アートは社会の役に立つか?
国立大学の人文社会学系を廃止する、文科省の通知について話題になっていることは以前書いた。
しかし、その流れは今に始まったことではない。すでに潤沢な予算が国にない中、戦後に膨大に増えた大学を減らそうと何度か試みられてきた。もうずいぶん前だが、全国の大学トップ30に予算を与え、30未満は切り捨てるような提言があったと思う。
それも猛反対にあったのだと思うが、結果的に21世紀COEプログラムという、研究拠点形成等補助金事業が立ち上げられ、研究成果の上がりそうなプロジェクトに補助金が与えられる仕組みに変わった。その後、グローバルCOEという事業に引き継がれた。内訳を見てみるとCOEの助成金を取得できたのは、ほぼ30位以内の大学であった。
そして、昨年、スーパーグローバル大学が37校選ばれ、「2023年度までの10年間に1大学当たり最高約4億2千万円の補助金を毎年支給する」という形に変わった。結果的にトップ30に近い形になったともいえる。スーパーパーグローバル大学は、大学全体がグローバルなモデルを目指すトップ型と、一部の特化した分野においてグローバルなモデルを目指す「グローバル化けん引型」に分かれる。
その中で、「グローバル化けん引型」には、東京藝術大学や京都工芸繊維大など、芸術系の大学も入っており、芸術のコンテンツのグローバル化というのも念頭に置かれているのがわかる。
一連の国の補助金の体制変更にともない、東京藝術大学は来年度の教育研究組織の変更を発表した。新設されたのは、グローバルアートプラクティスと、アートプロデュースの二専攻である。
聞きなれないグローバルアートプラクティスの内容については以下のように書かれている。
「国境を越えたグローバルな視野をもち、多領域に活躍できる一線級の芸術家。とりわけ現代芸術分 野において、実践的に現代社会と関係し、我が国独自の制作手法(ジャパンオリジナル)を強みにした新しい芸術の価値を創出し、発信することを推進できる人材の育成を目的としています。 また、社会のニーズを踏まえた地域創生や世界の Social Art Practice の分野で世界を牽引できる芸術家の育成も目指します。」
ぱっと読むと何を言っているのかさっぱり分からないというのがふつうの人の感想だろう。この草案を書いている人も、具体的なアーティストをそこまでイメージできているわけではあるまい。特に「我が国独自の制作手法(ジャパンオリジナル)を強みにした」というのは、具体的にどのようなものなのか謎である。
ただし、「実践的に現代社会と関係」や「社会のニーズを踏まえた地域創生や世界の Social Art Practice の分野」と書いているように、社会や地域に具体的に関係を持ちながら、芸術活動を行うということが念頭に置かれていることがわかる。
さらっと書かれている、「Social Art Practice の分野」であるが、そのような分野がはっきりとして存在しているわけではない。しかし、近年、社会問題や地域問題をアートの手法で改善する実践について、「Social Practice」や「Social Practice Art」と呼ばれており、現在進行形でその理論的な補強もなされるようになってきている。
前置きがずいぶん長くなったが、パブロ・エルゲラの『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』は、ソーシャル・プラクティス(アート)に関する手引書と言ってよい。
ソーシャル・プラクティスを、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」(社会関与型アート)として、以下の10のキーワードから輪郭を与えようとしている。定義、コミュニティ、状況、会話、コラボレーション、敵対関係、パフォーマンス、ドキュメンテーション、Transpedagogy(超教育学)、Deskilling(熟練の解体)である。
ユニークなのは、彼が美術館の教育普及課で、パフォーマンスの実験的試みをしているところからキャリアが始まっており、教育学の視点から、ソーシャリー・エンゲイジド・アート、ソーシャル・プラクティスの実践を、捉えなおしているところである。
たしかに、社会問題や地域問題に実践的に関与しようとした場合、芸術的な教育を受けていない地域の人々などに、何かを教えつつ活動しなければならない。それは、高度な幼児教育や、社会学習などで得られた知見や経験が大いに役に立つだろう。
ただし、メキシコでパブロ・エルゲラの講演を聞いた友人によると、彼自身も、まだまだ模索の段階であるようだ。アートが社会の役に立つのか?あるいは、社会問題を解決するためのアートが、アートと呼べるのかは難しいところであるが、21世紀になってアートが、社会や地域の問題に深く関わるようになったことは必然だともいえる。そもそも、長い歴史を俯瞰すれば、アートが社会と切り離され、純粋なアートの論理や美学で評価されたのは20世紀のほんの少しの間に過ぎない。
19世紀後半になって、新たに台頭した資本家や、富裕層の間でコレクションされてきたアートは、今日ではさらに先鋭化し、アートマーケットで高額で取引されている。
その一方で、日本各地で芸術祭が開催されているように、地域格差を解消するための、地域振興策としてアートが注目されるようになってきている。個人的には、地域振興策の主は、産業振興や企業誘致、起業支援などの産業政策でなされるべきであり、それらの大きなフレームについては、行政主導で解決するべきだと思っている。芸術祭などはどれだけ盛り上がっても地域衰退の一時的な痛み止めにしかならない場合が多い。痛み止めをしている間に、本当の原因が隠されてしまう可能性もあり、それがもっとも懸念される。
芸術祭はあくまで補完的役割であり、主だと勘違いしてはならない。もちろん、観光産業の一部として、有効に位置付けられている場合もあるので一概には言えないが、産業政策との位置づけは明確にしていくべきだろう。
アートが解決すべき社会問題は何か?ある種の気付きを促すレベルであり、根本解決ではない、ということをアーティストも、オーガナイザーも自戒すべきだろうと思う。もちろん、アーティストが社会運動や政治運動をしてはいけない、というわけでは当然ないが、それは政治として評価されるだろう。
そうは書いてみたものの、その境界において揺れているのが、ソーシャル・プラクティス、ソーシャリー・エンゲイジド・アートだともいえる。ソーシャル・プラクティス、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの持つ直接性の誘惑と罠をよく理解しながら、「実践」することが求められているだろう。
初出『shadowtimesβ』2015年6月16日掲載