和田三造が牽引した色彩調和論の結晶
日本は柳田國男が「天然の禁色」と指摘したように、江戸時代までの日本は基本的には天然の染料・顔料を使って、絵画や織物などを制作しており、鮮やかさには自ずから限界があった。ただし、その中においても、ベロ藍(プルシアン・ブルー)などの化学染料が少しずつ入ってきて、若冲などが先駆け、江戸末期には北斎や広重などの浮世絵に多用されている。
明治に入ると、19世紀に西洋で発達した化学染料や顔料が大量に入ってくるが、それらを受容し自分のものとして使えるようになるには時間がかかった。江戸時代には奢侈禁止令の影響で、「四十八茶百鼠」と称されるように、茶色や灰色の種類は豊富にできたが、高彩度の色の配色をコントロールする感覚は備わっていなかったからだ。鮮やかな色を駆使できるようになったのは、大正や昭和初期になり、自国で化学染料や顔料が作れるようになってからのことだ。「銘仙」などの今見ても鮮やかな着物の斬新な配色はまさに一つの成果といえよう。
そのような西洋由来の色彩科学を取り入れる中で、和田三造の果たした役割は大きい。和田三造という名前は知る人は多くないかもしれないが、第1回文部省美術展覧会(文展)で、最高賞を受賞した《南風》(1907、東京国立近代美術館蔵)は、一度は見たことがあるのではないだろか。教科書などにもかなり掲載されており、小舟に乗る筋骨隆々な半裸の男性らの絵から、西洋絵画の描法を見事に会得していることがわかる。
和田三造は画家として一流なだけではなく、装飾工芸や色彩研究にも力を注ぎ、日本標準色協会を創立し、当時日本にはなかった色見本の作成を行っている。日本標準色協会は改組し、日本において唯一の色彩研究の財団法人、日本色彩研究所になり、現在も続いている。
東京美術学校図案科教授にも就任し、若いデザイナーと一緒に、色見本に基づいて実践的な配色のカタログ『配色總鑑』を刊行しており、以前、『配色辞典 大正・昭和の色彩ノート』として青幻舎から復刻された。
その続刊として『配色總鑑 B篇』(昭和9-10年)、『五百選新作図案集』(昭和13年)の中から、日本の季節をイメージした72パターンの多色配色、昭和初期の服飾・インテリア・グラフィックデザインなどから161点の配色例を掲載した『配色辞典 応用編』が刊行された。
フランスに留学していた和田三造の配色理論は同色調と異色調からなり、類似と対照からなるシュヴルールの配色理論に近いものがあり、どこまで影響を受けていたかわからないが、西洋的な配色や染料と、日本的な季節感をうまく統合しているように思える。
現在の人々と好みは違うかもしれないが、大正・昭和初期において、西洋と日本の色彩調和理論とその実践が結晶化していることがわかるのではないだろうか。その後に戦争が激化してまさに灰色の時代となり、ひるがえって戦後は新素材の開発やアメリカ文化の流入によって、色彩文化は大きく変化していった。
ただ残念ながら、原色が氾濫した景観や看板などの色彩環境はお世辞にもバランスがとれているとは言い難い。そういう意味では、ここで示されている大正・昭和初期に築いた配色文化は、和と洋のバランスがとれており、現在の我々にとっても示唆に富んでいるのではないだろうか。
初出『shadowtimesβ』2020年7月3日掲載