2022年1月9日に開催されたシンポジウム「グリーフケアと芸術」で私が発表したプレゼン資料をベースに幾つかの書籍や展覧会/作品についてご紹介する。
登壇者全員の発表及びコメンテーターのコメントや質疑応答についてはYoutubeに記録が上がっており、またすでにこのetokiで開催報告があがっているので、そちらもご覧いただきたい。
現代京都藝苑2021シンポジウム④「グリーフケアと芸術」
https://www.youtube.com/watch?v=SwRw4CilZFQ
私の演題は「写真教育の場における実例と、自作においてのグリーフケアについて」であったが、最終的な内容に則して、終了後に「集合的グリーフ/芸術/歴史/写真、及び写真教育における実例と、自作でのグリーフケア」に改めた。こちらのタイトルで進める。
私の発表は昨年刊行(といっても電子書籍及びオンデマンドなので私自身製本された本は持っていない)した『写真2 現代写真: 行為・イメージ・態度 (はじめて学ぶ芸術の教科書)』(京都芸術大学 東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎、2021年)所収の拙文
「レジリエンスは可能か――喪失・悲嘆・病・尊厳」を元にしつつ、事例以外は増補あるいは別の見地からの内容を加えている。
自分はグリーフケアやグリーフについての専門家ではないので、的外れかもしれないし、またすでにこのような用法があるのかもしれないがグリーフ「悲嘆」 は「集合的(地域、国家、民族、宗教、など様々な共同体)グリーフ」と「個人的グリーフ」に大別されるように思う。
「個人的グリーフ」 の中には
A:「集合的・集団的 /共同的グリーフ」に含まれるあるいはそれを構成する個人のグリーフ
B:「集合的・集団的 /共同的グリーフ」とは直接関係のない個人のグリーフ
C:元々は個人のグリーフ(B)であったが、後に社会に共有され「集合的・集団的 /共同的グリーフ」に発展したグリーフ
の三種があるように思われる。
前者の「集合的・集団的 /共同的グリーフ」は例えば広島長崎の原爆被害のグリーフ、公害被害のグリーフ、ホロコーストのグリーフなど様々な社会的事件や複数の人々に被害と悲しみをもたらしたもので、その中でも比較的直近に発生し、かつそのグリーフが今も継続しているものの代表として東日本大震災のグリーフがあるだろう(登壇者が関西の方が多かったためか、実際の発表の中では阪神淡路大震災への言及が複数なされていた)。それについては他の発表者の方が実践的に関わっておられるため、後ほど写真に絞って一つ事例を紹介するがその前に「集合的・集団的 /共同的グリーフ」における「芸術」の例を箇条書きで挙げておく。寡聞にして、もっと良い例があるかと思われるが後述する「個人的グリーフ」での例とともに、お赦し願うとともに識者からのご教授をお待ちする。また漫画やアニメやテレビ番組などについては数限りないため割愛した。
・慰霊碑・モニュメント・公共彫刻(大規模、視認性高)
例: 長崎:「長崎平和祈念像」北村西望 沖縄:ひめゆりの塔
・記念プレート(小単位、視認性低)
例: ドイツ:「つまずきの石(ストルーパーシュタイン Stolperstein)」グンター・デムニヒ
・建築 a:遺構 例:原爆ドーム b:記念館
・絵画
例:「原爆の図」丸木位里 丸木俊、「ゲルニカ」ピカソ
・小説:「苦界浄土」石牟礼道子、「沈黙」遠藤周作
・詩歌:「死のフーガ」パウル・ツェラン、
・映画:「夜と霧」アラン・レネ、
・音楽:「悲歌のシンフォニー」グレツキ
・写真:東松照明、土田ヒロミ、石内都、ユージン・スミスなど
これらはどれも歴史的事件と関わり、グリーフを発するあるいは悲嘆を共有し次代に伝えるとともに、作品によってまた新たに歴史化する。ただ、作家個人のグリーフや歴史認識に基づくものが多いため、個人的グリーフとも関わる。
「集合的・集団的 /共同的グリーフ」のうち、私が個人的に印象深かったのは、宮城県石巻市の大川小学校の外の道路脇にある石碑だった。
ここは北上川の河口近くで、写真の観音様の背中の方がすぐ北上川、観音様の向いている方に今は震災津波遺構となった大川小学校がある。
「レジリエンスは可能か――喪失・悲嘆・病・尊厳」から抜粋すると
「そこにはいくつもの古い石碑や観音像と並んで二つの新しい碑がありました。その一つには「釜谷の街並み」と刻まれた下に風景の写真が刻まれた石が嵌められていました。もう一つの石碑には「東日本大震災大津波横死者 大川地区四百十八精霊位供養之碑」と刻まれています。」
明治以降の戦争慰霊碑を含め、2011年の震災以前からの様々な碑が立っている場所で、基本的には文字による石碑が並んでいる中、最も新しい石碑には写真が刻まれている。技術的に写真イメージを石に刻んで公共の場に残すことが可能になっていると同時に、この地域の人たちが在りし日の姿を写真の石碑にして公共の空間に設置して、いつでもまた恒久的に見ることができるようにしたという、意思決定と合意があることを示している。もし何も起こらなければ、このように石碑に刻まれることはなかったであろう写真イメージがそこにある。この場合、著名な写真家が撮ったものよりも、地域の誰かが撮ったもの、あるいは学校のアルバムなどで使われていたイメージの方が共有する心情にふさわしい気がする。津波で流されたものの中から救い出された写真かもしれない。その真偽は知れないが、ともかく、それが写真であることに、新しい写真の使用法を認識したとともに、驚きと衝撃を覚えた。
再び抜粋する
「なくなったものの姿が公共の空間において現れ続けるのは、いわば公的に亡霊を召喚し続けるようなものかもしれません。それは石材に克明精細に写真画像を刻印するという、以前の時代にはなかった技術によりもたらされています。大川小学校の校舎自体に関しては、遺族の中には震災遺構として保存される廃墟化した校舎を目にしたくないという意見もあるため、周囲に樹を植えて公園化することにより校舎を外から見えないようにする予定なのだそうです。そのような視覚的消去の技法をとる一方で、その直近の道端には東日本大震災以前の地域の平穏な姿の写真が石碑によって恐らくは永遠に近い時間の元に残されます。ハンナ・アーレントは公的領域においては「現れがリアリティを形成する」としています。消し難い喪失と痛み、それを経験する前の記憶、その両者をいかに残し、後世に伝えて行くのか。そのことの複雑さと困難さを抱えつつ「以後」を生きていく残されたものたちの選択にもまた苦悩と希望の両方が刻まれているように思い」ました。
このように集合的グリーフは記念碑、モニュメントと結びつく。その形式は時代や建立者たちの意図や意志によって様々である。
これに関連して紹介したいものとして現在青森県立美術館で開かれている「東日本大震災10年 あかし testaments」展がある。東日本大震災の後のアートを紹介するものである。展覧会のweb site
http://www.aomori-museum.jp/ja/exhibition/20211009/
には
「甚大な被害を及ぼした東日本大震災から今年で10年。青森県立美術館では、4人のアーティストによるグループ展「東日本大震災10年 あかし testaments」を開催いたします。
時間と共にうすれゆく震災の記憶を、いかに次世代へとつなぎ、教訓を伝えていくか、時代の趨勢から取りこぼされてゆくものに目を向けてきたアーティストたちの作品をとおして考えます。
日本を代表する写真家・北島敬三、韓国・済州島出身で現代美術の最前線で活躍するコ・スンウク、沖縄出身で、今最も注目されている中堅アーティストの一人・山城知佳子、そして八戸市出身で演劇・美術・批評など多方面で才能を発揮した豊島重之[としま・しげゆき](故人)。
4人のアーティストの写真や映像が展示室にともす「灯=あかし=証」を通じて、時間がもたらす風化や忘却の暗闇の中に、災厄をのりこえ、共に生きるための世界を照らし出します。」
とあり、非常に興味惹かれる内容なのだが、アーティストトークの動画なども掲載されているので詳しくはwebをご覧いただきたい。ここで紹介したいのは展覧会の作品ではなく、それに対して美術史家の伊藤俊治氏が寄せている「風雪のデンクマール/”考える記憶”のよすが」というタイトルの論考だ。集団的グリーフや石巻の石碑及び写真に関連することとして少し長いが、部分部分を省略して引用しつつ進める。
『東日本大震災10年 あかし testaments』
註:伊藤俊治氏の論考はカタログには掲載されておりません。以下を参照。
https://inscript.co.jp/contents/20220101
「ヴァルター・ベンヤミンの絶筆「歴史哲学テーゼ」に影響を与えたウィーンの美術史家アロイス・リーグルは『現代の記念物崇拝─その特質と起源─』(1903年)で」
『現代の記念物崇拝─その特質と起源─』尾関幸訳 中央公論美術出版 2007年 原著初版は1903年
で、記念物
(「デンクマール(記念碑 denkmal)」)
「を「人間の行為や技倆のひとつひとつを、次世代の人々の意識に現前させ、鮮明に保つという、確固とした目的のために制作された作品」であるという定義をした上で」
「『全ての事象の成りゆきは、その前に起こった出来事に規定されている。もし前の鎖の一つが欠けていたならば物事はその後、実際に起こったのとは全く別の経過を辿ることになっていたかもしれない』というような思考法である。あらゆる現代的史観の核を占めるのが、まさにこの『発展史観』である」。
「こうした歴史観によれば人間の営みは例外無く、かけがえのないものとして歴史的価値を持つはずである。」
「リーグルはそのために特に際立った行程を代弁するように思われる証拠に限定して歴史が作られてきたと言い、記念物はそのプロセスを象徴的に示すものとみなす。」
「「意識的記念物であれ、無意識的記念物であれ、そこでは記憶の価値が問われているからこそ我々は”デンクマール(記憶のよすが)”という呼称を用いる。いずれの場合にも我々の関心は更に創造の手を離れたばかりの、まだ損なわれていない作品本来の姿へと向かい、更には想像力や言葉、画像によってその作品を再構築してみようとする。しかしながら意識的記念物の場合、記憶の価値は他者(即ちかつての創造者)によって与えられたものであるし、無意識的記念物の場合、それは我々鑑賞者によって定義されたものとなる」」
「独語の「デンクマール denkmal」は、「デンケン(考える)」という動詞と「マール(印)」という名詞の合成語である。通常は「記念碑」と訳されるが、字義的には記憶の価値を人の内面に強く喚起する思考の引き金のことである。記念碑は今を生きる者に生成と衰滅の循環を想起させ、個として世界から出現し、緩慢に世界へ埋没してゆく自らの運命を悟らせる培養土となる。」
「東日本大震災から1ヶ月後の2011年4月13日に亡くなった歴史家の多木浩二は自らも一時期、建築写真家として活動していた経験を踏まえ、言葉にできない何かを写すことができるのが写真であると語ったことがある。」
多木浩二は中平卓馬、森山大道らとプロヴォークのメンバーとして活動していた時期があり、写真の論考はもとより、実作も残している。
「建築は考える要素が多いが、」「建築を考えるために写真を撮るのではなく、言葉にできない何かを写すのが写真家の役割だと語った。また自分はもう写真家ではないが、写真とは何かを考えるよりも、写真に触発されながら、何かを考えてゆきたいとも言った。芸術でしか考えられないことがあり、それを芸術のみで使うのではなく世界へ開いてゆくことが大切であり、芸術を一つの方法として世界を読んでみたいという言葉も印象に残る。
多木浩二は歴史に対してどのような姿勢で自分の身を置くのか、そうしたことを考え、選択し、決断することが芸術の役割ではないかと問うた。同時に遺作となった」
「『映像の歴史哲学』では、写真の眼差しが辿り着くのは歴史に登場しない歴史であり、現代の本当の主題となりうるのはこの歴史に登場しない歴史であると言」い、「「写真の視線が辿り着くのは歴史のなかには登場しない歴史である。別に隠れているわけではないが、理性の眼にはとまらないのだ。本当に主題になるのは歴史のなかには登場することのない歴史である。タイタニックの沈没は歴史に書き込まれるが、溺死者のながいながい漂流は歴史の外にある。どこからか流れてきて、浜辺に次々と打ち上げられてゆく溺死者の群れのように写真は生まれてくる。その写真の一枚一枚に名もない死者たちの、なまぬるいため息がひそんでいる」」
としている。この多木の遺言のような言葉はある種のモニュメント批判とも読めるし、特定の事象や個人や事件の特権化への批判かもしれない。
『映像の歴史哲学』多木浩二、今福龍太(編)みすず書房、2013年
展覧会のタイトルである
「「あかし」とは何を指し示しているのかを考える。」
「「あかし」の英訳の「testaments」とは「真実であることや存在することの証明」」。
「「遺言」「遺書」「聖書」「神との契約」の意味もあ」り
「派生語の「testimony」には「証言」や「宣誓書」旧約聖書の「十戒の石板」の意味も含まれる。」
「 展覧会のチラシにはヴァルター・ベンヤミンの『歴史の概念について』から「かつて生じたことで歴史にとって、失われたと見なされるものは何ひとつない」という言葉が引用され、「かつて生じたことを何ひとつ失うことのないあの〈歴史〉の姿」を一瞬垣間見る作品のモンタージュの可能性が言及されていた。」
「溺死者の思いを伝えようとするなら、その死者へ入り込み、その眼の裏側から世界を覗く想像力が必要なように、遺棄された風景の肉声を聴くには、その内部からレンズを広げて世界へ分けいるような眼差しが必要なのかもしれない。しかしこの行為は感情移入とは別物である。風景へ入り込み風景を現在から逆照射するには独自の物語る術が必要だ。積み重なった地層の裏側から外界を覗く技が鍛えられなければならない。その技によって魔法をかけられた現実のヴェールが剥がれ、新たな風景の皮膚が現れてくる。」
「大きな危険や恐怖を体験すると強い不安感や無力感が心身深くに刻み込まれる。その体験が事後にイメージとなり反復的に現れることもある。個人ではなく集団の深層に刻印されるこうした恐れの共有反応は、関係する人々に吸収され、世代から世代へ伝えられ、文化的アイデンティティを変容させてゆく。それは無意識的に溜め込まれた小さな痙攣の身振りの伝搬である。」
この辺りが集合的なグリーフと強く関わるところかと思うが
「集団の深層に刻まれた傷は」「不安や恐怖の再現をもたらす。その共感的な不安定が日常の感覚を阻害してしまわないようにするには傷との厳正な対峙による乗り越えという手段しか残されていない。
ドミニク・ラカプラが『歴史を書く、トラウマを書く』で示したように、「傷」を再現してしまう主体と見者が、「傷」との距離を設定できるように、対象を曖昧だが全体性を感知させるイメージにする方法を模索させるしかない。そうした方法により、瞬間的な強度を伴う体験を、省察を伴う経験へ転化させるきっかけを掴ませ、倫理的な脈絡を失わずに掘り下げることを可能にさせる。」
Dominick Lacapra, Writing History,Writing Trauma, Johns Hopkrns University Press, Baltimore,2000.
「 しかしそれを単なる”作品”にしてはならない。再現の限界を指し示すような事件は生半可な理解や判断による再現を禁じられている。再現には十分すぎる慎みと配慮が前提としてあらねばならず、直接的で不作法な方法ではなく、芸術的な意味作用に基づく繊細な操作がなされ、それが新たなイメージの芸術を作動させなくてはならない。ただ再現不可能な傷こそがむしろ再現を切実に求めているのだ。だから芸術はその逆説を踏まえ傷を再現してゆかなければならない。芸術の使命と責任がそこにある。」
「 傷は日常的なレベルの記憶には浮かび上がることはない。傷は無意識の海で揺動しながら、型に納まった経験を変形したり、破壊したりし続けている。だから海に没入しない浮力が必要であり、傷にできる限り接近してゆく抑制が大切である。そのような潜水により沈黙のため息を聴き取り、それを転移させてゆく。傷は正確に記憶されなければならない。記憶はじっくり意味を深めてゆく過去の記憶となることを望んでいる。人間にはあるが、記憶には辿り着く終着駅はないのだから。」
「潜水」というのはハンナ・アーレントがベンヤミンのことを真珠採りの潜水夫に例えていたことが響いているように思う。
「ナチス時代を亡命者として生き延びた映像史家ジークフリート・クラカウアーはその『歴史─永遠のユダヤ人の鏡像』で、歴史と写真の間には平行関係があるとし、偉大な歴史家の多くがその重要性を彼らが「国外追放者」だった事実に負っているという興味深い指摘をしている。」
ジークフリート・クラカウアー『歴史─永遠のユダヤ人の鏡像─』(平井正訳 せりか書房 1977年)
「歴史家も写真家も、場所をもはやその場所に属していない者の眼で見ているという共通するスタンスを抱える。彼らは自己抹殺や故郷喪失の極みで、時代の抽象性を克服し、歴史と交差することができた。クラカウアーはこのような”構え”を「最後の前の最後のもの」にフォーカスを当てる集中であるとした。」
この指摘は重要かもしれない。「その場所に属していない者」いわば余所者であるが故に、透徹した眼でその場を見ることが可能になる。逆にいえばいわゆる当事者、特にその被害や悲嘆の当事者が、その場や出来事を冷静にまなざし、記述し表現することの難しさも表している。一方で当事者でなければ不可能な表現もあるだろう。その場合は相応の時間を置くことで、表現が可能になる場合もある。しかし、のちに出てくる作家たち、特に詩人たちの中には悲嘆の只中において高度な絶唱をなした者たちもいるため、個々の資質や能力にも関わることなのかもしれないし、表現のフォームにも向き不向きがあるのかもしれない。体験から表現までの時間的乖離の多寡は今後の研究課題でもあるだろう。
「「最後」というのはたとえ人間が完全に消滅したとしても存在するだろう「客体」を再現することだが、その地平へ辿り着くことは不可能であり、生煮え状況の沸々とした歴史の営みを再現することはできない。だとするならどのような方法で歴史は可視化されうるのだろうか。どのようにして記憶を巻き込んだ複雑な歴史の関係を見えるものにし、時間の奥行きや重層性を喚起できるのだろうか。そもそも歴史概念の中心に置くべき方法など存在しうるのだろうか。」
「多木浩二が遺作で語ったように、写真は「まだ見ぬ歴史が始まる場所」でもある。歴史の海を漂流する溺死者の群れのように、泥濘と藻屑の舞う海の只中で、写真は世界の隠された視線そのものとなる。」
「集合的・集団的 /共同的グリーフ」が記念碑や作品として定着、昇華し、歴史となっていくのに対して、「歴史のなかには登場することのない歴史」の中に「個人的グリーフ」やそれを元にした芸術が含まれていくことになるかと思う。
個人的 グリーフにおける芸術/表象では著名な作家では以下のような作品が想起される。こちらも枚挙に遑がないため、一部の文学作品と写真作品を挙げるに留める。
著名な作家などによるもの
文学・随筆など
柿本人麻呂、大伴家持『万葉集』挽歌
宮澤賢治「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」「青森挽歌」『銀河鉄道の夜』
中勘助「妹の死」
中原中也「春日狂想」『在りし日の歌』
小川未明「金の輪」「千代紙の春」「月とあざらし」
西田幾多郎「我が子の死」
写真
古屋誠一「メモワール」
荒木経惟「センチメンタルな旅・冬の旅」
その上で、演題の「写真教育の場における実例」に入る。
私が2014年から関わることになった京都芸術大学の通信写真コースには在学生のみで350人ほど在籍しているが、それまで教えてきた大学や専門学校の昼間部通学部の年若い学生の作品と比べると明らかに大きな違いがある。それは老いや死や病、あるいは喪失や悲嘆などについて、自己の問題として、主に家族との関係で辿り直す作品が多いということである。
通学の課程に通う十代末から二十代の学生にもそのような主題を扱った作品があるが、その多くは祖父母の死であったり、老朽化した家屋の取り壊しであったりと、特定のパターンに類別しやすい主題が多くなる。
それに対して通信教育部の学生は年齢の幅も十代から八十代までと広く、居住地域やキャリア、バックグラウンドなどもそれぞれに違うために、個々の事情の振れ幅の大きさやがバリエーションの多さに繋がっている。
卒業生の作品の中からグリーフケアに関わると思われるものを前掲の「レジリエンスは可能か――喪失・悲嘆・病・尊厳」から二つに絞って挙げ、抜粋する。
「榎本八千代の『20050810』(2016年度卒業制作、2017年発表)は不妊治療の末にやっと授かった幼い一人息子を公立の保育所の事故である日」(それが作品タイトルになっている日だが)「突然失った作者が」
「民事裁判で市の過失を認める判決が言い渡され、七回忌を済ませた頃に写真を学ぶことを志し、その死から十一年の歳月をを経て、封印していた遺品と対峙して制作した作品です。
ステーメントによると作品には「4歳の男の子の使い古された靴と服とおもちゃ」と「その子供が住んでいたマンションの周りの風景」が写っています。
「子供の死というのは自分の残りの人生の死でもあ」り、
「亡くなったという事実をどうしても認められ」ず、「正面から向かいあう勇気が」なかったがゆえに「それらのモノ達は、十一年もの間、存在はずっと忘れられていなかったものの、1度も外へ出されることは」ないままでした。
「亡くなった子供をよみがえさせたいという感情と、成仏して欲しいという感情」に引き裂かれつつも「写真とい う手段は、そのアンビバレント(ambivalent)な欲望を一時的にでも、実現できるツール であ」り、
その「ツールを利用することにより、自らの「喪失」の記憶について辛いながらも向かいあう事が出来ると考え」「大切にしまってあった箱から一つ一つ丁寧に取り出して、カメラの前に置き」「数少ない「遺品」に対して、何百回ファインダーを通して覗き、同じものを何百回もシャッターボタンを押し、
それらをプリントして、また見るという作業をずっと繰り返し行」うことで「「かわいそうな被害者の母親」と「幼くして亡くなってしまったかわいそうな息子」からの「解放」」を成し遂げ「「喪失」への対峙でありながら「遺品」の私からの解放でもあり
「遺品」からの私の残りの人生の解放でもあ」るといいます。
粘り強い制作の結果、作品は確かに成立し、東京と大阪にて個展も開催され、美術専門誌(美術手帖)の展覧会評に取り上げられるなど一定の成果もみました。
しかし、ここからは私の想像なのですが大きく報道もされた事件の被害者遺族としての悲嘆は第三者の想像を絶していると思われます。
また修復的正義がなされなかったことを原因とする裁判などによる苦しみから、彼女は本当に「解放」されることがあるのでしょうか。残酷なようですが、私はそれは難しいのではないかと考えます。」
そんなにうまくはいかないのではないかというのが私の考えだ。ご本人には大変申し訳ないのだが。
「その後発表された作品『明晰夢』のステートメントの冒頭において榎本は
私は14年前の2005年8月からずっと、夢を見ている。朝がきて、目が醒めているという自覚があるにもかかわらず、私が今経験している目の前の日常生活は、まるで 「夢をみている」ように現実感がない。と書いています。
これはボウルビィやパークスが提示した、悲しみからの回復のプロセスの四位相の第一に当たる「無感覚」の段階に、彼女がまだいることをあらわしているように思います。
フロイトはその「喪の仕事」概念において、二年を経過しても悲しみが癒えない場合は鬱と診断しうる、としているそうです。時代背景や時間感覚が異なる現在ではその定義の適否は意見の分かれるところかと思いますが個人的には二年というのはあまりに短すぎると思わざるを得ません。」
「二年というのはあまりに短すぎると思わざるを得ません」
と、この時は書いたのだけれど、その期間はその人の悲嘆の対象との別離の内容などによって異なるのではないかと思うようになった。私の例で言えば、父が亡くなって2年経つが、高齢で悠々自適のうちに亡くなった父の死に対してはあまり悲しみの情が持続しなかったのに対して、後述する予定の 妹の死に対しては3年経った今でもほとんど立ち直れていない(私だけではなく、母や、上の妹も)状態であるからだ。
とはいえ、榎本さんの例に戻ると
「しかしながら、写真作品制作という理由の元に、封じ込めていた過去と向き合い、再帰するいくつもの記憶との格闘を経て、彼女の人生に新たな局面が開かれたであろうことは一つの大きな達成であることは確かだとに違いないと信じます。」
しかし、だからと言って写真が、写真作品を作ることがグリーフケアに効果がある、とか、セラピー的な効果があるなどとは言いたくない。
確かにそれはあるのかもしれない、だけれどもそのように言うことは、あまりに軽薄というか、慎みに欠けるというか、死者の送った生に対しても、遺族に対しても、異和を感じる、簡単にまとめてしまう言葉のように思う。
それに対して、こちらはまた違った形での「喪の仕事」の例である。
「「何が良かったのかなんて、にんげん終わってみないとわからないものよ」 という印象的なタイトルがついた牧野友子の作品は、父親が亡くなった後に設えられた仏壇に手を合わすことになったことで、そのような形式的な宗教行事による弔いに強い違和感をもったことが制作のきっかけとなっています。
ここでも榎本と同様に「遺品を箱から出し、故人に思いを馳せる作業」を行うのですが、そのアプローチと作品化の方法は全く異なっています。「 生前お酒しか趣味が無かった父が、水や花をお供えされて喜んでいるとは思えない」と考える娘は「私なりの弔いを始め」ます。
故人の遺品をヴィヴィッドな背景の元に組み合わせ、本来の用途とは異なる、いわば間違った使い方をすることや性差も年齢差も大きい自分の持ち物と組み合わせることで乾いた笑いとユーモアをもたらすと同時に、
児戯に似た悪ふざけが一抹の毒をもって巧みに配されることによる屈折したあるいは恥じらいを秘めた(最近の言葉でいえばツンデレな)愛情の遊びによる演出写真が出来上がっています。
ここでは父ー子、父ー娘という、父親の生前には強固に存在したであろう非対称な権力関係が、父親の死によってその主導権が娘の側に移ったことを示しています。
グレゴリー・ベイトソンはニューギニアのイアトムル族の調査における「ナヴェン」という儀式において、
一時的に男性と女性の役割(行動、服装、発言など)を入れ替えることにより、男女の相補的関係に含まれる緊張の高まりをナヴェンが打ち消し、イアトムル族の社会のガス抜きをしているとみなしました。
さらにベイトソンはそのような「役割の交換・逆転」によって分裂生成的緊張がどのような文化や社会でも緩和されていると想定しています。
牧野はそのように父と娘、男と女といった従来の役割の交換をすることで、父親の死により顕在化した秘められた分裂生成的緊張と精神的危機を回避しようとしたとも考えられます。
またここで注目すべきは、作者の分身ともいうべき人形たちです。それは作者が現実の大人の女性としてではなく、幼い娘として父親と無邪気に、時に酷薄に戯れていることも示しています。しかしそれは単なる子供ではありません。
大人になった娘の中に今も棲んでいる子供存在を父親との関係において十全に発揮しつつも、牧野自身が巧みに操りながらコントロールすることで写真作品として成立させたものです。さらに別の観点から言えば人形の導入は、今や魂が抜けて物質と化してしまった父親とその遺品と対するには
「〈物〉に化して行く〈人間〉が自らの中の決して凍てつくことのない「魂」によってヒロイックに叛乱 に立ち上がるイメージではなく、むしろ無機的な〈物〉に過ぎ ない〈人形〉に不意に「魂」が宿り、〈人間中心主義(ルビ:ヒューマニズム) 〉には到底制御不可能な蜂起を突如繰り広げる些かナンセンスとも取れる〈革命〉の光景」を導入する必要があったのかもしれません。
牧野の悪戯を我々が眉をひそめることなく笑って受け入れれることができるのは、父と娘という多少の暴挙は許容されそうな関係はもとより、遺品の主である父親がどのような状況で亡くなったかはわからないものの、ある程度満足のいく人生を送ったのではないかと想像させるためかもしれません
そのような死者に対しては我々はある程度は恐れることなく戯れることができるのです。しかしそれは私の一面的な見方であり、実際には死別の苦しみを克服する行為であるとも考えられます。
フロイトは『快感原則の彼岸』(邦訳は『自我論集』)の中で孫のエルンストが紐をつけた糸巻きをベッドの向こうに投げ込んでは引っ張り出すという繰り返しの遊びの中で、母親を失うという「受動的な」経験を、母親をいなくするという「能動的な」経験に変えることで、
その苦痛の大きさを遊戯によって克服し、死の不可避さを学んだエピソードを記しています。牧野の行為もまた能動的な遊戯を通した克服の過程だったのかもしれません。」
参考:IG Photo Galleryでの個展でのタカザワケンジ氏による紹介文
https://www.igpg.jp/exhibition/makino.html
他にも多くの学生が肉親の死や、職業上(医師、看護師など)触れる死、あるいは自己の病や老いや生い立ち、家族や生業にに関するものなど様々な悲嘆と向き合った作品が多く見受けられるが、紹介はまたの機会に。
「それ(ある程度満足のいく人生を送った故人)に対して不慮の死や不如意の人生を送った死者に対しては、生きているものたちはより慎重な態度で臨まねばならないでしょう。折口信夫はその最後の学術論文である「民族史観における他界観念」の中で死者の霊を大きく二つに分類し、突然の死や非業の死、若年での死を迎えたものを「未完成の霊魂」と呼んでその鎮魂を図ると共に「完成した霊魂」への従属を解き放とうとしています。
学生たちの喪失や死や病に対する様々なアプローチをみてきた私でしたが、二〇一九年一月に自らが同じようなまたより個別の複雑な状況におかれることになりました。」
谷川俊太郎「願い」
いまだにまともに話すこと能わずにおりますので
ご興味のある方は
以下のnote及び既出の書籍などを
ご参照いただけると幸いです。
「『わたくしのいもうと』展のためのステートメント及び状況説明」
https://note.com/kkatsumata/n/n63ed83e55411
「リジリエンスは可能か ―喪失・病・悲嘆・尊厳」
『写真2 現代写真: 行為・イメージ・態度 (はじめて学ぶ芸術の教科書)』所収
京都芸術大学 東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎、2021年
「グリーフケアと芸術」
https://www.youtube.com/watch?v=SwRw4CilZFQ