【ARTS STUDY 2025】 講座レポートVol.13|Artist ゼミナール 榎忠/「TREE, out-in-out」1975年 31歳|6 – ②巨木が美術館を貫いた日:榎忠と「JAPAN KOBE ZERO」が仕掛けた熱狂の1975年

【ARTS STUDY 】

◾️Artist ゼミナール 榎忠 第2回
「TREE, out-in-out」1975年 31歳
日時:2026年1月23日(金) 19:00~20:30
講師:榎忠
会場:KOBE STUDIO Y3 

[講座内容]アートナウ`75でJAPAN KOBE ZEROのメンバーが、活動の拠点である神戸の再度山に登り、松くい虫に蝕まれた25mの松を根っこから掘り出し兵庫県立近代美術館へ運ぶ。冬季の展覧会ながら全員が汗だくになり、力を総動員しての搬入となった。大木は三分割され、美術館の1階ピロティ、2階展示室、屋根上を貫通するかのように展示された。美術館が予想だにしなかった大がかりな搬入作業、美術館内に収まらない作品の見せ方、入館料を払わずとも外から、そして遠くからでも作品(の一部)が見られるやり方ーそれは、地元神戸という場所性にこだわり、JAPAN KOBE ZEROのメンバーの肉体と精神を結集した実験的な試みの軌跡。


1975年の神戸に現れた、美術館の常識を根底から揺さぶる巨大な衝撃

2026年1月23日、冬の寒さを忘れるほどの熱気が、会場を包み込んでいた。【ARTS STUDY 2025】の「Artist ゼミナール 榎忠」、今回のテーマは、1975年に発表された伝説的作品《TREE, out-in-out》である。

建物の左手奥の屋上に小さく見える松の木が作品《TREE, out-in-out》

講師を務めるのは、今もなお、眼光鋭く、当時の「事件」を昨日のことのように語るアーティスト、榎忠(1944-)である。彼は1970年代から今日に至るまで、神戸を拠点に過激かつユーモアあふれる活動を続けてきた、現代美術界の生ける伝説だ。会場に集まった参加者たちは、当時の荒々しくも純粋なエネルギーに満ちたエピソードに、瞬く間に引き込まれていった。今回のレポートでは、当時の貴重な映像や写真を紐解きながら、美術館という白い箱(ホワイトキューブ)を物理的にも精神的にも突き破った、あの一大プロジェクトの全貌に迫りたい。

記録映像を解説中の講師:榎忠

既成概念を粉砕する表現者集団「JAPAN KOBE ZERO」の胎動

《TREE, out-in-out》を語る上で欠かせないのが、1970年に結成されたアーティスト集団「JAPAN KOBE ZERO(ジャパン・コウベ・ゼロ)」の存在だ。リーダーの古川清を中心に、榎忠、松井憲作らが集まったこの集団は、当時の閉塞した美術界に風穴を開けるべく、神戸の街を舞台にゲリラ的なパフォーマンスや大規模なインスタレーションを展開していた。

彼らの出発点は、意外にも「デッサン教室」だったという。しかし、彼らが求めたのは美しい絵を描くことではなく、「美術の枠を破る」ことだった。彼らは自らを「ゼロ」と名乗り、既存の画廊や美術館のシステムに依存せず、肉体を駆使し、社会のリアリティと直接対峙することを信条とした。

「あの頃は、とにかく何かを壊したかった。自分たちの中に溜まったエネルギーを、どこにぶつければいいか探していたんです」。榎は、当時の渇望感をそう振り返る。そんな彼らに、1975年、ついに「美術館」から展覧会の出品オファーがかかる。それが、兵庫県立近代美術館(現・原田の森ギャラリー)で開催された「アート・ナウ’75」だったのである。

講座の様子

巨木を「生け捕り」にする、山中での壮絶な伐採ドキュメント

講座で上映された記録映像「JAPAN KOBE ZERO アートナウ 伐採風景」には、現代のコンプライアンスを重視する美術界では到底考えられないような、荒々しくも神聖な光景が記録されていた。場所は兵庫県北部の山中。標高の高い急斜面に、JAPAN KOBE ZEROのメンバーが結集していた。ターゲットは、高さ約25mの巨大な松の木だ。映像の中で榎は、泥にまみれ、チェーンソーの轟音が響く中、巨木と対峙している。これは単なる資材の調達ではない。自然界の圧倒的な生命力を、そのまま美術館へと「転送」するための、血の通った儀式だった。

ターゲットとなった松の木、場所は神戸の再度山

巨木と格闘中の様子。再度山 大安の森にて

チェーンソーが幹に食い込み、白い木屑が舞い散る。重機がエンジン音を上げ、ワイヤーが張り詰める。巨木がゆっくりと、しかし抗いようのない重力に従って倒れる瞬間、山々に地響きが響き渡る。映像を見つめる榎は、「木を倒すというのは、命をいただくということ。単に材料を持ってくるんじゃないんです。」と当時の様子を語る。あの巨大な生き物を自分たちの手で動かす。その手触りこそが、作品の始まりだった。

左側の黒のランニング姿の男性が榎

ようやく根っこを掘り上げたところ

巨木が倒れる瞬間

重機までは人力で運ばなければならない。木はこのとき3等分にされている

彼らは重機を駆使し、この「生命の塊」を細心の注意を払いながらトラックに積み込み、神戸の街へと運び出した。山から街へ。この移動のプロセスそのものが、すでに壮大なパフォーマンスの一部となっていた。

大の男たちが総出で巨木を山から運び出す様子

傾斜があるとはいえ、そう簡単には転がってくれない

巨木をトラックの荷台に乗せる作業

現代美術館の壁をぶち抜く、前代未聞の「out-in-out」大作戦

1975年1月、兵庫県立近代美術館。搬入された巨木を前に、美術館スタッフや観客は言葉を失ったに違いない。《TREE, out-in-out》というタイトルの通り、この作品のコンセプトは「外(山)から、中(美術館)へ、そして再び外(空)へ」というものだった。村野藤吾設計による格調高い建築を、彼らは物理的にも視覚的にもハックしたのだ。

記録映像「JAPAN KOBE ZERO アートナウ 兵庫近美での設営」では、美術館という権威あるいは聖域に対して、野性的な行為が侵入していく緊迫感に包まれている様子が伺える。榎たちは、美術館のピロティ(1階の吹き抜け空間)から、2階、3階を貫き、屋上へと松の木を突き通そうとしたのである。もちろん、本物の床を突き破るわけにはいかない。そこで彼らが取った手法は、建物の構造を巧みに利用し3分割にした松の木を、あたかも一本の木が建築物を「貫通」しているかのように見せる、極めて緻密かつ大胆な空間構成だった。映像では、クレーンで吊り上げられた巨大な幹を、数センチ単位で調整しながら配置するメンバーの姿が映っている。誰一人として「できない」とは言わない。

兵庫県立近代美術館(現・原田の森ギャラリー)に運び込まれた木の一部

「美術館という枠の中に収まるつもりはさらさらなかった。建物自体を作品のパーツにしてしまう。内側も外側もない、ただ一つの『流れ』を作りたかったんです」。榎の言葉通り、そこには「展示」という静的な概念はなく、建築という社会的な制度に対する、肉体的な挑戦があった。彼らの労働そのものが、美術作品を形作る重要な要素として機能していた。

根っこ部分の搬入と立ち上げ

根っこ部分の搬入と立ち上げ

真ん中部分の搬入と立ち上げ

巨木の先端部部の搬入の様子

観覧料を払わなくても「見える」、美術館の特権性への挑戦

完成した《TREE, out-in-out》は、見る者に強烈な視覚的体験をもたらした。美術館の中に巨大な松の幹が鎮座し、見上げればその先は天井を抜けて空へと続いているように見える。しかし、榎氏がこの作品に込めた真の意図は、もっとラディカルなものだった。

美術館を貫く巨木:先端

美術館を貫く巨木:真ん中

美術館を貫く巨木:根っこ

「美術館の中にいなくても、外を歩いている人から見える作品にしたかった。チケットを買わなきゃ見られないなんて、芸術じゃない。誰にでも平等に、そこに『ある』ことが重要だった。」と、榎は当時の反骨心をそう吐露する。通常、美術館の作品は入館料を払い、聖域に入らなければ鑑賞できない。しかし、この巨木は美術館の屋上から突き出し、遠くの街角からもその異様な姿を拝むことができた。これは、芸術を特権的な層から解放し、日常の風景の中に力ずくで引き戻そうとするJAPAN KOBE ZEROの「闘争」の形だったのである。

車窓から見る《TREE, out-in-out》

彼らの肉体と精神を結集し、地元神戸という場所に根ざしながら、世界に対して「表現とは何か」を問いかけた。それは、1975年という時代が持っていた、未来への根源的な不安と期待が混ざり合った叫びでもあった。

技術と熱量が交差した「祭りのような時間」を振り返って

今回のゼミナールを通じて最も強く感じたのは、当時の活動が持つ圧倒的な「リアリティ」と「物質性」だ。現代の、スマートフォンの画面の中で完結するデジタルアートや、洗練された概念的な表現とは対極にある、重さ、匂い、騒音、そして怪我と隣り合わせの痛み。

運搬作業を上から見下ろす

無言の時間が流れる映像を見ている時間。しかし、その沈黙は決して空白ではない。会場の空気は、約50年以上前の熱気を浴びているようだった。榎が半世紀前の自分たちの姿をじっと見つめ、当時の仲間たちの荒い息遣いや、凍てつく冬の山の冷気を思い出している、きわめて濃密な時間だった。

「今は何でもスマートにできるけれど、あの頃は不器用で、泥臭くて、でもそれが一番の贅沢だったのかもしれない」。榎のこの言葉は、現代の効率化された社会に対する、静かな、しかし重い問いかけとして響く。1975年のあの冬、神戸の美術館で起きたことは、単なる「展示」ではなく、人間と自然、そして都市という巨大なシステムが真っ向からぶつかり合った、一回限りの「事件」であり、壮大な「祭り」だったのだ。

榎忠というアーティストの原点には、常にこの「現場主義」と、既成の枠組みを笑い飛ばすような強烈なカウンター精神が流れている。彼は、自らの肉体をメディアとして、社会の綻びをえぐり出し、そこに新たな息吹を吹き込む。その姿勢は、今も昔も全く変わっていない。

過去を掘り起こし、未来の表現を耕す「榎忠」という名の現象

この日の講座は、単なる歴史の回顧録やアーカイブの紹介ではない。半世紀前の出来事をまるで昨日のことのように熱く語るアーティスト榎忠の姿は、現代に生きる私たちに「表現の自由」とは何かを突きつけてくる。

榎忠(所蔵資料:「JAPAN KOBE ZERO《アートナウ’75》アルバム」  本記事に掲載した《TREE, out-in-out》関連の画像は、すべてこの3冊、JAPAN KOBE ZERO《アートナウ’75》アルバムに収録された記録資料を使用

《TREE, out-in-out》という作品は、今では写真や映像、そして関係者の記憶の中にしか、今は存在しない。しかし、その根底にある「制度を疑う」「身体を張って社会に関与する」という精神は、時代を超えて今の若い世代にも受け継がれるべき、極めてアクチュアル(今日的)なメッセージだ。榎は、かつて巨木で美術館を貫いたように、今もなお、私たちの凝り固まった常識や、閉塞感に満ちた社会の壁を、鋭い感性とユーモアで撃ち抜き続けている。

私たちは単に美術史の知識を得たのではく、榎忠という一人の人間の生き様を通じて、芸術が本来持っている「野蛮なまでの生命力」に触れたのである。ふと街を見渡したときに。あそこに、もし巨大な木が突き出していたら? もし、この退屈な壁を貫く何かがあったら? そう想像すること自体が、榎忠が私たちに仕掛けた、終わりのないインスタレーションの一部なのかもしれない。

 

■写真提供:榎忠(所蔵資料:「JAPAN KOBE ZERO《アートナウ’75》アルバム」
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6|Artist ゼミナール 榎忠

 

 

 

 

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兵庫県出身。大学卒業後、広告代理店で各種メディアプロモーション・イベントなどに携わった後、心理カウンセラーとしてロジャーズカウンセリング・アドラー心理学・交流分析のトレーナーを担当、その後神戸市発達障害者支援センターにて3年間カウンセラーとして従事。カウンセリング総件数8000件以上。2010年より、雑誌やWEBサイトでの取材記事執筆などを続ける中でかねてより深い興味をもっていた美術分野のライターとして活動にウェイトをおき、国内外の展覧会やアートフェア、コマーシャルギャラリーでの展示の取材の傍ら、ギャラリーツアーやアートアテンドサービス、講演・セミナーを通じて、より多くの人々がアートの世界に触れられる機会づくりに取り組み、アート関連産業の活性化の一部を担うべく活動。