武術としての仏像-信仰・美術・武術
筆者は奈良に約50年住んでいる。と言っても、大阪に通うサラリーマンのためにつくられた新興住宅地なので、奈良市の神社仏閣が集積したところではない。とはいえ、奈良にいる以上、幼少期から神社仏閣や仏像を見る機会は、京都を除けば、他県に比べれば多い方だと思う。特に仏像の研究家ではないのだが、昨年、改めて仏像を見て得たインスピレーションを忘れないうちに書いておきたい。浅学で間違いがあるかもしれないがご容赦いただきたい。
仏像が信仰の対象ではなく、美術品として鑑賞されるようになったのは、言うまでもなく、1868(明治元)年の神仏判然の令(神仏分離令)以降のことだろう。神仏分離の萌芽は江戸時代後期の儒家神道、国学・復古神道にすでにあるが、全国で廃仏毀釈運動が巻き起こり、多く仏像が破壊され、寺社が解体され、社領地が没収されたのは、1868(明治元)年以降のことになる。奈良もその例外ではなく、興福寺は激しい廃仏毀釈の被害に遭ったと言われている。
その後、古美術趣味のあったお雇い外国人、東京帝国大学で哲学・経済学などを教えていた、アーノスト・フェノロサが、その惨状を嘆き、1880(明治13)年、文部省に掛け合い、関西古社寺調査団の顧問になって、京都・奈良の文化財調査を開始する。その時、通訳として同伴したのがまだ学生であった岡倉天心であるという。岡倉は文部省に入省後も、フェノロサとともに関西古社寺文化財調査を行う。フェノロサの調査報告や文化財保護政策に対する提言によって、1896(明治29)年、古社寺保存会が設立、翌年1897(明治30)年6月には古社寺保存法が成立する。12月には文化財が特別保護建造物・国宝に指定されるようになる。指定されたものは保存経費が支出されるようになり、フェノロサや岡倉の調査は国宝指定に大きな影響を与えた。つまり、フェノロサは、仏像に宗教的価値ではなく、美術的価値を見出し、美術品として再評価したといってよいだろう。特にフェノロサが好んだのが、ギリシア彫刻を彷彿とさせる写実性の高い天平彫刻だったと言われている。
仏教ももともと偶像崇拝は禁止していが、アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシア文化とオリエント文化と混じり、ヘレニズム文化が生まれた。その影響によって、仏像彫刻が誕生するようになる。その意味では、仏像彫刻にギリシア彫刻の面影を見るのは、自然なことかもしれない。それは、伊東忠太が法隆寺の列柱に、ギリシアのパルテノン神殿などに見られるエンタシスとの類似性を指摘したことと近いだろう。もちろん、天平彫刻は直接的には唐からの美術・技術的な輸入の要素が大きいと思うが、唐がインドやペルシアと交流があり、奈良にもペルシア人が来ていたことを考えると、当時の文化的な交流は想像以上に活発であったのだろう。
東大寺を開山した良弁が構えていた、東大寺の前身寺院である金鍾寺の遺構といわれる法華堂(三月堂)には多くの天平彫刻がある。東大寺最古の建築であり、一つの建築のように見えるが、北側の正堂に連なる南側の礼堂部分は、鎌倉時代に重源上人により新造されたものだ。
本尊の「不空羂索観音立像」や「梵天・帝釈天像」、「四天王立像」が有名であるが、秘仏「執金剛神立像」は通常は1年に1回、12月16日しか見ることはできない。良弁の念持仏と言われるこの仏像は、北面の扉の中にある。北にあって、「不空検索観音立像」などを守る守護神といってもよいだろう。昨年は良弁僧正1250年御遠忌記念ということあって、特別に長期にわたって開扉されており、私もじっくり時間をかけて見ることができた。
もちろん、これらは明治以前においては、信仰の対象であって、美術の対象ではない。美しさを讃えていたとしても、信仰の助けになるということが目的である。だから、美術品としてモノのように眺めるのは、本来の向かい方ではないことを念頭に置いた上で、「執金剛神立像」の体の捻り方が妙に印象深く感じた。右手に金剛杵を持ち上げ、今にも仏敵に対して打ち下ろそうとしており、左手は下げて手を握り、内側にやや旋回している。左手は筋肉が隆起し、血管が大きく浮き出ているので、相当長時間同じポーズをしていたようにも思える。「執金剛神立像」自体は、上半身と下半身がややバランスが悪いと指摘されているが、全長が173cmとほぼ現在の日本人の身長と近いことからも、モデルがいたのではないかと想像する。
その他、戒壇院や興福寺などにある、天平彫刻を確認しても、同じような体を捻った動作が見られる。このような動作は、現在の日本人にもあまり見られないもので、着物を着ていた明治以前の日本人ならなおさらしない動作だったのではないかと思われる(着物を着て体を捻ると、帯がほどけてしまう)。
それらの動作に着目したのは、私が一昨年から中国拳法をしているからだろう。コロナ禍の運動不足の解消を目的に、子供と一緒に習いだしたのだが、昔少しだけやっていた空手や剣道といった武道とは、力の出す原理がかなり違うことに戸惑うことになった。なぜなら日本の武術は、体をほとんど捻らず、力を出すときも、切り返すときも、正面性を保ちながら動かすからだ。いっぽう、中国拳法は、体を捩じって、開放することで力を出す。これを発勁(はっけい)と称したりする。そして、捩じるときに吸い、開くときに吐く。呼吸法もそこには含まれている。天平彫刻の、特に天部の彫刻を見ると、まさにそのような身体操法を色濃く表しており、中国人武術家か、彼らから武術を学んだ人々がモデルになっていたのではないかと直観したのだった。
同じ東大寺の戒壇院戒壇堂に安置されている「四天王立像」も、似たような体を捻った動作がみられるが、法華堂にある須弥壇の座痕と台座が一致することなどから、造像当初は法華堂に安置されていたという説もある。もともと戒壇院は、754(天平勝宝)年、戒律を与えるために唐から来日した鑑真によって建立され、当初は鋳造であったが、三度の火災によって、創建時の伽藍とともに失われている。鑑真は、仏師も伴い来日したとされているので、現在の戒壇院に安置されている「四天王立像」の作者はわからないが、中国人仏師に加えて、もしかして、護衛の武術家などもいたかもしれない。
中国武術史は、不明なところが多い。嵩山少林寺の伝承では、禅宗の開祖、達磨大師が武術を伝承したという説があるが定かではない。しかし隋末期から初唐の時代、唐の第二皇帝、太宗(李世民)に、嵩山少林寺の13人の僧侶が援軍し、王世充の反政府軍を鎮圧したことが石碑に残っており、すでに武術の修行を行っている僧侶(武僧)が存在したことがわかっている。ちなみに、その逸話をもとにつくられたのが、リー・リンチェイ(ジェット・リー)が主演した『少林寺』である(ただし、当時、少林寺にはほとんど武術が伝承されておらず、ジェット・リーは長拳の選手だった)。唐の歴代の皇帝は、嵩山少林寺を手厚く庇護したので、少林寺や彼らから武術を伝承された武僧が護衛をしていたとしても不思議ではない。
「四天王寺立像」が身にまとう甲冑は中央アジアの様式がみられるという指摘があるが、当時の唐の交流を考えると実際に見に付けていた武僧がいた可能性もあるだろう。ここで重要なのは、これらは仏法を守る守護神として、実際の中国人武僧をモデルに、中国人仏師あるいは中国人から教えを受けた仏師が写実的に彫刻した可能性があること。さらに、武術的・呼吸法的な型を表している可能性があることだろう。
実は菩薩部や如来部のような動きの少ない仏像ですらその可能性がある。気功では、動きを伴う動功と、座禅のような静かな静功に分けられるが、天部や明王部は動功的な動きを伴うもの、菩薩部や如来部は瞑想的な動きの少ない静功的なものを描写していたと考えられないだろうか。とするならば、仏像は信仰の対象、美術品として鑑賞する対象だけではなく、その姿をモデルに実践する対象というもう一つの、もしかしてもっとも重要である要素が含まれていることになる。
天平時代の優れた仏像が生きているように見えるとするならば、それは写実的というだけではない。呼吸法と動作が一体となったプロセスを描いているからに他ならない。天平彫刻、特に「執金剛神立像」から大きな影響を受けたという運慶や快慶といった慶派の仏師の仏像は、写実的に加えてやや誇張された表現が特徴だが、東大寺南大門の「金剛力士像」なども、「阿吽」というように、呼吸法の吸う動作と吐く動作の意味を明確に伝えている。
このようなことを、私の師父である林隆志に伝えると以下のような回答が返ってきたので紹介したい。
「東大寺の南大門(天部)にいる阿吽の像で説明しますと、仕事は門番で武術家ですので像のポーズは重要で鎌倉時代1203年作で写実性と肉体美で素晴らしく阿吽像の阿形像は特に手のひら一杯に開いて威嚇しています。この手の形は形意拳や八極拳でいう明勁の打ち方によく似ています。口の開き具合で腹筋で爆発呼吸の明であると推測され、肘を下げて身体を絞り込んでいるのがポイントです。
逆に吽形像は指でOKサインをしているのですが、ひと差し指の横に親指が効かすことによって、このつまみ上げる形は最も力が入ります。悪をつまみ上げるぞと威嚇している感じで呼吸は口を閉じて鼻から暗の爆発呼吸をしています。こちらは肘を上げて阿吽像のコントラストが左右対称なのがデザイン的に素晴らしい。
如来は大仏さんで、これは心身の解放(悟り)をしていますので、指先にテンションがかかってないです。右手は相手に向けていて、薬指を傾げているのは全てを受け入れるという意味で武術的に主要8関節が完全に解放され瞑想状態という感じがしますね。
仏像で特に大仏殿の多聞天(四天王)は鎧にライオンのベルト、ブーツとモンゴルや真の始皇帝の騎馬隊の格好の感じが印象深く今でいうフル装備したSWAT隊と言う感じでしょうか。あとは菩薩から上の階級は基本掌は解放するようになっており、それ以下、明王、天部は怒りや緊張状態を表しているので手に力が入っています。
要約しますと、中国系武術家が身近に居てそれを模写したか、もしくは当時の力持ちの人間たちは自然と力の出し方を会得していたのかもしれません。当時は重機が全くないのですから全ては人力その人夫でも飛び抜けた人間を金剛力士と称されていたのかもしれません。おそらく江戸・明治期になってから日本の武術は真っ直ぐの動作を特徴としだしたのではないかと思います。」
とのことだった。林師父は、ニューヨークのチャイナタウンで多くの中国武術家から学び、全米武術太極拳で優勝を含めた多くの受賞歴がある。その後、呂耀鉄師父の徒弟になり、自然門武術を修めた。自然門武術は、日本ではあまり知られていないが、四川省峨眉山を発祥とする武術で、蒋介石のボディーガードとなった杜心五(シャ・シンウ)や十虎のうちの一人と呼ばれた伝説的な武術家、萬藾聲(マン・ライセイ)が習得した武術として知られている。また、林師父は、奈良の観光案内の仕事もしているので、奈良の仏像についてはかなり詳しいといってよい。
平安時代になると、仏像は日本化していき、ふっくらしたフォルムになるが、鎌倉時代に慶派仏師らによって写実性が再び追求された。運慶や快慶は入宋していないが、平氏の南都焼き討ち後に東大寺を復興した俊乗房重源は、三度も入宋しており、彼もまた当時の仏師や武僧を連れて帰った可能性もあるだろうし、天平彫刻の意味を理解していたかもしれない。
密教には即身成仏、禅宗には見性成仏という言葉があるが、そこに自らの身体や精神の中に仏を見出す、あるいは自分自身が「成仏」するという思想があるならば、仏像は偶像崇拝といったものではなく、実践のための見本という方が正確である可能性がある。つまり、拝むだけのものでも、鑑賞するだけのものでもなく、行うためのものであるというわけである。
もしそうだとしたら、日本の「彫刻史」というのは、そのような観点から考え直さなければならないのではないか。そうであるならば、仏像の一挙手一投足を真似ることで、1200年以上前の彫刻を通して、彼らが求めた精神を、身体を通して継ぐことができるのである。