バウハウス100年を巡る創造の旅
伊藤俊治『BAUHAUS HUNDRED 1919‒2019 バウハウス百年百図譜』(牛若丸/ブックアンドデザイン・2021年)
本書は、長年バウハウスを研究し、そして教育的実践を試みてきた美術史家、伊藤俊治がバウハウス創立から100年間のムーブメントを、100冊の書籍と共に解説したものだ。「百年百図譜」とはそのような意味である。豊富な文献・図版の紹介に留まらず、閉校後の世界各地の創造教育への波及までを含む、視野の広いパースペクティブでバウハウスを捉えた画期的な本であろう。
ドイツのワイマール共和国時代の1919年、造形教育期間として設立されたバウハウスは、1933年、ナチスの台頭によって、わずか14年間で閉校に追い込まれる。しかし、初代校長であったグロピウスや三代目校長のミース・ファン・デル・ローエをはじめ、ヨハネス・イッテン、パウル・クレー、ワシリー・カンディンキー、ラズロ・モホリ=ナジなど、錚々たる建築家やデザイナー、芸術家が教育を行い、多くの人材を輩出した。単なる教育機関や教師と生徒といった上下関係ではなく、そのヴィジョンとノウハウを共有した創造の共同体といってもいい、特殊な人間関係は、バウハウス閉校後も、ネットワークを張り巡らせながら、世界中へと伝播していく。本書が「バウハウス百年」としているのも、バウハウスが決して「終わっていない」、現在進行形のものと捉えているからである。
本書では、伊藤が1980年代から2020年代までの40年に渡り、断続的に発表したバウハウスに関する文章を大幅に加筆修正した上で、1章「バウハウス百年」、2章「光の創造体」、3章「ニューバウハウスとダイナミック・イコノグラフィ」、4章「デジタル・バウハウス再考」という4章構成になっている。バウハウス開校時の教育内容だけではく、その後に世界各地でバウハウスの遺伝子が継承されていく痕跡を追い続け、さらに、自身も実践していく様子は非常にスリリングだ。筆者は「大学で美術史を学び始めた時からバウハウスは特別な存在だった」「時代やメディアが変換するたびに形を変えながら出現していくヴィジョンの永続性など、100年経ってもバウハウス・マジックは途切れることなく続いている」[i]と述べる。
何がそれほど特別なのか。バウハウスに影響を受けた美術大学は日本でも多いが、バウハウスがいったいどのようなものなのか説明しろと言われると非常に難しい。バウハウスに関係していた人々が、多層性と多様性、多くの個性を持っており、それが概略の解説も阻んでしまうのだ。多くの人が知っているのは、様々な素材を知る予備教育課程、工房課程を経て、新しい統合概念としての「バウ」に至るという著名なダイアグラムくらいかもしれない。
伊藤は「バウハウスは新しい共同体による創造原理の探求を目指したモダニズム運動の原点である」[ii]と述べる。確かに、初代校長のグロピウスや三代目校長のミース・ファン・デル・ローエは、モダニズム建築を牽引したことで知られている。いっぽうで、中世のカテドラル(聖堂)の共同制作をモデルに、従来のアカデミーにおける教授と生徒ではなく、ギルドのようなマイスター(親方)と徒弟(レーリング)の関係を模範とした。その意味で、単なるモダニズム運動と言い難い。バウとは、建築のみならず空間、環境、社会、芸術を巻き込む包括的で日常的な意味のほか、異なるものを統合していく媒体という意味も含まれているという。また、バウハウスとは、バウヒュッテという、中世のカテドラルなどの大規模工事に設営された職人の共同作業小屋から由来している。
中世のギルド(職人組合)から利権を切り離し、近世においてアカデミーとサロン(官展)によって長らく芸術文化は牽引されてきたが、その専門化、階層化された関係を断ち切り、ある意味で中世の職人的創造へ立ち返ろうというわけである。その意味で、アーキテクチャーのように、建築と大工や、芸術と工芸が分かれていてはいけない。工業化に対抗し、中世と職人、手作業、社会主義的ユートピアへの志向は、ウィルアム・モリスのアーツ&クラフツに前例がある。しかし、バウハウスは工業化やテクノロジーに対して、単純に対抗するわけではない。むしろテクノロジーを含む新しい創造の生態系をつくろうとしている。
伊藤は「中世志向は新しい共同体社会を意味していた」[iii]と述べ、バウハウス宣言の中の一説を引用する。「建築、絵画そして彫刻すべてのものが一つの形におさまるような未来の新たな建築を共同で希求し、考えだし、つくりあげようではないか。手工芸者たちの数百万の手からなるその建築は、いつの日にか、新たな来るべき信念の結晶化した象徴として天に聳え立つだろう」。[iv]その未来の建築のイメージとして、『バウハウス綱領』の表紙には、ライオネル・フィッシンガーによって「光のカテドラル」が描かれた。
伊藤は、「グロピウスは、人間と工業の間に、学びと創造の場である手工作の実験工房バウハウスを挟み、その手工作と工業の接点であるバウハウスで生産品のモデル(型)をつくろうとした」[v]と述べる。バウハウスは、工業化の中で創造性が抑え込まれることなく、素材の熟知と手による工作、光や色、形態などの造形原理を把握し、それらを実践することで、個々人が創造性を発揮するようにカリキュラムがつくられたのだ。その最もユニークな素材や造形原理を知る予備教育課程を牽引したのがヨハネス・イッテンであり、次の工房課程において、形態マイスターを担当した、カンディンスキーやクレー、オスカー・シュレンマーなどのアーティストに大きな影響を与えことが指摘されている。直感的で神秘思想に偏っていたイッテンから、モホリ=ナジに変わり、客観的で分析的な方向にシフトするが、現代でいうマルチモーダル(多感覚)のトレーニングが重視されており、そこでも大きく時代を先駆けていることがわかる。
オスカー・シュレンマーが行った舞台芸術も多感覚的で動的なものだった。グロピウスは、建築を固定的な空間ではなく、動的で多感覚的なものとして再編しようとしているように思える。また、工房による実践的な教育も、今日のプロジェクト型の実践演習プログラムに先行している。さらに、最初から得意分野や嗜好をもとに専門化せずに、すべての素材や原理を知り、創造性を誘発していくこと、原理と実践を並行的に、また往還しながら進んでいくことは、今なお効果的な創造教育として評価されている。
バウバウスの創造の理念と教育システムは、バウハウス閉校後、バウハウス出身のマックス・ビルを初代校長とし、ニュージャーマン・バウハウスと称されたウルム造形芸術大学、ヨーゼフ・アルバースが招聘された前衛芸術学校ブラック・マウンテン・カレッジ、グロピウスが建築学部長として招聘されたハーバード大学、ミース・ファン・デル・ローエが建築学部長として招聘されたアーマー工科大学(後のイリノイ工科大学)、モホリ=ナジが校長となったニューバウハウス(後にスクール・オブ・デザイン、インスティテュート・オブ・デザイン)、ジョージ・ケペシュが所長となったマサチューセッツ工科大学の高等視覚研究所など、アメリカを中心に継承されていく。バウハウスの種が世界中に蒔かれたのは、不幸にもナチスによって離散してしまい、新天地を求めたからだともいえる。
日本でも、東京美術学校の助教だった水谷武彦は、バウハウスで学び、帰国後は「構成原理」の授業を開設、1931年には、川喜田煉七郎と生活構成研究所、1932年には新建築工芸学院に関与し、バウハウスの理論を教えていく。山脇巌は、バウハウスでミース・ファン・デル・ローエに建築を、妻の道子はグンタ・シェテルツルにテキスタイルを学んだ。山脇は、帰国後、山脇建築事務所を開設し、帝国美術学校(多摩美術大学と武蔵野美術大学の前身)でも教え、日本大学芸術学部設立にも尽力したという。日本にもリアルタイムでバウハウスのムーブメントが伝播し、デザイン教育の礎になっている。
道子も帰国後、資生堂ギャラリーで「バウハウス手織物個展」を開催するなど、モダンテキスタイルをいち早く紹介している。本書で、道子を含めて、バウハウスに学んだ女性がどのような活動をしたか紹介されているのも興味深い。2019年には、スザンネ・ラデルホーフ監督によってバウハウスの女性をモチーフにした『バウハウスの女性たち』が公開さている。
1章では、バウハウス100年の系譜をおさえた上で、2章では、バウハウスの創造教育の核心部分について触れ、3章「ニューバウハウスとダイナミック・イコノグラフィ」では、モホリ=ナジやジョージ・ケペシュを中心に、バウハウスに直接関係していた人材による、新しい教育実践が記載されている。そこで実践されたのは生成、変化する都市を描写するため新しい視覚言語の創出であり、ダイナミック・イコノグラフィである。
そして、4章では、伊藤自身も教育実践を行う20世紀末の「デジタル・バウハウス」の潮流が概観されている。バウハウスが工業化社会への転換期に新しいアートとテクノロジーの創造の原理を探求したように、デジタル技術とインターネットが普及し始め、高度情報社会に転換する1990年代、「デジタル・バウハウス」を理念に掲げるメディア・センターが世界中で勃興する。代表的な例は、ドイツ・カールスルーエのZKM(カールスルーエ・アート・アンド・メディア・テクノロジー・センター)、オーストリア・リンツのAEC(アルス・エレクロニカ・センター)、東京のICC(NTTインターコミュニケーション・センター)である。さらに、教育と創造に特化した研究教育機関として、フランス・リールのル・フレノア国立現代芸術スタジオ、ドイツのケルン・メディア芸術大学が設立される。
日本においても、ル・フレノアやケルン・メディア芸術大学のように、文化創造都市として転換するためのトリガーや人材供給のために、岐阜県大垣市のIAMAS(情報科学芸術大学院大学)、大阪府大阪市のIMI(インターメディム研究所)が同時期に設立されている。伊藤も、IMIの講座ディレクターとして、マルチメディア時代の知識と技術による創造理論を構築していく。
また、バウハウス誕生80周年を迎えた1999年には、ICCにおいて、「デジタル・バウハウス―新世紀の教育と創造のヴィジョン」を企画監修する。そこには、ケルン・メディア芸術大学、ル・フレノア、IAMS、IMIの4つの学校の創造原理とその実践が展開された。これらの教育機関はインキュベーションの場となり、メディア・センターと相互に交流を持ち、新しい時代のアーティスやクリエイターを輩出し続けている。
本書では、デジタル・バウハウス時代のアーティス像として、ケルン・メディア大学出身のアーティスト・ユニット、ノウボティック・リサーチが紹介されている。ノウボットとは、「knowledge(知識)+robot(ロボット)」の合成語であり、情報知生体を意味しており、伊藤はAI(人工知能)の雛形であると指摘する。
ノウボティック・リサーチのプロジェクトとして紹介されている「ノウボッティック・サウスとの対話」(1994)は現在においても刺激的だ。それはかつて人類が発見してない幻の大陸であった南極大陸を非物質的な仮想の大陸として想定し、観客がブリザードのような仮想空間を漂うノウボットを探り当て、そこへアクセスすることで知と感覚のコードを組み替えつつ現実と仮想が錯綜する「仮想南極大陸」をつくりだす試みだという。
実際に南極大陸が発見されたのは1820年であるが、極寒の地のためその多くは知識と技術によって定義されており、それが情報社会の興味深いモデルになると考えたのだ。つまり科学者たちが南極調査に使用しているのはセンサーや測量器によるテクノトープ(技術空間)であり、実際の研究者は研究機関にいて、それらを収集し解析したりシミュレーションしたりしているというわけである。それは第二の自然であり、「コンピューターが支援する自然(コンピュータ・エイデッド・ネイチャー)なのだ。それは現在における宇宙開発や火星探査も同様であるし、自然を様々な通信衛星の情報をスマートフォンを駆使して把握する我々の日常を予見している。
最後に、デジタル・バウハウスについて、ハキム・ベイの「TAZ」やアメリカの人類学者ヴィクター・ターナーの「コミュニタス理論」を参照し、一時的に社会的な役割や関係性が未分化で流動性を帯びている共生の状態、例えば、カトリックの巡礼のようなシステムにそのモデルがあるかもしれないと説く。
伊藤は以下のように述べる。「巡礼は宗教的な運動ではあるが、実はそのプロセスで宗教以前の、重層化し、混沌として起源へ向かうための動きである」「旅に出る時、我々は生の始まりに戻り、再生と創造の行為を無意識のうちにしている。周りにあるものが普段とはまったく違って見え、大切さを感じる。生きてゆくには他者が必要だと考える」「共に旅し、共に学び、共に与え合う生の可能性の旅と言えるだろう」「デジタルバウハウスのヴィジョンも、こうしたルートとルーツの志向に支えられなくてはならない」「物事を新しく考え、生きることをポジティブに捉えるようになる。新しく生きて、新しく学ぼうと思う。メディアとネットワークと共に現実を生きるデジタルバウハウスの意義はそこに存在しているのかもしれない」[vi]
伊藤のバウハウス史観は、特異なものかもしれない。しかし、最初からモダニズム運動の原点であると共に、中世への回帰が語られており、原理的かつ統合的、領域横断的で、祝祭性を帯びた時空間であり、指導する側と受ける側というよりも、対等な関係による創造の共同体であったことは間違いない。伊藤は、その魅力に惹かれ、それが何だったのか問い続け、インターメディム研究所、ICCニュースクール、多摩美術大学情報デザイン学科、東京アート&アーキテクチャ・デザイン・スクール、東京藝術大学先端芸術表現科と、創造教育の実践を行い続けてきた。
その問いと実践を継承する人間は、これからも生まれ続けるだろう。本書は、伊藤のバウハウスを巡る思考と実践の旅や足跡を辿れる道標となり、「光のカテドラル」を描いたライオネル・ファオニンガーの模型による「世界の果ての都市」のように、バウハウスが生み出した回帰と革新の創造の種を撒き続けるだろう。
[i] 伊藤俊治『BAUHAUS HUNDRED 1919‒2019 バウハウス百年百図譜』牛和丸/ブックアンドデザイン、2021年、p.258。
[ii] p.4。
[iii] p.94。
[iv] 同頁。
[v] p.122。
[vi] p.256。