閉じられたアートの開かれ方
近年多くの人が現代アートに関心を持つ中、さまざまな混乱があるように思う。誤解を生みそうな書き方であるし、異論は多いと思うが、初学者のために、あえてわかりやすく書いておきたい。アートとは何か?現代アートとは何か?という議論はよく行われる。それは取りも直さず、現代アートをよく知らない人が見てもさっぱり何が言いたいかわからないからだ。そして、さも理解してそうな人を傍目で見て、自分もうんうんとうなずくという、「裸の王様」のような状態になるわけである。
逆に、アートは感じるものだから、どんなふうに感じてもいいんだよ、という主張もある。もちろんそれは見る人の自由だが、好き勝手に感じても楽しめるとは限らない。それなりの歴史や文脈がわからないと、作者の意図はわからないし、楽しむにも限界がある。
現代アートとは何か?という定義を、端的にするならば、「高所得者もしくは高知識層のための芸術」といってよいだろう。購入可能な現代アートは1点ものであることがほとんどである。版画や写真といった複製物ですら、エディションをつけて数を限定する。そのため高額にならざるを得ないから、高所得者しか買えない。さらに、物体ではなく、インスタレーションのような仮設的な作品やサイトスペシフィックと言われる特定の場所のみ成立するもの、パフォーマンスのような作品も多いが、その場合は、1回性や1か所性とでもいうような1点ものよりもさらに限定されることになり、それらの作品は購入できない場合が多いので、芸術祭や展覧会の資金か助成金などで成立していることもある。もしそれを購入可能な形で提供するとしたら、相当な額に換算されるだろう。いずれにせよ鑑賞者の層をさらに絞ることになる。言い換えれば、「高額で鑑賞する場所や機会、数が限定されていて、見てもすぐにはわからない芸術」ということになるだろう。
高知識層というのは、現代アートを理解するための知識を有しているかどうかということである。現代アートは、現在の社会や政治の問題を扱うことが多く、さらに、それ以前のアート作品やアーティスト、批評の歴史を踏まえていることが多いので、それらを知らないと理解するのは難しい。特に、創作や批評の根幹となる理論は、多くの場合、西洋思想がベースになっているため、それらの知識が不可欠である。もちろん、現代アートでは、脱植民地主義と言ったことが叫ばれているし、近年はマイノリティの表現が多いが、それらも前提として、西洋白人男性中心の表現であったとことの反動、反省が原点にある。
そういう意味は、現代アートは極めて限定的な表現ということになる。それを知った上で、誰もが現代アートを親しめると言うならば、それは誠実ではないかもしれない。楽しめない人の方がはるかに多いのが事実であるからだ。楽しむためには、そのための知識かお金、あるいはその両方がいるのは間違ない。それでもなお楽しめるというならば、それはアートや現代アートの定義が違うということになるので、どのようなものをアートと指すのか確認した方がいいだろう。
その意味で、開かれたアートとか、民主的なアートというのはかなり矛盾した言葉で、逆に言えば、今は閉じられて、非民主的なアートということを証明していようなものである。たしかに、そのような閉じられた非民主的なアートとは違うものを目指していこうということは理解できなくないが、それを突き詰めれば、低所得者あるいは低知識層でも楽しめるものとなり、表現の根幹が揺らぐことになりはしないかと思える。
それなら、漫画やアニメ、ゲーム、映画、近年ではYouTubeなどの大衆芸術、ポピュラーカルチャーは十分、開かれた民主的なアートと言えないだろうか?言い換えれば「低額で、数が限定されておらず、見てわかる芸術」ということになる。漫画やアニメ、ゲーム、映画、YouTubeはアートではない、というならそもそも何がアートかという問いが生まれ、堂々巡りになる気がする。結局、立ち返れば、少なくとも現代アートは、「高所得者もしくは高知識層のための芸術」、「高額で鑑賞する場所や機会、数が限定されていて、見てもすぐにはわからない芸術」という定義がやはり矛盾がないように思える。
知識がなければ、男性用小便器が台座に飾られているのを見て、誰もアートとは思わないだろう。もちろん、それはマルセル・デュシャンの《泉》(1917)という作品のことだが、デュシャンは現代アートの父と言われるので、ほとんどその影響下にあるといっていいだろう。
そのような知識がなければ楽しめない。お金がなければ楽しめないジャンルを、最近は多くの人が関心を持つようになったのはそれなりの理由がある。一つは、グローバリズムの浸透によって、急激な所得格差が生まれ、高所得者が増えたこと。また、日本のような中間層が多い社会でも貧困層が増え、少子高齢化によって、大衆商品があまり利益が出なくなったことが挙げられる。だから、大衆商品やエンターテインメントよりも、高所得者層に高い作品を売る方がはるかに効率的になったのである。世界のセレブが現代アートを好むと言われるが、彼らはまさに、高所得者かつ高知識層そのものであるからだ。
そのような現代アートが開かれるとはどういうことか。例えば、住民との協働制作のような形で、制作や鑑賞に他者を巻き込むこと。見ることや何かすること、作品を渡すことに金をとらないこと、あるいは低額にすること。背景の知識がなくても、楽しめるようにすること。などになるだろう。一流の作家は、レイヤーを重ねるというが、そこには知識や感性としてのレイヤーと、受容する層のレイヤーがある。そのレイヤーを多層的にするということだ。つまり閉じられているけど、開かれている。凱旋門を梱包したクリストとジャンヌ=クロード夫妻などは、まさにその例かもしれない。それを見た多くの人が楽しめるが、その意味を深く理解できないかもしれないし、彼らの資金調達のために協力したり、作品を購入したりしていない人がたくさんいるという状況だ。
「高所得者もしくは高知識層のための芸術」でありながら、大衆芸術ではない形でいかに開かれるかが重要であることは間違いないが、かといって、鑑賞者にお金や知識が完全に不要になるわけではない。制限されていることを前提に、楽しむための知識をいかに提供できるかが、私を含めて評論家と言われる人たちの役割の1つでもある。「低額で、数が限定されておらず、見てわかる芸術」であるならばそこに評論も解説もそれほど必要はなく、売上や販売数以上に価値を変えることはほとんどない。現代アートは、わかりにくく数が限定されるので、批評や評論が作品の価値を大きく左右する。展覧会を組織するキュレーターもある種の批評的行為を行っている。現代アートには批評や評論が欠かせないというのはそういうわけである。