連面と続く人類と作像の歴史
デイヴィッド・ホックニーは、ポップ・アートの先駆者としてデビューし、20世紀後半から現在に至るまで、もっと影響力のあるアーティストの一人である。80歳を迎え、テートブリテンで60年に渡る画業を振り返る大回顧展が開催されたが、常に新しいメディアを駆使して画法が変わり続けるホックニーにおける「変わらないもの」が逆に見えたのではないだろうか。
作品だけではなく、ホックニーの芸術に関する深い見識が話題となったのは、『秘密の知識』(青幻舎、2006)においてである。『秘密の知識』は、ホックニーがアングルの小さな絵を見たときに、その正確な描写に対する「違和感」とレンズ歪みの痕跡を見出したことに端を発する。その微妙な歪みに気づくことができたのは、写真をいち早く取り入れ、写真の新しい表現方法を確立させたことでも知られるホックニーの眼ならではであろう。
そして、写真が公式に発明される1839年以前から、多くの画家は何等かの光学機器を使っていたのではないかと推測をはじめ、自身もカメラ・ルシーダという、レンズを使ったデッサンの補助器具を使いながら、絵画と写真の歴史を再解釈していく大著である。そして、カメラの前身器具を使ったことで有名な17世紀のフェルメールをはるかにさかのぼり、1430年頃のフランドル地方まで起源が求められることを突き止める。そこでの結論はつまり線遠近法の発明自体が、広義の意味でのカメラの産物であり、遠近法がカメラを生み出したという歴史観とは逆の画家と光学機器との深い関係だった。
『絵画の歴史』は、『秘密の知識』の続編とも位置付けられるが、その射程ははるかに長く、そして広い。洞窟壁画や古代エジプトの絵画から、iPadのドローイングまで、人類と画像の歴史をまさにノンリニアに縦横無尽に語りつくしたものだ。画像と書いたのは、この本の意図するPictureが教義の「絵画」と呼べるものではなく、絵画、写真、映画、アニメーション、デジタル画像から、洞窟壁画、古代エジプト、中国美術、日本美術に至るまで、人類の作った全ての3次元から2次元に変換された画像(Picture)を対象としているからである。
Pictureに進歩はない、と言い切るように、刻々と変わりゆく、人類の画像の歴史を進歩として捉えているわけはない。確かに、素晴らしい洞窟壁画の描写と、現在のCGのどちらが優れているとか、進歩しているとか語るのはナンセンスである。ただはっきりしているのは、何時の時代も人間は画像を作り続けるという事実であり、描写方法に歴史上、地球上でハイパーリンクのように類似性、関連性が見られることである。網の目のように貼られ繋がるホックニーとゲイフォードの対話は、アビ・ヴァールブルクの「ムネモシュネ・アトラス」を想起させる。
とはいえ、このようなホックニーの視点が注目されるようになったのは、今日において、写真が真実を写しているという呪縛が徐々に解けていることと無関係ではない。デジタル写真、特にスマートフォンやタブレットが普及したこの10年で、デジタル画像は猛烈な勢いで世界を覆い、インフレ化、陳腐化している。そして、それが真実を写しているとは誰も思はなくなっている。デジタル画像はどのようにでもフェイクすることが可能だ。この世に真実の画像など一つもない。あるのは誰かの視点のみである。
写真が登場して、絵画は死んだかのように思えたが、今日に至ってみればどちらかといえば死んだのは狭義の写真の方である。しかし、絵画も写真も同じ画像という平面に立ってみれば、Pictureの変遷に過ぎない。そこにおいては、絵画も写真も映画もない。画像があるだけであり、人が画像を作り続けるという変わらない事実だけが横たわっている。人類が存在している限り、画像は作り続けられるし、ホックニーというそれを体現しているアーティストだからこそ、このような本が書けたのだ。
初出『shadowtimesβ』2017年3月20日掲載