鷹野隆大が呼びかけ人となり、1963年生まれの著名な3人の写真家(鷹野隆大、鈴木理策、松江泰治)、2人の写真評論家(清水穣、倉石信乃)による共同宣言を基にした写真と対談集。2010年にNADiff GALLERYで同宣言による展覧会とトークショーが行われ、それらをまとめたものである。
21世紀に入り、急速にフィルム写真を撮影する環境が減少し、写真誕生から170年の間に蓄積されてきた写真の定義や価値が揺らいでいる。それとともに気付かない間に加速度的に失われていく「何か」に楔を打つような内容になっている。具体的にはストレート写真の持っていた一回性や被写体との直接性、フィルムやプリントの持つ物質性と言えるかもしれない。
そういう意味では、写真分離派(フォト・セセッション)への回帰とフィルム写真とデジタル写真の「分離」をかけているとも言える。但し、個々のスタンスも微妙に異なり、単純にフィルム写真家として宣言するものではない。表紙にもなっている宣言文に書き込まれたメンバーによる無数の修正指示がそれを物語っている。しかし、現在の状況に対する深い部分での「苛立ち」について共鳴していると言えるだろう。
その「苛立ち」について端的に述べるのは難しいが、恐らく、写真が人間の手を離れて、現実とも虚構とも判別がつかない状態で、デジタルという化け物的なテクノロジーに取り込まれていく感覚なのではないかと予想している。もっと言えば写真家の表現がデジタルネットワークの中のコマになっていく感覚と言えるだろうか。
そういう点では、10歳離れている私も共感できる部分も多い。しかし共通体験やそれに伴う感覚が違うのも確かであるし、どちらかと言えば、デジタル写真やデジタル環境に適した表現や伝達の方法を模索している方でもある。しかし、フィルム写真と連続しているとは思っておらず、分離しているという認識は同じである。
そのことについて、清水氏も「デジタル写真はアナログ写真に擬態しているわけだけど、その本性はまったく違うものだと思います。たとえば解像度が印画紙を超えてしまったとか、動画のスティルと静止画の区別がつかないとか、だんだんわれわれから見たデジタル写真の、いわば化けの皮が最近剥がれてきて、デジタル写真の本性みたいなものが―技術的暴走とも言えますけど―剥き出しになってきている。」と鋭く指摘している。
一見、単線的に繋がっているかに見えているフィルム写真とデジタル写真の歴史を、分離、分割する必要はあるだろう。フィルムやラボが年々なくなっていっているという個別具体的で切実な問題はさておき、一線で活躍する写真家や写真評論家がその事実を表明することは大きい。
写真に関わらずデジタルネットワークの網目からアーティストの表現が逃れられるかどうかは切実な問題である。フィルム写真もまた、デジタル環境の中で表現や見せ方の変質を迫られている。しかし、写真は技術とともに生まれ技術とともに変わっていく存在である。フィルム写真が絵画を変えたように、版画がマスメディアからアートになったように、フィルム写真もまたデジタル写真によって新たな冒険が始まると考えた方がいいのかもしれない。
デジタルカメラが本格的にプロの現場でも使われるようになったのはまだ10年程度のことである。その本性を本格的に表すのはこれからのことである。その時のデジタル写真は、カメラの形も出力される画像も鑑賞の仕方もフィルム写真とはまったく異なるものになっている可能性は高い。時代に楔を打ったこの本の価値がわかるのは、後10年後くらいのことかもしないと、読みながら思わせられる一冊である。
付け加えれば、この本の装丁を初めて見た時、見本と勘違いさせられた。サイズと紙質、色が違うのものが無理やり綴じられている。フィルム写真と同じ立場に立たされている本の形態が、「苛立ち」の共有と揺らぎを雄弁に物語っているといえる。
初出『shadowtimesβ』2015年6月8日掲載