色彩が解く言語の謎
色彩学の世界で、長く引用され続けてきた、バーリンとケイの『基本の色彩語-普遍性と進化について』が40年以上の時を経て翻訳された。訳者は、色彩学者で、今日まで使用されている、マンセル表色系を開発した、アルバート・H・マンセルの『色彩の表記』(みすず書房、2009)を翻訳した日髙杏子さんで、内容の信頼性も高い。
20世紀の言語学、人類学に関する名著は多数あると思うが、今日においてまで研究の対象になり続けている実証的な著作はそれほど多くはないだろう。そして、今日ではそれが人間の知覚と脳とどのような因果関係があるのかを実証する新たなステージに進んでいる。つまり、現在進行形の課題なのである。
簡単に言えば、バーリントとケイの理論は、世界中の言語を調査し、色彩語の普遍性と進化の過程を明らかにしたものだ。よく知られているように、色彩語彙がとても少ない言語と、多い言語がある。色彩語彙が少ない言語を使っている人種や民族は、かつては色が十分に知覚されていないと思われてきた。そして、今では信じがたいことだが、進化論に影響を受けた19世紀の議論では、ギリシアなど古代社会の文献調査による色彩語彙の少なさから、現代にいたるまで知覚が進化したと考えられていたのである。
しかし、多くのフィールドワーカーたちの多数の色覚調査により、色彩語彙の多少と色知覚は無関係であることがわかった。同時に、色彩語彙の進化論は消え失せ、アインシュタインの相対性理論に影響を受け、言語は人種・民族・文化によって異なり、言語が異なると、世界の見え方が異なるという、言語学者サピア=ウォーフの理論が支配的になっていく。それを、言語相対論という。
この本は、言語相対論が支配的だった、20世紀半ばに書かれたもので、死滅したかに見えた色彩語彙の進化論を、驚くべく手法で再発見したのである。彼らはまず、色彩語の中でも、物体色に依存しない、基本色彩語を定義し、マンセル表色系の329の色票の中で、その焦点を選ばせた。それをフォーカスカラー(焦点色)という。さらに、基本色彩語の境界線を選ばせた。
その結果、人種・民族・言語に関わりなく、基本色彩語はほぼ同じ箇所にあることを突き止めたのである。さらに、基本色彩語は文化の複雑さに応じて、2色から7つの段階を経て、11色に増えると述べた。11色とは、白、黒、赤、黄色、緑、青、紫、茶色、オレンジ色、ピンク色、灰色である。
この発見は、これまでの言語相対論を覆す、センセーショナルなものとなり、改良がくわえられながら、研究が進んでいる。しかし、基本色彩語の境界線は、どの言語でもはっきりしないことがわかっている。
訳者が、あとがきで書いているように、本書が書かれた1969年当時、UCバークレーに在籍していた2人の明るく、反骨的で茶目っ気のある雰囲気が伝わってくる。そして、調査した19世紀以来の数多くの文献比較や、音韻学との関係など、知られていないところが多く、たくさんの気付きがある。
さらに、訳者が指摘しているように、観察光源が2900K(ケルビン)という赤みのある色温度だったことによるデータへの影響、環境光と色彩語の関係などは、まだ明らかになっていない点であろう。
今日では、2つの青の色彩語があるロシア語話者への調査により、色彩語の有無が色知覚に影響があることが証明されており、言語には普遍性と相対性の両面があることがわかっている。また、基本色彩語が11色から6色程度、進化の過程は5段階程度という修正研究がなされているものの、基本色彩語を感知する脳の視覚野の特定も進んでいる。
そのすべてが彼らの研究から始まったといっても言い過ぎではない。本書のような基本文献が訳されてこなかったのは、半世紀にわたる日本の言語学、人類学、色彩学の損失であったであろうし、この度の訳者の貢献は大きいだろう。色彩学の基本文献が、21世紀になって相次いで翻訳され始めていることを思えば、色彩が異文化理解や知覚と言語の関係の謎を説く1つの鍵であることの雄弁なる証明となっているだろう。
初出『shadowtimesβ』2016年6月10日掲載