都市とアートのタクティカルな共存
「オオサカアートフェスティバル」
会期:2023年2月17日(金)~3月12日(日)
会場:大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)、大阪市中央公会堂前広場、御堂筋東側歩道(南海難波駅北、なんばマルイ横)
主催:大阪府
2023年2月17日(金)から3月12日(日)まで、オオサカアートフェスティバルが開催された。このフェスティバルは、今年初めて開催されたものだが、2025年大阪・関西万博に向けたイベントとして位置付けられている。主となるのは、3月10日(金)から12日(日)まで、大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)で開催された若手アーティストによる展覧会&販売可能なフェア、3月7日(火)から12日(日)まで大阪市中央公会堂前広場で開催されたアーティスト、西野達の屋外展示、3月10日(金)から12日(日)まで御堂筋東側歩道(南海難波駅北、なんばマルイ横)で開催された6人の若手アーティストの屋外展示であるが、その他に、府内の「大阪府20世紀美術コレクション」展示施設や美術館、アートギャラリーなど、約40か所と連携し、デジタル・スタンプラリーが行われた。
おおむね40歳までの若手アーティストによる展覧会とフェアは、ギャラリーによる推薦による10組のほか、公募による10組が木ノ下智恵子(大阪大学21世紀懐徳堂 准教授)、小山登美夫(小山登美夫ギャラリー)、矢作学(森美術館アシスタント・キュレーター)、加藤義夫(一般社団法人日本現代美術振興会 理事)によって選ばれた。公募は短い間の情報開示にもかかわらず、150名以上の応募があったというから、大阪でも公募形式のコンペが求められていたといえるだろう。筆者が訪れたのは、10日(金曜日)であったが、主に公募で選抜された作家が展示・販売された4階では、作家やアートコーディネーターが在廊していたこともあって、多くの人々で賑わっていた。必ずしも販売に向いている作品ばかりではないが、第一線の識者から選ばれているだけあって個性ある作品が多く見られた。また、関西を中心に、アーティストの紹介・育成に携わってきたギャラリーによる推薦アーティストが主に展示・販売された1階は、すでにギャラリーの評価もあるだけあって、クオリティの高い作品が揃っていたように思う。今後も、開かれた回路から市場につなげ活性化させる意味でも、公募と推薦の両輪があるのはよい取り組みであると思えた。
また、西野達による車2台を積み上げ、その上に大きな樹木を打ち立てたダイナミックなインスタレーション《永遠に続くわけがない》(2023)も話題を呼んでいた。西野は公共空間の彫刻を囲んでホテルにするなど、都市におけるパブリックとプライヴェートを反転させることで知られており、2012年には「おおさかカンヴァス」の一環として、中之島公園のトイレを一部取り込んでホテルにする「中之島ホテル」のプロジェクトを実施したことがある。中之島でプロジェクトを行うのはそれ以来だろう。ただし、西野は2011年には、「おおさかカンヴァス」において、大阪城公園で大阪の歴史をつくってきたモノや人物を、大型クレーンで積み上げていく《おおさかDNA》、2013年にも中之島GATEで車に鏡を貼り付けて、大型クレーンで吊り上げて回転させる、《ミラーボールカー》を発表しており、大阪には馴染み深い。
手法としてはそれらを継承しているかもしれないが、自動車を縦に立てて、それを鉢植えのようにし、樹木を植える今回のプランは、2037年の開通100周年に向けて、御堂筋を公園化し、歩行者天国にするという「御堂筋将来ビジョン」(後述する)に感銘を受けたことによるという。そこには「CO2排出の大きな原因である乗用車を過去のものとし、CO2を吸収しながら成長する樹木を希望の象徴とて車に植樹する」(アーティストコメント)というメッセージが込められている。
空襲による延焼が酷かったため、大阪の緑化や公園の設置は、戦後の都市計画のなかでも重要な位置づけにあったが、もともと海を埋め立てた土地で緑が少なく、アジア最大の軍需工場、大阪砲兵工廠跡地にできた大阪城公園など緑地化は限定的であった。しかし、劇的に進む温暖化において、御堂筋に植えられているイチョウも含めてヒートアイランドに緑化された都市公園が重要な役割を果たすことがわかっている。また、南海トラフ地震の発生に備えた避難所としても役割も担っている。その意味で、都市中心部に位置する中之島公園や天王寺公園の芝生広場などの整備は、近年の一つの成果であろう。また、うめきた2期で計画されている、GGNやSANNA(妹島和世・西沢立衛)設計によるうめきた公園(仮称)も、都市中心部の積極的な緑地化に鍵を切った象徴的な存在になるだろう。
さて、前述した「おおさかカンヴァス」は、大阪の公共空間を「カンヴァス」と見立てて、行政と連携しながら、都市のさまざまな制約、規制をクリアして作品を展示するユニークな「事業」であった。2009年に開催された、「水都大阪2009」をきっかけとして、同じく2009年に実施された「木津川ウォールペインティング」を母体に、翌2010年から2016年まで8年間開催された。
その他の地域の芸術祭やアートプロジェクトとは違い、都市利用の可能性の幅をアートによって広げることを目的としており、ある種、いかに規制に挑戦するかが醍醐味の事業でもあった。キャリアよりもプランやアイディアが重視されたため、いわゆる現代美術のアーティストの参加だけではなく、企業や大学、グループなどバラエティに富んだ参加者も特徴であった。とはいえ、1回目には、Yotta 、加藤翼、淀川テクニック、高橋匡太など、現在も一線で活躍しているアーティストが参加している。その他の開催年を見ても、矢津吉隆&大喜多智裕、山川冬樹&伊藤キム、やなぎみわ、コタケマンなど錚々たるアーティストが参加していることも記しておきたい。
アーティストにしても、自身の作風もさることながら、プランに対して一定の予算が与えられ、法規的、物理的な制約を行政が一緒に解決してくれるこの事業は、今までにない可能性を広げてくれる場であったことだろう。それは今日で言えば、都市計画家マイク・ライドンとアンソニー・ガルシアによって提唱された「タクティカル・アーバニズム」に近い実践になるかもしれない。彼らは、長期的な都市計画ではなく、短期的かつ低コストのアクションによって、長期的な変化をもたらす都市利用の実践の例を見て、「タクティカル・アーバニズム」と命名した。
公共の概念や市民参加の形が異なり、アメリカにおける車中心の「ニューアーバニズム」のアンチテーゼとしても位置付けられる、「タクティカル・アーバニズム」が日本の都市活用にそのまま適用できるわけではないが、日本においても、人口減少や予算減が急速に進み、都市全体のマスタープランの実施が難しくなる中、小さな実践が各地で行われ、有効性を発揮している例もある。特に、大阪においては、中之島周辺と御堂筋はその主たる実践の場であった。
その効果もあってか、御堂筋は車中心から人中心への転換を掲げられるようになった。御堂筋は、もともと北御堂・南御堂の前を通る、延長1.3㎞、幅員6m程度しかない細い筋(南北の道)であったが、都市計画家で大阪市長であった関一によって、延長4㎞、幅員24間(約43.6)mの「廣路」が計画され、1926年に着工、約10年かけて1937年に完成した。また、1930年から同時に地下鉄建設も行われた。人口集中による交通量の増加と梅田駅と難波駅ができたことによって、迂回する堺筋よりも直線的で広い道路や高速鉄道(後の地下鉄)をつくる必要性ができたためだが、当時は「市長は船場の真ん中に飛行場でもつくる気か」と揶揄されたという。戦後のマイカーブームの到来によって関の計画が、数十年先を見越していたことが証明された。
しかし、全面開通から80年が過ぎ、車社会からの転換、魅力的な都市づくりの観点から、行政、経済界、まちづくり団体による、御堂筋80周年記念事業委員会が立ち上げられ、2019年には、「御堂筋将来ビジョン」として、100周年を迎える2037年には完全に歩行者天国化することが目標として掲げられることになったのだ。その後、御堂筋の側道は、一時的に閉鎖され、カフェやファニチャー、アート作品が展示されるなど、まちづくり団体によって、さまざまな実証実験が行われてきた。そのような実績もあり御堂筋は、賑わいのある道路空間創出のための道路を柔軟に利用できる、歩行者利便増進道路(通称:ほこみち)制度の1号に、三宮中央通り(神戸市)、大手前通り(姫路市)と共に、全国で初めて指定された。
なかでも、交通量の多かった、南海なんば駅の周辺は、大阪・関西万博に向けて先行して歩行者優先のエリアに整備されている。そのため駅北側の「駅前広場」は歩行者天国になる予定で、工事のため2022年10月には車両全面通行止めとなった。1957年、難波駅前の地下街、ナンバ地下センター(現・NAMBAなんなん)が、自動車の増加による地上の交通渋滞の緩和と歩道の確保のためオープンしたことを思えば隔世の感がある。また、御堂筋側道の閉鎖地域も、道頓堀端北詰から新橋交差点の約700メートルに拡張された。
今回、御堂筋東側歩道(南海難波駅北、なんばマルイ横)で開催された、葭村太一、DAISAK、小笠原周、濱野怜子、大東真也、木村舜らの屋外展示は、そのような経緯によって可能になったものだ。「ほこみち」に指定されていることにより、作品によって歩道を一時的に占拠することも道路管理団体から協力を得ている。
また、展示に関しては、大阪府だけではなく、経済産業省の「アーティスト等と連携した地域ブランドの確立に係る実証事業」に採用されており、予算が補われている。これは「未だ十分に活用されていない公共空間や遊休空間等を活用し、積極的にアーティスト等に制作や表現等機会や必要なリソースを提供」することとで、地域ブランドを確立する狙いがあり、公共空間でのアーティストの表現が、地方自治体だけではなく、国からも支援されるようになってきている。
葭村の巨大な鯉の頭部の木彫は、「六甲ミーツ・アート芸術散歩」において制作された作品であり、会場にある池に泳ぐ鯉に餌を与える様子を見て着想したものだという。めでたいはずの鯉を見下ろして、餌を与える状況に違和感を覚え、人間が錦鯉の中に入って上を見上げるという、「鯉の気持ち」になってみる作品だが、周囲の巨大なビルに囲まれて、より見下ろされる気分になるだろう。今回、2019年に「伝説の錦鯉」を空想して制作した作品が、放流されたことによって実在化されたことを明かしている。近年の葭村は、その土地に残る人や生物の痕跡を形にする作品を制作しているが、大阪が昔、大半は海であり、汽水域や湿地帯が多かったことを考えると、鯉も生息した可能性はあるだろう。あるいは、「伝説の錦鯉」にように緑化した御堂筋に池ができて錦鯉が放たれる未来もあるかもしれない。
いっぽう、大阪に住んでいた過去があるという、小笠原周は、ゲームやアニメのようなカリカチュアされた人体像を、西洋彫刻の伝統的素材である大理石によって制作することで、3Dデータのテクスチャのような軽さに錯覚する作品を制作している。今回は、マッチョな人体像と顔のレリーフを展示した。小笠原の人体彫刻は奇しくも、オーギュスト・ロダンやジョルジオ・デ・キリコをはじめとして、御堂筋沿いに大量に設置されている著名な彫刻家によるブロンズ彫刻の存在を浮上させている。
これらの巨大な作品は制作環境の維持が大変であるが、葭村は千島土地株式会社が所有し、おおさか創造千島財団が運営する、木津川河口域にある北加賀屋の共同スタジオ、Super Studio Kitakagaya(SSK)の1階のラージスタジオエリアで制作している。また、小笠原は京都と滋賀の県境にある広大な敷地の共同スタジオ、山中suplexにおいて制作しており、作品も保管している。このような巨大な作品を制作し、保管できる環境が整ってきたことは特筆すべきだろう。
今回の実施に参画した株式会社E-DESIGNは、会場の1つとなった大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)の一番最初の指定管理者の1社であり、代表取締役であるランドスケープアーキテクトの忽那裕樹は、2025年の大阪・関西万博のランドスケープデザインディレクターに就任している。また、まちづくりプロデューサーとして、「水都大阪のまちづくり」で、日本都市計画学会石川賞受賞するなど、さまざまなまちづくりや、タクティカル・アーバニズムを実践してきた。あるいは、寺浦薫やTSP太陽株式会社をはじめ、「おおさかカンヴァス」を推進してきたメンバーが、「オール大阪アートパートナーズ共同企業体」として企画・運営に携わっており、直接的にそれらのノウハウを継承しているといってよい。
そもそも1970年の大阪万博の際も、関連事業費によって、戦災復興都市計画で実施できなかった箇所を推し進めた経緯がある。例えば、船場センタービル・阪神高速・中央大通や、新御堂筋の延伸はその代表的な例だろう。戦前においても、1903年、天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会においても、道路や区画整理などの都市改造が行われており、その後も無数の博覧会が開催されている。つまり、博覧会・万博によって都市整備されたのが、大阪の街といってよい。
課題があるとすれば、都市計画やまちづくりと、アートの領域が近接する中で、アートがジェントリフィケーションの手段として使われる可能性があることだろう。ここ数年、美しく整えられた中之島や船場などの中心部においても、タワーマンションが続々と建てられ、急速な住民増加に生活インフラが間に合わない事態も起きている。アートを購入したり、消費したりする層は、まさにその住民である新興富裕層であることも確かであるが、地域文化を支えていた担い手が移住するようになるとしたら本末転倒であろう。
そのためには、車に支配されていた都市中心部を人中心に変えていく、住民や観光客にやさしい街をつくる上で、排除や浄化に偏るのではなく、いかに多様な人々を包含できるようにするかが重要になるだろう。忽那は、夢洲だけではなく、街中で万博を展開することを目指していると述べているが、どれだけ住民参加、アーティスト参加の形で、万博が開催できるかも、これからの大阪の街づくりの試金石になるに違いない。今回「文化共創都市」が謳われているが、まさに、共創性が問われているといってよいだろう。
また、アートを手段とするのではなく、街づくりにおいて、公共建設事業の予算のうち1パーセントをアートにあてる「パーセント・フォー・アートプログラム」のようなアートを支えることによって、結果的に街を活性化させることも必要になってくるだろう。今回のフェスティバルが、そのような未来を導く、タクティカルな試みになるよう願っている。
※本記事は、オオサカアートフェスティバル事務局からの依頼を受けて作成された。