現在の「美術」概念・制度の研究はここから始まった!
北澤憲昭『眼の神殿 ――「美術」受容史ノート』(ちくま学芸文庫・2020年)
秋丸 知貴
1989年に美術出版社から出版され、長らく絶版になっていた後2010年にブリュッケにより復刊、さらに2020年にちくま学芸文庫入りした近代日本美術史研究の名著。
1990年度サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞作。初版から30年以上経ているが、そのアクチュアリティは今日においても失われるどころかいや増している。
近年、「美術」という言葉が明治以後に西洋の「アート」概念を輸入して新たに作られた官製翻訳語であったことが広く知られるようになったが、その端緒となった概念史・制度論的な研究書である。概念や制度を自明視するのではなく、批判的に検証しようとする脱構築的観点を近代日本美術史研究に導入した点で名高い。著者は、現代美術の批評活動から出発し、1960年代の反芸術の考察から、元々の起源である明治美術に着目することになったという。
著者によれば、近代とは視覚優位の時代であり、西洋では諸芸術のうち視覚芸術だけが「美術」と呼ばれるが、従来そうした考え方を持たなかった日本がそれを移植する際には様々な混乱が生じることになった。やがて、博覧会・展覧会、博物館・美術館、美術学校等の設立を通じて、何が「美術」で何がそうでないかが取捨選択され制度として確立される過程で、次第に「美術」という観念も人々の心に定着してゆく。しかし、西洋と日本では、人工と自然や、美術と工芸についての価値観が根本的に異なるので、日本の「美術」概念は西洋の「アート」概念とは変質しつつ独自の歴史と構造を形成することになる。
本書巻末の佐藤道信氏と足立元氏による解説が、本書の美術史学上の意義を詳論していて貴重。
また、北澤氏による『眼の神殿』の続編といえる、『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』(岩波書店・1993年)、『境界の美術史―「美術」形成史ノート』(ブリュッケ・2000年)、『「日本画」の転位』(ブリュッケ・2003年)、『アヴァンギャルド以後の工芸――「工芸的なるもの」をもとめて』(美学出版・2003年)、『反覆する岡本太郎――あるいは「絵画のテロル」』(水声社・2012年)、『美術のポリティクス: ――「工芸」の成り立ちを焦点として』(ゆまに書房・2013年)、『“列島”の絵画――「日本画」のレイト・スタイル』(ブリュッケ・2015年)、『逆光の明治――高橋由一のリアリズムをめぐるノート』(ブリュッケ・2019年)等も興味深い。最新の編著『日本画の所在――東アジアの視点から』(勉誠出版・2020年)も重要。
もちろん、「美術」という言葉自体は確かに明治以後に造語されたとしても、「美術」と呼ばれうる作品はそれ以前から制作されていた。少なくとも、明治以前の人々にも美意識が存在していたことは間違いない。だからこそ、ただ主観的なフィーリングのみで「美術とは何か」を論じるよりも、歴史的・文化的背景に基づいた客観的な議論が着実に積み重ねられていくことを期待したい。
※初出 秋丸知貴「北澤憲昭著『眼の神殿』ブリュッケ・2010年」『日本美術新聞』2012年1・2月号、日本美術新聞社、22頁。(2021年7月31日加筆修正)