつまでもなくなることはない。素描と抽象画も歌や踊りのように、今後も続いていくことだろう。人々が必要としているからだ。将来も油彩画は大いに珍重されると私は信じている。美術の歴史と画像の歴史が二手に分かれるとしたら、力を保つのは画像の方だろうな。」(p.349)
ホックニーはただ古い伝統様式に固執し、新しいものを排除しているわけではない。むしろ、新しい技術を積極的に使用し、絵画を制作し続けている。カメラの使用も早く、「ジョイナー」と言われる著名なフォトコラージュ作品を生み出している。現在では、iPadやiPhoneを駆使して、iPadドローイングという一連のシリーズを描いている。そして、その新しい道具の特性を発見し表現に活かしている。例えば、iPadでは、紙とは違って、発光するモニターならではの明るい光を表現している。それはウェストミュンスター寺院のステンドグラスに活かされている。
しかし、Picture(画像)においては、一つの方法が終わって、次の方法にとって変わられたり、新しいものが優れているといった進歩史観ではないと主張する。「最良の絵のいくつかは、最初に描かれたものだ」(p.25)とホックニーが述べるように、最古の洞窟壁画が人類の歴史の中でも優れた絵であることは言うまでもない。また、現在スマートフォンで膨大な写真が撮影されているが、後世にはほとんど残らないだろう。それはデータ的にも残らない可能性はあるし、記憶にも残らない。最近の研究では、撮影すればするほど、忘却しやすくなることがわかっている。逆に、壁画や絵画は、記録に残り、さらに物質としても残っていく可能性が高い。
とはいえ、新しい技術が、絵画を変えてきたのは確かだ。凸面鏡、凹面鏡、レンズなどの光学機器、キャンバスや油彩画、ライティングといった技術、技法が絵画をいかに変えてきたか、ヤン・ファン・エイク、パルミジャニーノ、カラヴァッジョ、ベラスケス、マザッチョ、ロベルト・カンピン、ティツィアーノ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラフェエロなど、絵画史の名だたる画家たちの例が挙げられている。いっぽうで、郭煕や燕文貴といった中国の北宋の画家や、牧谿のような南宋の画家を挙げ、線遠近法とは異なる描法が、レンブランドなどに影響を与えていることを示唆している。そして、レンブランドやピカソのような素描は、作画の技術がどれだけ増えてもなくならないと以下のように指摘する。
「新技術によっても破壊されないものがひとつある。それは素描だ。デジタルの世界にも、手作りの画像がたくさんある。例えばビデオ・ゲームは手で描いた画像だね。実際、とても良いものが数多い。ところがいわゆるデジタル・アートの多くは手を否定している。手のつけた跡を隠してしまう。でも、私たちがそうした手跡が好きなんだね。例えば、ゴッホの絵がこれほど愛される理由のひとつは、絵がどのように描かれたが見てとれるからに違いない筆痕がひとつ残らず見えるからではないか。」(p.336)
ゴッホを含めて、西洋近代の画家たちは、線遠近法や写真から逃れる新しい描法を、日本の浮世絵に見出した。中国美術や日本美術など、技術に加えて、国際的な交流が、画像の歴史に大きな影響を与えることは本書のもう一つの視点だろう。さらに、写真の発明が、絵画の全体像を一望できることになり、「歴史」をつくったという指摘も重要だ。
ホックニーは、戦後のアートにおいて、マルセル・デュシャンの影響が大きくなり、「作ること」「美しいこと」「具象的であること」が必要条件でなくなったことへの苛立ちがあるのかもしれない。しかし、3次元を2次元にして世界を判断する「画像」はなくならないし、手描きによる素描もなくならない。「本当に腕の立つ素描家には独自のスタイルがあって、すぐに見分けがつく」(p.43)と指摘するように、その個性があるから記憶に残る。そして、深く記憶を留めるための画像は、写真や動画が氾濫し、フェイクな画像が大量生産される今日において、より重要になっているといえるだろう。
「偉大な画家は老いとともに、ゆとりを得る。レンブランド、ティツィアーノ、ピカソはみんなそうだし、必要なのはそれだと彼らは知っていた」(p.43)という言葉に、すでに80歳を過ぎたホックニーの実感がこもる。ホックニー自身が老境の中でどのようなゆとりを得て、どのような画像を描くのか目が離せない。
参考文献