斜線の均衡 分裂と融合の層に見る自由
建築史家の藤森照信は、モダンデザインの還元化の歴史を、植物(アールヌーヴォー)、鉱物(キュビスム、表現派)、幾何学(デ・スティル、ピューリスム、バウハウス)に例え、最終的に数式(ミース・ファン・デル・ローエ)に至ると指摘している[1]。言い換えると、形態のイメージソースの変遷といってもいいだろう。しかし、そのような新しいイメージを求めるのは、過去と切り離されたからでもある。
19世紀までの建築は、古代ギリシア・ローマ時代の建築を規範にしたものか、ロマネスクやゴシックといった中世キリスト教の建築を規範にして建てられていた。それらは新古典主義建築を経て歴史主義建築と言われた。アールヌーヴォー以降、そのような歴史からの脱皮を経て、自律的な形態を求めるようになったのだ。アールヌーヴォーの影響を受けて、ドイツ・オーストリア圏でも分離派(セセッション)というムーブメントが生まれるが、それは歴史からの分離ということである。ヨーロッパに厚く圧し掛かっている歴史からの脱皮、分離を模索するようになっていたのだ。
その発端は、ヨーロッパの後進国であったイギリスである。もっとも歴史の浅いイギリスから産業革命が起ることによって、新しい建材が次々と生まれることになった。すなわち、鉄やガラスといったものである。それまでの建築を支える構造材であった石やレンガは必要不可欠なものではなくなった。そこで新しく生まれた象徴的な建築が、第一回目のロンドン万博で披露されたクリスタル・パレス(水晶宮)である。会場に建てられた鉄とガラスによる巨大な展示場である。鉄とガラスといった軽くて自由度の高い建材は、歴史主義の規範とは合わなかった。ギリシア・ローマのような過去に美の規範を求めるのではなく、新しい規範を必要とするようになった。それが植物や鉱物のような自然や幾何学だったのだ。
それは美術においても変革をもたらしていた。美術もまた、ギリシア・ローマ神話やキリスト教、あるいは歴史画といった題材から離れ、絵画独自の規範を求めるようになっていた。もっと言えば、ルネサンス以降の遠近法(一点透視図法)から離脱を求めていた。その転換点となったのが、キュビスムである。複数の視点を持ち、世界を立方体、円錐体、球体といった幾何学に分解して認識し、再構成すること。セザンヌの絵画に着想を得て、パブロ・ピカソ(1881-1973)やジョルジュ・ブラック(1882-1963)がはじめたキュビスムの運動は、「画家のはしか」と呼ばれ、多くの画家がキュビスムの虜になった。
なかでもル・コルビジェ(1887-1965)は、キュビスムの画家から出発し、建築家となって新しい建築の規範をつくることになった。いわゆる「近代建築の五原則(新しい建築のための5つの要点)」と言われる、「ピロティ」「自由な平面」「自由な立面」「独立骨組みによる水平連続窓」「屋上庭園」である。これは後に、モダニズム建築の原則として広く取り入れられることになる。
日本では明治時代に西洋文化を大量に輸入する過程で、歴史主義建築からモダニズム建築を、歴史的な変遷としてではなく、様式の流行として取り入れることになる。日本のパラドックスは、奇しくもモダニズム建築の外観が、伝統的な和風建築に部分的に似ていたことだろう。それ以前、歴史主義建築の後期に西洋建築を輸入した日本は、意匠や構造、あるいは建築家や施工といったシステムに至るまで、形態があまりに違うため習得に苦労することになった。
しかし、西洋は急激に歴史主義建築から離脱し、モダニズム建築に移行する。その構造壁のない柱とガラスを利用したデザインは、結果的に日本の柱と障子を使った高床の家屋に似ることになる。そのことを実感したのは、来日して桂離宮などを見たブルーノ・タウト(1880-1938)だろう。そして、日本は、歴史からの分離ではなく、自国の歴史の回顧によってモダニズム建築に移行していく。つまり、過去の意匠を踏襲しつつ、素材の置き換えが行われた。しかし、それは似て非なるものであり、少なくとも精神の働きとしては真逆である。
また、絵画に関しては、分析的キュビスムのように、微分化していくキュビスムは結果的に抽象絵画に至り、画家の内奥から抽象化したワシリー・カンディンスキー(1866-1944)らとの模索と融合していく。それは歴史の浅いアメリカで花開き、戦後の絵画をリードしていく。正確に言えば、ヨーロッパの歴史から切り離されたフロンティアでの宙刷りにされた抽象的な実験と、大地に根差したネイティブアメリカンの文化との混合でもあった。いっぽうで抽象化は、ある種の図像破壊的な意味合いもあったといえるだろう。歴史主義からモダニズムへ、具象から抽象へと歴史は単線的に進むのではなく、振り子のように揺れながら進んでいると考えた方がよい。偶像崇拝の禁止を重視している、プロテスタントやユダヤ教、イスラム教などを信仰するものにとって、絵画を抽象化することは意識的にも無意識的にも自然な衝動だろう。敬虔なカトリックであるアンディ・ウォーホル(1928-1987)は、抽象化に突き進んだ戦後の絵画に、マスメディアに流布しているイメージを用いて具象的なモチーフを取り戻した。
いっぽう日本でも、戦後の前衛芸術のムーブメントを受け、多くの抽象絵画が描かれた。なかでも具体美術協会(具体)では、欧米よりも先行した試みが数多く行われている。その後の潮流であるもの派も、扱っている素材は、石や木、鉄、ガラスといった具体的なものだが、ほとんど加工せず配置するといった表現を行っており、極めて観念的だ。その後、アメリカのニューペインティングの様に、表現主義的な絵画や彫刻、新しい表現方法であるインスタレーションが「関西ニューウェーブ」を中心に日本でも流行する。その時点では、具象とまではいかなかったが、1990年代になり、漫画やアニメ、特撮といったサブカルチャーの影響を受けた、村上隆(1962-)、奈良美智(1959-)といったアーティストが、新しい具象表現を確立する。それはすでに日本の漫画やアニメの影響下にあった海外のアートシーンにも新しい潮流として受け入れられることになった(そのプロセスは、1920年代に藤田嗣治がヨーロッパの浮世絵の認知と日本画の技術を西洋画に取り入れ人気を博したことに似る)。
それは美術や芸術大学を目指す学生にとっても大きなインパクトを与えた。なぜなら、日本では子供から大人まで、アニメや漫画を見ない人はおらず、多かれ少なかれその影響下にあるからだ。絵が好きな子供ならなおさらであり、まず目指すのは漫画家である。日本において漫画ほど裾野が広く、競争率が高いメディアもなかなかない。プロからアマチュアまで漫画を描く人は多い。彼らが美術大学や芸術大学を目指すわけではないので、ある意味で漫画やアニメではない「絵描き」の道として美術・芸術大学を選ぶことが多い。村上、奈良といった画家が世界のシーンに出た後、ポスト村上やポスト奈良を求める声は大きい。そしてそれを目指すアーティストも少なくない。そのため漫画やイラストと絵画の違いを説明するのは極めて難しくなっている。突き詰めれば発表する場の違いだけになるが、近年、著名な漫画家やアニメーターの回顧展が美術館で開催されることも多い。
いっぽうで前田紗希のように、抽象絵画を描くアーティストもいる。それは偶像破壊と言わないまでも、漫画やアニメを潜在的に抑圧しているといっていいかもしれない。前田自身、漫画やアニメを学ぶ学生と距離を保っていたという。かといって、具体のようなアクションを伴ったり、関西ニューウェーブのように空間を占めるようなインスタレーションを志向したりするわけではない。むしろその態度は、第二次世界大戦前後の西洋の画家の姿勢に近いかもしれない。
かつて日本の美術教育では、洋画は抽象、日本画は具象、漫画やアニメは大学教育ではなく、専門学校や漫画家のアシスタントで技術を習得するといったすみ分けがなされていた。しかし、2000年代以降、キャラクターデザインや漫画コースを開設する大学が増え、大学教育の場においても、その区分けは曖昧になっている。具象的な絵の上手さを比べると、イラストレーターや漫画家の方が上手い場合も多い。一目で、現代アートとしての表現であることを主張するにはむしろ抽象画の方がはるかにわかりやすいのだ。
京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に進学した前田も当初は写実的な絵画を描いていた。しかし、一つの題材だけで膨大なスケッチを描く課題が出た際、石を選び抽象化していった。さまざまな角度で描いた石の経験が統合されていくので、ある意味、分析的キュビスム的なアプローチともいえる。しかしその対象があまりに小さく微視的であるため、よりテクスチャーや質感が重視されるようになった。対象を顕微鏡で拡大しているようなイメージといえるだろう。いずれにせよ、前田の姿勢は、表現主義的なアプローチでも、アクションペインティングのようなパフォーマンスを伴うものでもない。具体のような、素材と手段の実験を行うわけでもない。前田の使っているメディウムは、オーソドックスな油彩だからだ。あえて言えば、もの派のように、石のような自然の対象の見え方を変えたものといってもいいかもしれない。しかし、そこに残る筆触は、人の動きを連想させる筆ではなく、ペインティングナイフによるものである。ゲルハルト・リヒター(1932-)が使用するような偶然性が生じる巨大なスキージではなく、ペインティングナイフによって、人の手業の跡を感じさせないにもかかわらず、高度なテクニックによって画面に独特なマチエールをつくっている。
現在では、その描き方は画面を貫く斜めの線と三角形を中心に構成され、画面全体で力の均衡がとられている。また、画面の下に別の画面が見える複数のレイヤーによる描き方をしているのも特徴だろう。表面には多くの筋があり「筆触」が残されているが、どのようなプロセスで描かれているかは見ただけではわからない。何層もの三角形の面を載せていくことで、折り紙や箔のようなマチエール、あるいは擦りガラスから下層をのぞくような効果を獲得している。ただし、画面が持つ絶妙な均衡は、最初から計算されたものではない。画面を見ながら、マスキングテープなどによって閉じられた三角形の面を漆喰を塗るように埋めていく。三角形を重ねる中で調整され、均衡が保たれたところで止まる。それは設計図をもたない即興的なものであり、ある意味で、静謐なアクション・ペインティングでもある。三角形の層は、透視図法で用いられた糸が異なる消失点に向かって閉じられるように、無数の奥行きのある立体が隠れているとも 取れるし、複雑な折り紙を展開したようにも取れる。2次元と3次元を兼ねた両義性がある。
また、白や銀、黒や青の明暗の組み合わせもポイントだろう。なかでも青に使われているウルトラマリンは、もともとはラピスラズリから採取される希少な顔料で、現在では人工的につくられたものだが鉱物的な輝きを持っている。道徳性と品格を兼ね備た色であり、12世紀以降、「聖母マリア」を象徴する青としても使用されるようになる[2]。青と紫の中間にあり、暗くとも彩度が高いため、輝きを放つのだ。擦りガラスのようなマチエールによって抑えられているが、前田の絵画に秘められた輝きのひとつだろう。そして、光と影のように見えるその組み合わせは、見方によって図と地が常に反転する。つまり、背景が輝いていて、暗い部分が手前にあり逆光になっているのか、暗い部分が背景なのかー。ピート・モンドリアン(1872-1944)のような、水平と垂直の線に還元するわけではなく、斜めの線と複数の層に還元化された前田の絵画は、要素は少なくとも複雑な様相を見せる。
近年、モンドリアンを含めて、アートにおける還元主義者たちの方法は、脳科学的な説明がなされるようになってきている。神経生理学者のデイヴィッド・ヒューベルとトルステン・ウィーセルは、視覚が外界を情報処理するプロセスを研究する、視覚神経生理学を創始し、1981年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。彼らは、視覚の段階的な情報処理のプロセスにおいて、一次視覚皮質(V1)のニューロンが、特定の向きの線分に選択的に反応することを発見した。このような線分に対する特定のニューロンは、モンドリアンのような水平と垂直の線に還元した絵画の神経的な背景のひとつを説明するものだ。ただし、なかでも最も激しく反応するのは、10時から4時の方向へと走る斜線であることを報告されている[3]。モンドリアンは、斜線を嫌ったことでも知られ、水平と垂直の線への還元は、神経的な理由だけではなく、理念的なものもあったことを神経生理学者のセミール・ゼキは指摘している[4]。さらにモンドリアンは、還元主義的なアプローチをとることで、自然を抽象化し、普遍的な美を求めた。神智学に傾倒し、精神性に関心を持ち続けた。
その点、前田の場合、水平・垂直の線を使わず、斜線だけで画面を構成しており、視覚的により強い反応を鑑賞者にもたらす可能性がある。ただし、前田はそのような不安定を与える斜線を無数に使いながら、画面に全体として均衡や安定感、神経科学的に言えば「恒常性」をもたらそうとしているように思える。それは、水平と垂直を使ってもたらされる安定感よりもはるかに難しく、微妙な操作を必要とする。制作の途中においては、均衡と不均衡が振り子のように繰り返される。その意味で、単なる反復ではない。
また、その反復は、画家に内在する平衡感覚によるものであり、まるでシーソーのように時に小さく、時に大きく振幅を繰り返していく。つまり、最初に描くものが力点であり、それが画面に作用点として現れる。バランスをとる支点は、画面の中にも、画家の心の中にもある。もし鑑賞者が振幅する画面に、静謐なものを見て取るとしたら、画家の平衡感覚をなぞっているということになるだろう。平衡感覚は、三半規管や耳石器などの前庭器官に加えて、視覚や体性感覚などの感覚入力も随伴し、それらを統合した複合的な感覚とされている。その意味で、前田の絵画は総合的な身体感覚によってもたらされたものといえるだろう。
前田は禅のようなスピリチュアルな関心を背景に作品を制作しているわけではないが、無意識的に視覚処理や平衡感覚のプロセスをフィードバックしているように思える。そのような外界ではなく、内面に起る変化を観察する習慣は、彼女が福井県という雪深い街で育ったことも無関係ではないかもしれない。福井県には、永平寺という座禅を重視する曹洞宗の本山があるからだ。
しかし最も重要なことは、作品を空間に置いたときに人々にもたらされる認識の変化だろう。前田の作品は、インスタレーションのように空間表現を前提にしているわけではないが、特定の空間に展示された瞬間に、床や天井、梁、壁といった線と面、テクスチャーあるいは、光と影と共振をしはじめる。それは鑑賞者にも共振し、自身が安定して見ていると信じている感覚は、瞬間瞬間の絶え間ない平衡感覚によるものだと深いところで感じるだろう。そして遠近法のように、空間を仮想的に拡張するイリュージョンではなく、ゴードン・マッタ=クラーク(1943-1978)やダニエル・リベスキンド(1946-)のように空間に直接的に手を加えるような効果をもたらす。あるいは、空間に差し込む光と影といってもいいかもしれない。光沢感のある銀や白は、自然光や照明光を反射し、環境の変化を映す鏡にもなる。これはまた、リベスキンドのように、歴史を組み替える、脱構築主義やポストモダニズムの動機と似て非なる、谷崎潤一郎(1886-1965)が指摘する「陰翳の美学」に通じているといった方がよいだろう。そして、西洋によって、歴史的なものが新しいものとして迎えられてきた日本の分裂を表すものといってもいいかもしれない。
さらに現在、話題となっている「女性と抽象」についても触れなければならない。近年、最初の抽象画家は、カンディンスキーやモンドリアン、カジミール・マレーヴィチ(1879-1935)、ではなく、スウェーデンの女性画家、ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)なのではないかと指摘がなされている。ヒルマもまた初期において神智学の影響を受けていた。ヒルマの発掘は、西洋社会の白人男性の特権であった抽象画を大きく書き直すものだろう。ヒルマの絵画の場合、柔らかな線や淡い色使い、円形などの特徴を有している。それはジョージア・オキーフ(1877-1986)についてもいえるだろう。また、円形というイメージは、極東の周縁にいた具体の吉原治良(1905-1972)も多用した。これもまた、禅の連想を抱かせる。前田の絵画は分裂を抱えながらも、そのような、民族、人種、性別のいずれからも距離をとり、より個人的で、かつ普遍性を求めようとしている。
前田の描く斜線は、すべてが極端な対立ではなく、微妙な均衡と不均衡、分裂と融合を繰り返している。箔や擦りガラスのような表面は、意識の外と中を出入りし、環境の光を反射する。その亀裂のある層の中にこそ、すべてから逃れ、自由になるイメージがあると語っている。同時にそれは揺れ動く世界が均衡を保つ方法も示唆しているのだ。
註)
[1] 藤森照信『日本の近代建築(下)- 大正・昭和篇』岩波書店、pp.162-163
[2] ミシェル・パストゥロー『青の歴史』松村恵理、松村剛訳、筑摩書房、2005年
[3] エリック・R・カンデル『現代美術史から学ぶ脳科学入門 なぜ脳はアートがわかるのか』高橋洋訳、青土社、2019年、pp.98-99
[4] セミール・ゼキ『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』河内十郎監訳、日本経済新聞社、2002年、p.218
本稿は、前田紗希個展「constancy of space」(京都 蔦屋書店 6F アートウォール)に際して制作された。
前田紗希「constancy of space」
会期|2024年2月27日(火)~3月15日(金)
時間|10:00~20:00 ※最終日のみ17時閉場
会場|京都 蔦屋書店 6F アートウォール
主催|京都 蔦屋書店
入場|無料