二館をまたがって具体の創造原理を探る「すべて未知の世界へ ― GUTAI 分化と統合」国立国際美術館・大阪中之島美術館 三木学評

二館をまたがって具体の創造原理を探る

「すべて未知の世界へー GUTAI 分化と統合」
会期:2022年10月22日 ~2023年1月9日
会場:国立国際美術館・大阪中之島美術館

国立国際美術館と大阪中之島美術館の共同企画として、具体美術協会(具体)の大規模な展覧会「すべて未知の世界へ ーGUTAI 分化と統合」が開催されている。1954年に結成された具体は、具体の創設者であり、リーダーでもあった吉原治良がなくなったことによって、1972年に18年に及ぶ活動に終止符を打った。今年は、解散後50周年の節目にあたる。 2012年に国立新美術館、2013年には、グッゲンハイム美術館で「GUTAI」展が開催され、国内外で再評価も進んでおり、所属していた作家の国際的な価値も高まっている。

国立国際美術館は、もともと大阪万博の際に建設された万国博美術館を元に開設されたが、老朽化のために中之島に新館を建設して、2004年に移転して再開館された。大阪中之島美術館も隣接して建てられる予定であったが、大阪市の財政悪化などの事情もあり、今年計画から30年を経てようやく開館した。約20年の時を経て両館が立ち並び、共同の企画で展覧会が開催されるのは、悲願ともいってもよいだろう。また、それを実現するなら、具体しかなかったかもしれない。

それには幾つか理由がある。具体は、芦屋で生まれた芸術家集団ではあるが、吉原治良は、大阪市の油問屋、吉原製油の御曹司であり、中之島に本宅があった。その蔵を改良して、具体の発表の本拠地であるグタイピナコテカが、ダイビル本館の東隣に置かれていたからである。また、大阪中之島美術館は、吉原治良の作品約800点が寄贈されているほか、初期メンバーの一人である吉田稔郎の映像フィルムなど、多くの貴重な資料を収蔵している。つまり、一躍、吉原治良と具体研究の一大拠点となったのだ。今まで具体関連の展覧会は、兵庫県立美術館や芦屋市立美術博物館が多かったが、今後は大阪中之島美術館での展覧会も大いに期待できるだろう。大阪中之島美術館の4階展示室には黒壁のあったグタイピナコテカを意識した黒い壁面の空間があり、開館記念展では吉原治良の作品が展示されていた。大阪展でも吉原の作品は出品されており、具体創設前の足跡も辿ることができる。

今回、初期から後期まで、具体美術協会に参加した総勢38名の作家の作品が、国立国際美術館と大阪中之島美術館の二館をまたがって展示されるというかつてない規模の具体展となった。その特徴を大きく言えば、具体の創造の原理を考察するというものだろう。本展では、具体でよく使用される「初期」(1954~1957年)、「中期」(1957~1965年)、後期(1965~1972年)という時系列を採用せず、フラットにした上で、大阪中之島美術館では「分化」編として、具体のメンバー個々が持つ「オリジナリティ」に着目し、1章「空間」、2章「物質」、3章「コンセプト」、4章「場所」に分け、国立国際美術館では統合編では、もっとも作品数が多い絵画表現とその解体に着目し、「握手の仕方」「空っぽの中身」「絵画とは限らない」と分けて、その創造原理を明らかにしようとする意欲的な試みである。

会場には巨大な空間であるはずの大阪中之島美術館の5階、国立国際美術館の地下2階を中心に館内全体に所狭しと展示されている。それだけ1つ1つの作品は巨大であるのだ。しかし、これらの作品の創造原理を探る前に、具体の背景を知らないと、多くの鑑賞者は圧倒されて言葉を失うだろう。具体を知るためには、吉原治良の思想を辿らざるを得ない。「人の真似をするな」「今までにないものをつくれ」と吉原はなぜ言っていたのか?その要因として1929年、当時芸術の本場であるフランス、パリで活躍し、一時的帰国していた藤田嗣治との邂逅が挙げられる。吉原は、尊敬していた藤田に自身の作品を見てもらう機会を得たが、人の影響がみられるので、自分の作品をつくれと言われてしまう。

藤田は、当時、活躍していた画家たちの表現を分析した上で、自身が得ていた日本画の技法や知識を駆使して、「乳白色の肌」「乳白色の下地」と称される独特のマチエールによる、西洋人では真似のできない絵画で評価された。藤田にとってそれは狙い通りのことであった。世界のアートシーンを分析し、戦略的な思考をもってターゲットとポジショニングを明確にした上で、それが評価された作家は、日本では明らかに初めてであったし、その後もほとんど出てきていない。その意味では、藤田の世界を見る眼は、日本人の中でも特別なものであった。吉原は、世界で勝負する意味を藤田から教わったといえる。さらに、1938年、二科会の内部に設けられた前衛絵画の研究団体、九室会の発起人の一人となった吉原治良は、顧問に藤田嗣治と東郷青児を迎え入れた。吉原に加え、斎藤義重(後に多摩美大学教授)、山口長男(後に武蔵野美術大学教授)ら、抽象絵画を牽引していた作家が含まれていたことが大きい。戦後の具体美術協会の設立は、藤田の薫陶と、九室会のオーガナイズが源流にあるといってよいだろう。

その上で、具体が何か?といわれたとき、あえて簡単にまとめると、吉原治良がオーガナイズし、絵具やカンヴァスといった伝統的な画材や、美術館やギャラリーといった美術の鑑賞空間に縛られない場所で、抽象的な芸術表現を試みた美術団体といえるだろう。また、吉原は会社の経営者であったこと、関西に在住していたこともあり、東京を中心とした美術業界、教育業界に属してなかったことも特徴に挙げられる。後に関根伸夫や菅木志雄ら、もの派の作家たちを育てた斎藤義重と異なるのは、大学という組織に縛られてなかったことも大きい。その代わりに、芦屋市展などの公募展が、具体の新しい人材を発掘する場となった。その意味で、具体は美術団体であると同時に、大学に変わる私塾、オルタナティブな学校といってもいいものであり、かつ運動体でもあったということになる。

具体の表現が、藤田の薫陶を受けた吉原による「人の真似をするな」「新しいものをつくれ」という指示の下、実験的で前衛的な無数の表現が行われたとことは言うまでもない。その表現の共通性を挙げることは矛盾でもあるのだが、大阪中之島美術館で章が立てられているように最初に「場所」の問題が大きいといえる。吉原が、芦屋公園で企画した「真夏の太陽にいどむモダンアート実験展」「野外具体美術展」などは、美術館のように環境から隔離され守られた空間ではないため、さまざまな表現を生んだ。大阪中之島美術館の吹き抜けで展示されている、元永定正のビニールの中に色水を入れて張り巡らした《作品(水)》(1955)、5階に展示された白髪富士子の《白い板》(1955)、大阪中之島美術館5階パッサージュ、国立国際美術館に地下2階に展示されている、フレームを吊るして、見ている風景すべてを芸術にする村上三郎の《あらゆる風景》(1956)、山崎つる子の赤いビニールの箱を吊るした 《赤》(1956)などは、その際に制作された作品群である。

当然、雨ざらしで環境の影響を直接的に受けるわけなので、伝統的な絵画の技法や画材を使うことはできない。その創意工夫が、新しい表現を生んでいる。それは1970年以降のオフ・ミュージアムや現在の芸術祭で盛んに行われているサイトスペシフィックな表現を先行するものだ。この初期の野外展での試みが、具体のユニークさを方向づけたといえるだろう。いち早く絵画という美術館・ギャラリー、絵画・彫刻という縛りから外れて、その後のインスタレーション、パフォーマンス、オフ・ミュージアム、サイトスペシフィック、リレーショナル・アートなどに先駆けた。また、野外の後に、舞台で美術表現を試みたのも忘れてはならない。もの派の誕生も野外彫刻展がきっかけであったことも偶然ではないだろう。

個々が探求したオリジナリティのある前衛表現ということなら、読売アンデパンダン展などでも盛んに行われたわけだが、それらは分化というより、分裂し、離散し、解体に至っていく。それらが分化しながら統合されているとしたら、やはり吉原治良の思想、美意識によるものが大きい。吉原は、具体美術宣言において、「人間精神と物質が対立したまま、握手している」すると述べているが、基本的にはさまざまな物質による抽象的表現を奨励していたのであって、外界や内面、あるいは意味を描写することは良しとしなかった。それが具体主義であり、無意識を表出するためのオートマティズムではなく、むしろ物質それ自体による自己生成的な、ジェネラティブな作品を求めていたといえるかもしれない。作家が行うのは主観的、表現主義的なアプローチではなく、物質それ自体が多様な形を生んでいくための環境設定に近い。

その意味は、精神と物質は対立すらしておらず、別の位相にありながら重なっていると考えた方がよいのではないか。具体美術宣言の「物質は物質のままその特質を露呈したとき物語りをはじめ、絶叫さえする」「個人の資質と選ばれた物質とがオートマチズムのるつぼの中で結合されたとき、われわれは未知の、未だ見て経験しない空間の形成に驚いた。オートマチズムは必然的に作家のイメージをのりこえてしまう。われわれは自身のイメージに頼るよりは空間創造の自己の方法の把握に腐心した」という言葉は、そのことを示唆している。

また、吉原が初期から機関誌を刊行し、日英併記をして海外にアプローチしていたことも忘れてはならないだろう。それもまた藤田の薫陶によるものかもしれないが、日本にいながらにして、世界を意識していた。そもそも、「人の真似をするな」といったとき、人がどのようなことをしているかわからなければ、「真似をしない」ということはできない。たまたま、同じような表現になった場合はどうするのか。藤田のように、世界の作家の表現を知った上で、それとは違う道を歩まなくてはいけない。おそらく、そのような世界的な意識を持っていたのは、具体の会員の中でもそれほど多くはなかったのではないか。

1957年、アンフォルメルの提唱者であるミシェル・タピエとの邂逅は、その意味で、同時代的な動向を知り、共闘し、海外での具体の認知を高めることになったが、同時に、野外展で獲得した絵画や美術空間からの解放から、絵画に回帰してしまったところがある。ミシェル・タピエとの合流は、世界的な認知と引き換えに、具体がアメリカの抽象表現主義の亜流とみなされるきっかけをつくってしまった。ハプニングの提唱者である、アラン・カプローが具体のオリジナリティ、先駆性をその初期に見出して評価したのも当然のことであっただろう。

また、世界を意識したオリジナリティや新規性を求めていた吉原にとって、60年代に勃興するさまざまなインターメディアやキネティックな表現は見逃せなかっただろう。1965年、オランダの作家たちを中心に組織されたグループ「ヌル」が企画した国際展に招待されたとき、その動向をはっきりつかんだと言われているが、新しい会員を入れ、大阪万博が決定したことも見据えて、初期の屋外や舞台での実験性と、最新の技術を組み合わせたインターメディアのグループとして生まれ変わろうとしていたのではないか。

大阪万博では、吉原は美術展示委員に就任しており、具体としても万国博美術館の「ガーデン・オブ・ガーデン」、みどり館エントラスホール、そしてお祭り広場での「具体美術まつり」、「夜のイベント」などに参加した具体総力を挙げたイベントであったはずだ。「具体美術まつり」などは、制作、構成、演出、音響デザイン、照明デザイン、美術デザインなどの役割分担がある、明らかな組織的、統合的な作品である。具体の組織論や、集団制作としての統合の側面ももっと光を当てられるべきだろう。

1929年に、藤田に出会ったのは吉原だけではない。藤田を神戸で出迎えた中に、東京美術学校の同級生であった岡本一平がいる。岡本一平は、12月には朝日新聞の特派員としてロンドン軍縮会議の取材のために、かの子、岡本太郎を連れて渡欧している。その時、一平は太郎を、藤田に預けたかったようだが、大恐慌の余波でパリの経済も悪化し、藤田も家を手放し、1931年には南米に旅立つことになる。しかし、何らかの話はしただろう。藤田のいなくなった30年代のパリで岡本太郎は、抽象画、シュールレアリスム的な絵画を描き、第二次世界大戦の悪化に伴い日本に帰国する。

岡本太郎が企画した、いち早く世界の戦後芸術の動向を紹介した「世界・今日の美術展」でも、サム・フランシスやジョルジュ・マチュウなどアンフォルメルの動向が紹介され、ミシェル・タピエが来日する1つのきっかけをつくった。戦後、太郎が日本を発見する足跡は、藤田の戦前の足跡に似る。藤田の蒔いた種が、それぞれに花開き、「太陽の塔」とお祭り広場の「具体美術まつり」として再び出会ったと考えることもできるだろう。

大阪中之島美術館は、「具体美術まつり」や「夜のイベント」の貴重な映像資料、国立国際美術館は、万国博美術館を前身としながら、1965年から大阪万博に至る、吉原治良と具体の成し遂げたこと、成し遂げたかったことにフォーカスが当てられなかったのは残念ではある。大阪中之島美術館のアーカイブズ情報室で、それらの貴重な映像が見られるので、是非併せてご覧いただきたい。

まとめると、本展は、創造原理の観点から、年代でもなく、人物でもなく、「作品」を中心として再整理された。結果的に個々の作家のオリジナリティという名の、絶え間えない差異化、微分化の側面が強調され、白髪一雄、元永定正、田中敦子、村上三郎、山崎つる子といった、オリジナリティの源泉である強烈な個性が見えにくくなってしまった嫌いはある。しかし、それは具体の新たな側面に光を当てる一つの方法であるし、そのことによって初めて見えてきたこともある。本展によって、具体というユニークな運動体は、まだ多くの可能性があることが示されたのではないか。

三木 学
評者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹─色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員、大阪府万博記念公園運営審議委員。

Manabu Miki is a writer, editor, researcher, and software planner. Through his unique research into image and colour, he has worked in writing and editing within and across genres such as contemporary art, architecture, photography and music, while creating exhibitions and developing software.
His co-edited books include ”Dai-Osaka Modern Architecture ”(2007, Seigensha), ”Colorscape de France”(2014, Seigensha), ”Modern Architecture in Osaka 1945-1973” (2019, Seigensha) and ”Reimaging Curation” (2020, Showado). His recent exhibitions and curatorial projects include “A Rainbow of Artists: The Aichi Triennale Colorscape”, Aichi Triennale 2016 (Aichi Prefectural Museum of Art, 2016) and “New Phantasmagoria” (Kyoto Art Center, 2017). His software projects include ”Feelimage Analyzer ”(VIVA Computer Inc., Microsoft Innovation Award 2008, IPA Software Product of the Year 2009), ”PhotoMusic ”(Cloud10 Corporation), and ”mupic” (DIVA Co., Ltd.).
http://geishikiken.info/

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