万博の遺産を受け継ぐ、人類の叡智の系譜―「天空のアトラス イタリア館の至宝」展 大阪市立美術館 黒木杏紀評

特別展「天空のアトラス イタリア館の至宝」 大阪市立美術館

展覧会名:日伊国交160周年記念 大阪・関西万博開催記念 特別展「天空のアトラス イタリア館の至宝」
会期:2025年10月25日〜2026年1月12日
会場:大阪市立美術館

184日間にわたる壮大な祝祭の幕を閉じた大阪・関西万博。その熱狂と感動が冷めやらぬ中、万博の文化的遺産(レガシー)を次世代へと継承する、極めて重要かつ濃密な特別展が大阪市立美術館で開幕した。日伊国交160周年記念でもある特別展「天空のアトラス イタリア館の至宝」(2025年10月25日~2026年1月12日)である。「芸術が生命を再生する」というテーマを掲げ、万博会場でも絶大な人気を博したイタリア館。本展は、そのイタリア館で展示された作品群から、西洋美術史の流れを象徴する3件の至宝を厳選して構成されている。

展示作品は、わずか3件(正確には《アトランティコ手稿》が2点のため計4点)。しかし、この少数精鋭のセレクションこそが、本展の核心である。それは、古代ギリシア・ローマが確立した「神話と宇宙(宇宙観)」、ルネサンスが再定義した「信仰と交流(信仰と社会)」、そして同じくルネサンス期に爆発した「英知と創造(知的好奇心と科学)」をテーマに、現代の私たちを形成する西洋の知的基盤そのものを提示する構成となっている。本展は、万博の喧騒から離れた静謐な美術館の空間で、人類の叡智が連なってきた系譜を、真正面から体感させる試みである。

「天空のアトラス イタリア館の至宝」会場風景

宇宙の重さ、知識の重さ―《ファルネーゼのアトラス》

展示室に入ると、まず私たちを迎えるのは、アジア初公開として万博の最大の目玉の一つとなった《ファルネーゼのアトラス》(西暦2世紀)である。ナポリ国立考古学博物館が誇る、古代彫刻の最高傑作の一つだ。高さ約2メートル。その圧倒的な量感と、苦悶に満ちた力感にまず息をのむ。ギリシア神話において、ティタン族の巨神アトラスはオリュンポスの神々との戦いに敗れ、ゼウスから天空を両腕で支え続けるという罰を科される。この彫刻は、その神話の一場面を劇的に切り取ったものだ。

《ファルネーゼのアトラス》西暦2世紀 ナポリ国立考古学博物館

しかし、私たちが真に注目すべきは、苦悶するアトラスの肉体表現以上に、彼がその肩に背負う「天球儀」である。これは、単なる装飾的な球体ではない。現存する最古の西洋の天球儀であり、古代天文学の集大成ともいえるプトレマイオスの『アルマゲスト』に記された48星座(おひつじ座、おうし座などの黄道十二宮、アルゴ船座など現在は使われないものも含む)が、天の赤道や黄道とともに正確に浮き彫りにされている。

《ファルネーゼのアトラス》(部分)西暦2世紀 ナポリ国立考古学博物館

展示資料より 《ファルネーゼのアトラス》(部分)西暦2世紀 ナポリ国立考古学博物館

展示資料より 《ファルネーゼのアトラス》(部分)西暦2世紀 画像提供:ナポリ国立考古学博物館

つまり、この《ファルネーゼのアトラス》は、単なる神話の視覚化ではなく、ヘレニズム期に確立された「宇宙の姿(コスモロジー)」そのものを三次元化した、古代の科学的知識のモニュメントなのである。大理石という物質的な「重さ」は、アトラスが背負う天空の「重さ」であり、同時に、古代人が築き上げた天文学という「知識の重さ」をも象徴している。私たちはこの作品の前に立つとき、神話の壮大さと、宇宙の構造を解明しようとした古代の知性、その両方の重厚さに圧倒されるのだ。この作品は、西洋文明の知的探求の原点として、本展の導入を飾るに最もふさわしい傑作である。

信仰と正義、天と地を繋ぐ祈り―ペルジーノ《正義の旗》

古代の宇宙観に圧倒された次に展示室で出会うのは、ルネサンスの柔和な光に満ちた信仰の世界、ピエトロ・ヴァンヌッチ(通称ペルジーノ)による《正義の旗―聖フランチェスコ、シエナの 聖ベルナルディーノ、祈る正義兄弟会の会員たちのいる聖母子と天使》(1496年)である。ペルジーノ(c.1450-1523)は、「神のごとき」と称されたラファエロの師であり、15世紀後半のイタリアで最も人気を博した画家の一人である。本作は、彼の故郷ペルージャ(ウンブリア州)の「正義の兄弟会」という信仰篤い信徒たちの集団によって制作依頼された、「ゴンファローネ(gonfalone)」と呼ばれる行列用の旗印である。

ペルジーノ《正義の旗》 〈聖フランチェスコ、シエナの聖ベルナルディーノ、祈る正義兄弟会の会員たちのいる聖母子と天使〉 ピエトロ・ヴァンヌッチ[通称ペルジーノ] (1450-1523) 1496年 カンヴァスに油彩 218x140cm ウンプリア国立美術館(ペルージャ)蔵

カンヴァスに油彩で描かれた画面は、明確に上下二層に分割されている。上層には、雲の上に座す聖母子と、それを囲む天使たち。下層には、ペルージャの街を背景に、聖フランチェスコとシエナの聖ベルナルディーノという、ウンブリア地方で特に崇敬された二人の聖人が跪く。そして二人の聖人の間、はるか遠景には、白い装束をまとった兄弟会の会員たち自身が行列をなす姿が小さく描かれている。本作の批評的重要性は、これが単なる祭壇画ではなく、「行列用の旗」という機能を持ったパブリック・アートである点にある。兄弟会の人々はこの旗を掲げて街を行進し、疫病の終息や平和を神に祈った。

ペルジーノ《正義の旗》1496年 ウンブリア国立美術館(ペルージャ) ©Galleria Nazionale dell‘Umbria

画面は、天上の聖母子と、地上の信徒たちという二つの世界を、二人の聖人が仲介者(インターセッサー)として取り持つ構造を持つ。ペルジーノ特有の、澄み切った光と穏やかな人物表現、完璧な遠近法で描かれたウンブリアの風景は、天上の秩序と地上の秩序が、信仰を通じて調和している様を見事に視覚化している。

《ファルネーゼのアトラス》が人間の外側にある広大な「宇宙の秩序」を示したのに対し、この《正義の旗》は、信仰によって担保される人間社会の内なる「秩序と正義」を象徴している。ルネサンス期において、芸術がいかに社会と密接に結びつき、人々の精神的な支えとして機能していたかを雄弁に物語る、宗教画の逸品である。

万能の知性、探求の爆発―レオナルド・ダ・ヴィンチ『アトランティコ手稿』

そして本展は、西洋美術史上、いや人類史上、最も眩い知性の輝きともいえるレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の手稿で締めくくられる。ミラノのアンブロジアーナ図書館が所蔵する、全1,119枚にも及ぶレオナルドの膨大な手稿集『アトランティコ手稿』から、特に貴重な2点の紙葉が、本展で日本初公開されている。

左:レオナルド・ダ・ヴィンチ 『アトランティコ手稿』 第156紙葉 表 《水を汲み上げ、ネジを切る装置》 右:レオナルド・ダ・ヴィンチ 『アトランティコ手稿』 第1112紙葉 表 《巻き上げ機と油圧ポンプ》

1点目は、『アトランティコ手稿』第156紙葉 表《水を汲み上げ、ネジを切る装置》(c.1480-1482年頃)。鏡文字で記されたメモ書きとともに、水を汲み上げるための様々な機械や、ネジ切り機(現代のボルトとナットの原型)のスケッチが、紙面を埋め尽くしている。2点目は、第1112紙葉 表《巻き上げ機と油圧ポンプ》(c.1478年頃)。こちらも、歯車や滑車を組み合わせた巻き上げ機や、水力を利用したポンプのメカニズムに関する初期の考察が描かれている。

左:レオナルド・ダ・ヴィンチ『アトランティコ手稿』第156紙葉 表《水を汲み上げ、ネジを切る装置》1480-1482年頃 アンブロジアーナ図書館 ©Veneranda Biblioteca Ambrosiana/Metis e Mida Informatica /Mondadori Portfolio.  右:レオナルド・ダ・ヴィンチ『アトランティコ手稿』第1112紙葉 表《巻き上げ機と油圧ポンプ》1478年頃 アンブロジアーナ図書館 ©Veneranda Biblioteca Ambrosiana/Metis e Mida Informatica /Mondadori Portfolio.

これら2枚のドローイングは、美術作品であると同時に、純粋な科学技術の探求の記録である。レオナルドの知性の本質は、彼が画家であり、彫刻家であり、建築家であり、同時に科学者、解剖学者、工学者であったという「万能性」にある。彼の目は、世界を「観察」し、その仕組みを「解明」し、それを「再現」しようとした。《ファルネーゼのアトラス》が当時の「完成された宇宙観」を示す静的なモニュメントであったとすれば、レオナルドの手稿は、世界のあらゆる事象を解明しようとする「知の爆発」そのものを示す動的なドキュメントである。

水をいかに効率よく汲み上げるか。ネジという部品がいかに機能するか。彼の飽くなき探求心は、自然の法則を解き明かし、それを工学的に応用しようとする、まさに近代科学の方法論そのものである。これらインクの染み一つひとつが、ルネサンスという時代が到達した知性の頂点であり、その後の科学技術の発展を予見する驚くべき証左なのだ。

宇宙、信仰、探求が織りなす西洋文明の知的系譜

本展「天空のアトラス イタリア館の至宝」は、単に大阪・関西万博のイタリア館の人気作品を再展示するという回顧的な企画ではなかった。古代の「宇宙」、ルネサンスの「信仰と秩序」、そして「科学的知性」という、西洋文明の根幹をなす3つの柱を、それぞれを象徴する最高レベルの至宝によって指し示す、極めて知的に富んだ展覧会である。

《ファルネーゼのアトラス》が提示する「世界の構造」、《正義の旗》が示す「社会と信仰の調和」、そして『アトランティコ手稿』が記録する「飽くなき知の探求」。これら3件の作品群は、時代も分野も異なりながら、人類がいかに世界を理解し、秩序立て、そして変革しようとしてきたかという壮大な物語を紡ぎ出している。万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」の文化的ルーツが、まさにここにあると私たちは実感するだろう。わずか数点の展示品から、これほどまでに深く、西洋の知性の系譜を辿ることができる機会は、他に類を見ない。

大阪市立美術館

※オンラインチケット(日時指定予約)の全日程分が完売したため、美術館窓口を含めチケット販売を中止しております。
※今後の詳細は、大阪市立美術館ホームページをご確認ください。

 

 

 

アバター画像

兵庫県出身。大学卒業後、広告代理店で各種メディアプロモーション・イベントなどに携わった後、心理カウンセラーとしてロジャーズカウンセリング・アドラー心理学・交流分析のトレーナーを担当、その後神戸市発達障害者支援センターにて3年間カウンセラーとして従事。カウンセリング総件数8000件以上。2010年より、雑誌やWEBサイトでの取材記事執筆などを続ける中でかねてより深い興味をもっていた美術分野のライターとして活動にウェイトをおき、国内外の展覧会やアートフェア、コマーシャルギャラリーでの展示の取材の傍ら、ギャラリーツアーやアートアテンドサービス、講演・セミナーを通じて、より多くの人々がアートの世界に触れられる機会づくりに取り組み、アート関連産業の活性化の一部を担うべく活動。