1920年代に刻まれた可能性の風景
開館1周年記念特別展「佐伯祐三 自画像としての風景」
会期:2023年4月15日(土)~6月25日(日)
会場:大阪中之島美術館
大阪中之島美術館のコレクションの基礎となったともいえる、佐伯祐三の大規模な展覧会が開催されている。大阪では15年ぶりの回顧展とのことだが、ここまで代表作が集められて大々的な展覧会が開催されたのは初めてかもしれない。1920年代のパリと日本を往復して、独自の画風を築いた佐伯だが、わずか30歳で夭折したこともあって、日本においても、西洋においても確固たる地位を築いたとは言い難かった。半ば埋もれていたといってもよい佐伯の才能を発掘し、再評価の機運をつくったのは、ひとえに戦前から佐伯のコレクションを行っていた山本撥次郎の情熱が大きいだろう。山本はもともと禅僧の書画を収集していたが、佐伯の作品に出会い、美術館建設まで夢見るようになる。
大阪中之島美術館は、1983年、山本發次郎コレクションの寄贈を受け、大阪市制百周年記念事業として近代美術館が構想されたことに端を発しているので、大阪中之島美術館での佐伯祐三展は、山本の夢のひとつの実現といってもいいかもしれない。佐伯が病臥する直前に描いた《郵便配達夫》(1928)は、大阪中之島美術館のアイコンにもたびたび使用されているので、人物画家としてのイメージもあるが、今回の展覧会で見えてきたのは、そのモチーフや画風の豊かさだろう。本展では、佐伯が、大阪、東京、パリの3つの街で描いた風景に着目し、表現の変遷を辿っている。そして佐伯の作品が「自画像」と例えられることから、「自画像としての風景」としている。たしかにそれらは、佐伯の濃密な筆致を残すと同時に、内面を映し出したものだろう。
佐伯は、大阪の中津にある浄土真宗の寺、光徳寺の次男として生まれ、旧制北野中学を卒業して、1918年東京美術学校の西洋画科に入学し、藤島武二に学んでいる。藤島には、その前年から川端玉章が開設した川端画学校でも師事していた。かつて私も中津にあったアートスクールに通っていて周辺は撮影のためによく歩いていたので生家の場所を調べて見ると、大阪でチャイ文化を広めた、老舗カフェ、カンテグランテ中津本店のすぐそばで見覚えがあった。もっとも空襲で焼失する前は1万坪もあったというから、佐伯が育った時代は、周囲一帯が光徳寺のものだったのかもしれない。
1923年に東京美術学校を卒業し、渡仏の準備をしている時に関東大震災で用意していた荷物が全部焼けてしまうという被害に遭う。再度荷造りをしていて、1924年には渡仏。2年間のパリ滞在を経て1926年に帰国。約1年半、日本で画業を続け、27年秋には再度渡仏。1928年8月にパリで客死している。そのわずか4年余りの画業の中で、これほど進化し、バラエティに富んでいる画家も少ないだろう。そして、今回、展覧会を見て驚いたのはその数の多さである。140点超も集められていて、圧倒される。かなり早描きだったのだろう。しかも、山本發次郎のコレクションは、空襲時に一部焼失しているので、本当はもっとあったのかもしれない。
展覧会は、「プロローグ―自画像」「第1章―大阪と東京」「第2章―パリ」「第3章―ヴィリエ=シェル=モラン」「エピローグ」の5章構成になっている。特に目を引いたのは、帰国後の日本を描いた風景だ。パリとあまりに違う日本の風景を描く中で、逆に自分の画風を獲得していく様子が見られる。特に集中して描かれているのは、東京の「下落合風景」と大阪の「滞船」のシリーズであるが、新宿の谷間にある下落合と、大阪の湾岸という対照的な場所において、電柱、帆柱という共通点を見出し、画面を分割する縦の線によって、リズムをつくっている。
1回目の渡仏時には、フォーヴィスムの画家、モーリス・ド・ヴラマンクに、自身の絵を「このアカデミック!」と罵られたため、荒々しい画風を模索していく。郊外の風景から、パリの中心部に移り、ユトリロなどの影響も受け、次第に色彩から質感を重視した独特なマチエール(絵肌)を確立し、パリの街路の壁を描いていく。フランスの画家に比べて、色彩が得意ではない日本人画家にとって、マチエール、質感に活路を見出すのは、藤田嗣治にも見られることだ。藤田がフランス在住5年以上経て気付いたことを、佐伯は数年で獲得したといえる。しかし、サロン・ドートンヌにも入選し、認められ始めた頃、健康状態の悪化によって帰国を余儀なくされる。
そして、帰国中に描いたのが、「下落合風景」と「滞船」のシリーズというわけだが、当初は、パリの建築の重厚な壁のようなものが存在せず、木造のペラペラな薄い壁しかない日本の郊外の風景に戸惑ったことだろう。しかし、その中から面のマチエールに頼らない、線の描写を確立していく。日本の風景は、未だに鉄塔や電線による線に覆われているといえるが、1920年代には郊外まで急速に都市化、電化していく日本の風景の特性にいち早く気付いたといってよい。
そして、再度渡仏した際は、すでに1回目でモチーフにしていたパリの広告を、独特の線の筆致で描いていくようになる。そもそも日本人は、奥行きのある3次元的な表現は得意ではない。佐伯は、パリの画家がノイズとして見過ごすような、広告の文字を線の集積を捉え、それを日本の風景から得た方法を転用するように描いていく。健康悪化のために帰国したとはいえ、それが佐伯ならではの画風を確立するのに役立ったといえよう。展覧会では、1回目のパリ滞在時に描いた広告に貼られた門と、2回目のパリ滞在時のほぼ同じモチーフの絵が並べられているが、面から線に関心が移っていることがよくわかる。
しかしそれだけではない。第3章で紹介されている、ヴィリエ=シェル=モランというパリから電車で1時間ほどの小さな村で滞在制作したシリーズでは、パリ中心部の飛び跳ねるような細い線から、輪郭を強く強調するような骨太な線へと変化している。すでに佐伯は新しい画風へと変化する途上にあった。しかし、その滞在で体力を奪われ、ほぼ外に出ることができなくなった佐伯は、訪ねてきた郵便配達夫にインスピレーションを受けて、肖像画を描く。それが絶筆に近い《郵便配達夫》だ。そこでも新たな肖像画の可能性を示している。それが1928年の3月のことで、月末には喀血し、その病に伏して8月に客死する。
あまりに短い画業の中で、生き急ぐようにさまざまな作風を残した佐伯だが、その後生きていたらどうなっていただろうか?20年代のパリは、300人近い日本人が留学していて、その中にはスターとなった藤田もいた。第一次世界大戦後、経済が回復する中で、多くの外国人がフランスに滞在し、それぞれの作風を築いた。ヴラマンクがアカデミーを否定したように、美術学校で学ぶことがよいともされていなかった。多国籍の交流の中で、お互いに影響を受けながら自身のが画風を確立していったことから、エコール・ド・パリと言われるのもそれが所以だ。パリ派という意味合いもあるし、パリ学校というようなニュアンスもあるだろう。
しかし、藤田を含めたエコール・ド・パリの作家たちは、1929年を境に離散していくことになる。それはニューヨークの株価暴落を起点とする、世界恐慌がパリにも押し寄せたからだ。佐伯は、評価が高まる前に亡くなってしまったが、藤田のような社交性と体力を持ち合わせていたら、西洋美術史の中に名を刻んでいたかもしれない。
具体(美術協会)のリーダーであった吉原治良は、藤田の薫陶を受けているが、もし佐伯が活動を続けていたら、7歳程度の違いしかなかった同郷の佐伯からも大きな影響を受けていたのではないか。吉原の筆致は、藤田よりも佐伯に近い。禅僧の書画を集めていた、山本發次郎が惹かれたのもうなずける。広告の文字を描く筆致やヴィリエ=シェル=モランの大胆な輪郭も、ある種の書画といってもよい。藤田が浮世絵や日本画の技法を、西洋絵画に組み込んだとしたら、佐伯は禅僧の書画のような大胆な筆致と抽象性を取り入れたといってもいい。禅宗ではないとはいえ、彼の生家が寺院であったことも無関係ではないかもしれない。空襲で焼失しているので彼が幼少期に見ていたものが何かわからないが、もし残っていたら何か関連がわかったかもしれないと思うと残念ではある。
佐伯の作品は1920年代に日本人画家が、西洋絵画の中でアイデンティティを獲得していった軌跡であると同時に、その風景には多様な可能性が開かれており、その向こうには大きな道が続いているように思える。それは、100年を経た現在でも大きな道標になるのではないか。