モダン都市・奈良の風景を撮る 奈良女子高等師範学校とその時代 三木学評

モダン都市・奈良の風景を撮る 奈良女子高等師範学校とその時代

奈良県庁舎からの眺め 撮影:藤岡亜弥

関西の近代建築ブーム
先日、奈良女子大学の記念館と佐保会館を見学する機会を得た。奈良女子大学と入江泰吉記念奈良市写真美術館のアーティスト・レジデンスを行う共同プロジェクトで、写真家、藤岡亜弥さんも招聘されており、彼女に奈良の近代建築を案内したからだ[1]。広島在住で海外に滞在していた経験もある藤岡さんは、広島をめぐって交錯する内外の視点をふまえ、私的で詩情あふれる広島の日常を撮影した『川はゆく』で、伊奈信男賞、木村伊兵衛賞、林忠彦賞を受賞した。今回、奈良女子大学の元学長宅を改装したレジデンス施設に宿泊し、奈良を訪れて滞在制作する予定だ。そこで、奈良女子大学の前身である、奈良女子高等師範学校の時代に想いを馳せ、当時の痕跡である近代建築などを撮影することにしている。

近代建築を巡ることがある種のブームになってからずいぶん経つ。最近では、文筆家の甲斐みどりが著した『歩いて、食べる 東京のおいしい名建築さんぽ』)(エクスナレッジ、2018)と、それを原作にした池田エライザと田口トモロヲ主演のドラマ『名建築で昼食を』が話題となった。その後、甲斐さんは、京都編の『歩いて、食べる 京都のおいしい名建築さんぽ』(エクスナレッジ、2022)も刊行している。また、甲斐さんの原作本はないものの、好評だった『名建築で昼食を』は昨年、大阪編も制作された。

大阪では、ずいぶん前から「大大阪」と称された大正末から昭和初期の時代が注目されており、そのきっかけをつくったのは、明治から昭和初期にかけてつくられた現存する近代建築だった。今でこそ大阪は近代建築がある種の「名物」になっているが、評価されるようになったのは2000年代初頭のことだ。それまで大阪の近代建築は専門の研究者もほぼいなかった。その頃、再評価が始まったのにはいくつか理由がある。一つは「大阪人も知らない大阪発見Magazine」というキャッコピーで、マニアックな情報が満載だった雑誌『大阪人』(大阪都市協会)に、大阪歴史博物館の建築専門の学芸員、故・酒井一光さんが「発掘 the OSAKA」という近代建築を紹介する連載をしたこと。もう一つは、当時は珍しかったリノベーション専門の設計事務所、アート&クラフトを率いていた中谷ノボルさんらが、大阪の水辺を復興する活動と合わせて、近代建築のリノベーションなどにも取り組んでいたこと。そして、当時、アート&クラフトに所属していた設計士、岩田雅希さんが呼びかけて結成された任意団体「大オオサカまち基盤」(大バン)が、建築の利活用をする運動やイベントをしていたこと、などである。

私は岩田さんに誘われて大バンの活動に参加し、独立したばかりだった建築家、高岡伸一さんらが集まり、近代建築を持っているオーナーを集めたシンポジウムや利活用のイベントなどを行っていた。それらの活動は、2007年にガイドブック『大大阪モダン建築』(青幻舎)として刊行され、多くの人々がまとまった形で大阪の近代建築を見て回ることが可能になったのだ。その後、NHKの朝の連続小説では、『カーネーション』(2011年後期)、『ごちそうさん』(2013年後期)、『あさが来た』(2015年後期)を始めとして、大大阪時代が舞台になることが増え、全国的な認知も高まった。そこでは、大丸心斎橋店や芝川ビルなど実際に近代建築が実際に撮影のロケ地になることも多かったのだ。

私自身は奈良の出身であるが、個人的な動機としては、戦後、大阪のイメージが下町文化ばかりになっていることに対する違和感があり、それを覆したかったということもある。サービス精神旺盛な大阪人は、外からの期待を演じる部分もあり、より誇張されて伝わっていた。しかし、戦前には非常にモダンな文化があったのだ。なぜ下町文化ばかり目立つようになったのか。それは、鉄道網が発達したことにより、特に「船場」と言われる中心商業地から、阪神間に富裕層が移り住んだことも大きい。大阪は面積が小さいのと、工業化により、市街地が煙に覆われるなど環境的な問題もあった。最初は別荘であったが、徐々に住宅になっていった。近代建築の存在は、戦前のモダンな文化をいまに伝える生き証人のようなものだったのだ。しかし、2000年過ぎた頃から、老朽化と少し経済が持ち直してきたことにより、建て替えが加速するようになっていた。そのため、私たちも利活用を必死に訴えたというわけである。大阪は、行政が計画したのではなく、商人が中心となって建てた近代建築が中心で、神戸の旧居留地や北野異人館のようにまとまってないため、街並みとして形成されるほどではなかった。だから書籍をつくるのが一番効果的だった。

ドラマのロケ地にもなった奈良女子大学記念館 撮影:三木学

前置きは長くなったが、実は、奈良女子大学記念館は、『ごちそうさん』のロケ地にもなっていたのだ。『ごちそうさん』は、そのような「大大阪ブーム」の渦中でつくられたドラマでもあり、テーマは大阪の食べ物と建築だった。そのため、ヒロインの旦那は、大阪市の営繕課に入り、関東大震災の調査を行っている。それを見て、大阪の都市計画に活かしたというストーリーだ。ということで浅からぬ縁がある。

その後、大阪では、近代建築を中心に「生きた建築ミュージアム」という形で、建築自体を一つつのミュージアムに見立てて指定してく事業を行い、「オープンハウス・ロンドン」などを参考に一斉公開のイベント「生きた建築ミュージアム大阪フェスティバル(イケフェス大阪)」も行われるようになった[2]。今は市から民間に事業が継承されており、現代建築まで網羅して、毎年のべ3万人以上を集める秋の風物詩のイベントになっている。実はその影響を受け、京都でも昨年から「京都モダン建築祭」[3]が行われ、今年はなんと神戸でも「神戸モダン建築祭」[4]が行われるという。

モダン都市としての奈良
「奈良モダン建築祭」は今のところ行われる予定はないが、昨年クラウドファンディングをして実施された「京都モダン建築祭」のリターンの一つとして、旧奈良監獄の見学会が行われている。旧奈良監獄は、奈良少年刑務所として知られていたが、元は「明治の五大監獄」であり、1908(明治41)年に竣工した。その他は、千葉監獄、金沢監獄、長崎監獄、鹿児島監獄である。この中で、全体が残っているのは旧奈良監獄だけであり、2016(平成28)年には重要文化財に指定された。中央の監視台から半円で放射線状に牢屋が延びる構造は、ベンサムの考案した一望監視装置「パノプティコン」を彷彿とさせる、視線による効率的な監視装置の具現化ともいえ、日本の近代を考える意味でも重要な建築といってよいだろう。早くから保存運動に取り組んだのはジャズピアニスト、山下洋輔であり、設計者、山下啓次郎の孫である。耐震補強に時間がかかったが、星野リゾートが独居坊9つを一部屋に改装して、2026(令和8)年にホテルを開業する予定だ。奈良監獄の歴史を展示したミュージアムも併設される。

改修工事中の旧奈良監獄 撮影:藤岡亜弥

旧奈良監獄もさることながら、個人的には奈良はかなりモダン都市なのではないかと思っている。というのも、奈良の中心市街地に関しては、春日大社や興福寺といった寺社仏閣だけではなく、大きな近代建築が揃っているからだ。奈良国立博物館なら仏像館(旧帝国奈良博物館)、仏教美術資料研究センター(旧奈良県物産陳列所)、奈良ホテルなどはその代表格である。そして、戦後のモダニズム建築として、片山光生が設計した、奈良県庁舎、奈良県立美術館、奈良県文化会館が現存していることも大きい。片山は、前回の東京オリンピックに際して解体された旧国立競技場の設計者でもあった。そして、県庁舎の前は、奈良公園の一部で登大路園地になっており、休日になるとマルシェやコンサートなどのイベントが行われることも多い。つまり、ヨーロッパの都市のように、市庁舎・美術館・博物館・ホール・広場が都心部に集積するという形になっており、電線もなく、歩道も広いこともあり、もっともモダンな空間になっているのである。中核である教会は、興福寺のような仏教寺院になるが、興福寺の境内の手前には、日本聖公会奈良基督教会という和風木造の教会もある。

奈良国立博物館なら仏像館を遠方から望む 撮影:藤岡亜弥

奈良県庁舎 前庭 撮影:藤岡亜弥

日本聖公会奈良基督教会 礼拝堂 撮影:藤岡亜弥

これらの広大な敷地は、興福寺の敷地であったことが重要だ。「廃仏毀釈」によって、興福寺の敷地は、国の管轄になったからだ。上野戦争(戊辰戦争)で焼けた上野恩寵公園や安養寺、長楽寺、雙林寺の境内の一部も没収され、円山公園に変わっている。そして、上野公園には博物館、動物園、美術館が置かれ、内国勧業博覧会が実施され、近代化を牽引する場所になった。公園こそが、都市における近代化のプラットフォームだったのだ。そしてアプリケーションとして、博物館、動物園、美術館がつくられ、博覧会が実施されたというわけである。

奈良県庁舎から興福寺を望む 撮影:藤岡亜弥

東大寺と興福寺にまたがる空地も、1880(明治13)年、奈良公園として開設され、1895(明治28)年、片山東熊が設計した旧帝国奈良博物館が建設された。しかし、このフランスのバロック風の宮廷様式を模した建築は、奈良の景観を乱したということで、奈良県民と奈良県議会から反発があった。そのため、奈良県嘱託となった長野宇平治は、1895(明治28)年、和洋折衷による奈良県庁舎を設計する。つまり、奈良という舞台において、洋と和の様式の折衷が本格的に行われるようになるのだ。そこで採用されたのが、ハーフティンバー様式との折衷である。ハーフティンバー様式は北方ヨーロッパの木造建築の技法で、日本の真壁造りと同じく、木造の柱や梁を柱で隠さない技法で、それらを装飾的に使用している。長野はそこに着目し、和風になりすぎないよう屋根の傾斜を緩くし、庇も浅くすると同時に、間柱を多くして、和洋折衷の一つの型をつくった。

それを継承し、近代和風建築として展開したのが、関野貞である。関野は、建築家でもあるが、建築史家でもある。廃仏毀釈運動による寺社や仏像、宝物の甚大な破壊、損害の反省もあり、1897(明治30)年に古社寺保存法が制定された。それを受けて、内務省技師、奈良県技師となった関野は奈良の古建築を調査し、様式から年代を判定していき、この過程で、平城宮址も発見している。1902(明治35)年、旧帝国奈良博物館の南側に、関野が設計した、旧奈良県物産陳列所(現・仏教美術資料研究センター)が建てられた。旧奈良県物産陳列所は、日本各地でつくられた、殖産興業と物産の展示販売をおこなう施設である。これも近代的な施設の一つだろう。旧奈良県物産陳列所は、奈良県庁舎に倣い和洋折衷が行われた。関野の卒業論文は平等院の研究であった。そのこともあってか、外観は平等院鳳凰堂をモデルに、両翼に屋根がある様式になっている。これは奈良公園の景観との調和を図ったこともあるだろうが、旧帝国奈良博物館が西洋式の両翼のある建築であることで連続性を持たせたともみることもできる。

木造桟瓦葺であるが、正面に唐破風造の車寄をつけた入母屋造の中央楼、両翼には宝形造の楼、細部に割束、蟇股、虹梁、舟肘木など、飛鳥時代から鎌倉時代にかけた日本の建築様式、窓にはイスラム風の意匠、小屋組や壁などに西洋建築の技術を取り入れた。西洋建築だけではなく、東西の建築史や奈良の古建築の様式を熟知している関野だからできた名建築だろう。2009(平成21)年から2011(平成23)年にかけて耐震補強と復原工事が行われ、木製アーチ、クリアストーリー(採光窓)などが蘇っている。

奈良女子大学記念館 撮影:三木学

そのような近代化を担った施設の中で、奈良女子大学の前身である、奈良女子高等師範学校も重要な役割を果たしている。実は、奈良女子師範学校を誘致する以前、岡倉天心が東京美術学校の分校を奈良に置こうとし奈良県知事に土地の斡旋を依頼している。そこ奈良町(後の奈良市)議員が奔走し、法蓮町の約3千坪の寄付を文部省に申し出たが、山地であり、面積が狭いということで、残念ながら美術学校の設立は見送られた。古社寺保存法が成立する前、廃仏毀釈で破壊された寺社や彫刻などの文化財を調査したのは、他でもないアーネスト・フェノロサと岡倉天心である。

フェノロサは、東京大学で哲学・経済学を教えるいわゆるお雇い外国人だが、日本の古美術に関心を持ち、収集や研究・古寺を訪ねていた。そこで寺社や仏像が破壊され、西洋文化を崇拝する状況を憂いており、文科省に掛け合い美術取調委員となった。つまり、日本の寺社や仏像などの崇拝対象を、美術品として認識した最初の人物でもある。岡倉天心は調査のための通訳としてフェノロサと行動を共にするようになる。法隆寺の夢殿を開扉させたのは有名なエピソードだ。フェノロサは1888(明治21)年には奈良の浄教寺で市民に文化財保護の講演を行い、それが帝国奈良博物館(現・奈良国立博物館)の開設のきっかけとなったという。その後、岡倉天心が事実上の初代校長となり、伝統的日本美術の保護を目的として設立された東京美術学校(現・東京藝術大学)の教育においても、奈良の美術の研究は欠かせないと考えられた。もし奈良に官立の美術学校ができていたら、明治以降の美術の歴史も大きく変わっていたかもしれない。

奈良女子大学から少し北西にある旧奈良監獄 撮影:藤岡亜弥

奈良県は、監獄移転新築予定地であった奈良奉行所の跡地、2万有余坪をいったん奈良市に提供、奈良市は文部省に改めて寄付し、美術学校分校設立の代わりに、女子高等師範学校の設置が決定された。それが奈良女子大学の前身となる奈良女子高等師範学校である。そして、北西の場所に建設されたのが奈良監獄というわけである。そういう意味では、奈良女子高等師範学校と奈良監獄は、兄妹のような関係にあると言えるかもしれない。

奈良女子高等師範学校の校舎は、1909(明治42)年に竣工し、同年春に授業が開始されている。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に次ぐ日本で第2の女子師範学校になる。戦前の学校制度において女性が進学できる官立の最高学府であり、義務教育と日清戦争によって増加した女性の就学者に対応する教員養成のためであった。

奈良女子大学記念館 側面 撮影:藤岡亜弥

設計と工事は、文部省建築課であるが、京都帝国大学建築部長兼文部省奈良出張所長心得であった山本治平衛が中心となった。山本は、第六高等学校(岡山)、第四高等学校(金沢)、第七高等学校造士館(鹿児島)など多くの文部省直轄の学校の設計・工事を担っている。山本が採用したのも、ハーフティンバー様式だった。本館と1、2、3、4号館で開校したが現在残っているのは本館(現・記念館)のみであるが、ほとんど改変されていないという。木造寄棟造総二階建ての構造の二階の腰までを板壁、その上を漆喰壁にし、板壁をモスグリーンで塗装しており、より洋風の味付けがなされている。板は一部を竪板張り、その他は横板張りに変化させており、縦長の上げ下げ窓の上下に、円や曲線の模様をつけて、華やかさやしなやかさが演出されている。屋根が、桟瓦葺(さんかわらぶき)であり軽やかにしているのも特徴だろう。洋館の瓦にはよく使われている。中央には頂塔、6か所の明り取り窓、正面には軒先の中央部を三角形にして一段上げるなど、緩やかな勾配の屋根に、垂直性を出して変化を持たせている。

奈良女子大学記念館 二階講堂 撮影:三木学

中に入ると、天井が高いことに驚かされる。それに反して、ドアノブの位置がかなり低い。当時の女性の身長に合わせてドアノブは低く配置されているが、天井が高いのでそれがより強調される。一階は中廊下をはさんで、左右に大小7部屋が配置され、南面には増築した平屋建ての旧事務局長室が取り付けられている。寺社と異なるのは、玄関が東向きであることだろう。寺社の場合、基本的に南面するように配置されている。

1909(明治42)年、奈良女子師範学校創立当時に購入された「百年ピアノ」。日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)製。修復されて現在も活用されている。 撮影:藤岡亜

二階は全体が講堂になっていて、屋根が天井トラスにしているため、約16mの長さにわたって柱がなく、より広く感じられる。なんと300名収容できるという。現在も大学院の入学・卒業式、コンサートなどで使われており、配置されている長椅子も女子高等師範学校時代からのもの、というから、往時の雰囲気をたっぷり味わうことができる。講堂中央部には、天井を折り上げ、吊られている大きなシャンデリアも圧迫感を感じない。シャンデリア上部の花形飾は換気口になっており、熱気が屋根から外に逃げていくようになるほか、半円形の天窓が設けられ、採光に工夫されており、装飾と当時の採光・空調の技術をうまく組み込んでいるのも、学校建築のエキスパートならではといったところだろう。1994(平成6)年、改修工事が行われ、守衛室(附正門)とともに国の重要文化財に指定された。

佐保会館 撮影:三木学

奈良女子大学には、もう一つ著名な近代建築がある。こちらは近代和風建築で、旧奈良県物産陳列所や奈良ホテルに連なるものだ。奈良女子高等師範学校の同窓会館、佐保会館だ。皇太子殿下(昭和天皇)の御成婚記念事業として、1924(大正13)年に企画され、1928(昭和3)年に竣工した。建築費は、佐保会員と母校教職員の醵金によって賄われた。

佐保会館 前庭 撮影:藤岡亜弥

設計は、吉野出身で武田五一に師事した岩崎平太郎で、奈良県庁の建築技術者にもなり、奈良県下で多くの公共建築や鉄道関連の建築を手がけた。木造2階建、入母屋造の和風建築であるが、車寄せがつけられており、内部には手前に洋間の応接室、12畳半・10畳敷の二間続きの第二和室には床の間、二階には講堂があり、和洋がうまく組み合わされている。天井は棹縁井、障子は縦横を交互に交差して組む両組手、欄間は竹の節とそれぞれ伝統様式を使っているが、具象的ではない線の細い抽象的な様式を採用することで、和式の重さから解放されている。外観もよく見れば、真壁造り、漆喰塗壁の伝統的な和風技法を使いながらも、二階は上げ下げ窓(改修後は押し開き窓)に曲線をあしらった繊細な枠をつけ、竪板張りはこげ茶色に塗られモダンな印象を与える。

南側に流れる佐保川から見た佐保会館 撮影:藤岡亜弥

佐保会館ができた時期は、大大阪時代に相当するが、まさに大阪市域が拡張されて、人口日本一となった1925(大正14)年、白樺派の主要メンバーだった志賀直哉も京都を経て、奈良に転居する。1929(昭和4)年には、自身が設計に携わった住居が高畑に完成し、住まいを移す。数寄屋造りに洋風、中国風の様式を取り入れつつ、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂があるモダンな建築であり、志賀直哉を慕って、白樺派の武者小路実篤や小林秀雄、亀井勝一郎、小林多喜二、桑原武夫や陶芸家の今西洋、写真家の入江泰吉らが訪れ、「高畑サロン」と称された。そこには関東大震災後に関西に移り住んだ谷崎潤一郎らも訪れ、関西のモダニズムと同時に、伝統の再発見を促したといってよい。その動向は、多かれ少なかれ、奈良女子高等師範学校にも影響を与えたのではないか。奈良女子高等師範学校の卒業生で、滋賀出身の日本画家、小倉遊亀は、1917(大正6)年に卒業しているので、直接の交流はないが、当時の在学生や教員にも、志賀直哉らの集まりは耳に入っていただろう。

このように明治から始まる近代化の過程で、建築、美術、文学、写真、思想に至るまで、奈良の果たした役割は小さくない。海外の文化が流入するとき、大きく揺れながらも柔軟性を持って吸収し、独自に発展する。それを最初から行ってきたのが奈良であり、近代化においても、ふたを開けてみれば、モダン都市の佇まいを一番称えているのは奈良ではないか。グローバリズムに揺れる現在だからこそ、建築を基軸としてそのプロセスを見直すべきではないだろうか。

【追加情報】
記念館は下記日時で一般公開が行われます。
2023年10月30日(月)~11月5日(日)
各日9時~16時30分(入館16時まで)
http://koto.nara-wu.ac.jp/kinenkan/koukai.htm

[1] アートコミュニケーション人材育成プログラム「あ³」

令和5年度文化庁「大学における文化芸術推進事業」https://art.nwu-eng.jp/

[2] 「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪2023」https://ikenchiku.jp/ikefes2023/

[3] 「京都モダン建築祭」https://kenchikusai.jp/

[4] 「神戸モダン建築祭」https://kobe-kenchikusai.jp/

 

参考文献酒井一光『発掘 the OSAKA』青幻舎、2020年。
高岡伸一・三木学編著、橋爪伸也監修『大大阪モダン建築』青幻舎、2007年。
奈良女子大学文学部なら学プロジェクト編『大学的奈良ガイド-こだわりの歩き方』昭和堂、2009年、pp.7-19、76-77、268-269。
『奈良のトリセツ』昭文社、2020年、pp.92-95、98-99、112-113。
藤森昭信『日本の近代美術(上)ー幕末・明治編』岩波新書、1993年、pp.249-256。
藤森昭信『日本の近代美術(下)ー大正・昭和編』岩波新書、1993年、pp.15-18。
奈良国立博物館公式サイト『仏教美術資料研究センター』https://www.narahaku.go.jp/guide/center/
文化遺産オンライン『旧奈良県物産陳列所』
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190403
文化遺産オンライン『日本聖公会奈良基督教会 会堂』
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/292989
奈良女子大学公式サイト『記念館』
http://www.nara-wu.ac.jp/nwu/faculty/kinenkan/
奈良県観光公式サイト『奈良女子大学記念館』
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/04public/02museum/01north_area/narajokinenkan/
一般社団法人佐保会公式イト『佐保会館』
http://www.nara-wu.ac.jp/dousoukai/sahokai/SAHOhall.html
『大和モダン建築』https://nara-atlas.com/
関連Wikipediaほか

初出『美術評論+』2023年10月7日公開。

三木 学
評者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹─色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。
美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員、大阪府万博記念公園運営審議委員。

Manabu Miki is a writer, editor, researcher, and software planner. Through his unique research into image and colour, he has worked in writing and editing within and across genres such as contemporary art, architecture, photography and music, while creating exhibitions and developing software.
His co-edited books include ”Dai-Osaka Modern Architecture ”(2007, Seigensha), ”Colorscape de France”(2014, Seigensha), ”Modern Architecture in Osaka 1945-1973” (2019, Seigensha) and ”Reimaging Curation” (2020, Showado). His recent exhibitions and curatorial projects include “A Rainbow of Artists: The Aichi Triennale Colorscape”, Aichi Triennale 2016 (Aichi Prefectural Museum of Art, 2016) and “New Phantasmagoria” (Kyoto Art Center, 2017). His software projects include ”Feelimage Analyzer ”(VIVA Computer Inc., Microsoft Innovation Award 2008, IPA Software Product of the Year 2009), ”PhotoMusic ”(Cloud10 Corporation), and ”mupic” (DIVA Co., Ltd.).
http://geishikiken.info/

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