来たるべき通史に向けて
長谷川祐子編『ジャパノラマ――1970年以降の日本の現代アート』(水声社・2021年)
2017年に仏パリのポンピドゥー・センターの分館で開催された、書名と同タイトルの現代日本アートの展覧会の図録である。カラー図版が多く資料的価値も高いが、現代日本の文化状況についての1冊の評論書としても読める。
この「ジャパノラマ」展は、1986年にポンピドゥー・センターで開催された「前衛芸術の日本:1910‐1970」展の続編的意味合いを有している。多大な困難を克服して、約30年ぶりに芸術の本場パリで現代日本アートを継続的・通史的に紹介する大回顧展を実施し国際的に高い評価を受けたことに、まず関係者の労をねぎらいたい。
しかし、いつも「アート」に関して問題となるのは、元々日本には「アート」という概念が存在せず、明治時代に西洋から新たに翻訳導入された後も本来の文化風土とは異質なので、常に歴史形成力における内的必然性において微妙な噛み合わせの悪さが発生することである。つまり、既に多くの論者が指摘しているように、そもそも「アート」の実体が曖昧な上に、評価の基準が西洋の最新動向にあるので単発型の追従になりやすい。その上、現代ではモダニズムの行き詰まりにより参照枠となるべき大本の西洋の「アート」概念自体も動揺している。そうした中で、日本はある意味で周回遅れのトップランナーとして自己のアイデンティティを模索しなければならない。本書が扱う「1970年以降の日本の現代アート」は、実はそうした混乱の坩堝なのである。
しかし、そうした多様で錯綜する状況でも個々には真摯で意義深い営みがある。企画者の長谷川祐子は、それらを掬い上げるために、現代日本アートを何らかの本質に一元的に還元するのではなく、まず「独特の身体性」と「ゆるやかな主体」という2つの触媒を設定し、それらを複合的に6つのテーマに分類して提出する。それが、「奇妙なオブジェ・身体――ポストヒューマン」「80年代以前のポップとそれ以降」「協働、参加性、共有」「ポリティクスを超えるポエティクス」「やわらかで浮遊する主体性・極私的ドキュメンタリー」「物質の関係性・還元主義」である。
長谷川は「禅とカワイイ」とは異なる切口の提示を目指したとするが、一読してそうした通念は十分に脱しえている。また、従来のハイ/ロウの境目を超えて現代日本の視覚文化の見取図を一望(パノラマ)的に提示できたという意味ではこの企画は一定の成功を収めている。
長谷川の総論を補う形で、小林康夫、毛利嘉孝、北野圭介、三木学、加治屋健司、宮沢章夫、清水穣、星野太、エマニュエル・ドゥ・モンガゾンが、時に手堅く時に挑戦的な各論を寄せている。それらはいずれも、それぞれの分野における現在の研究水準の最先端を示している。内海潤也、大久保美紀、鍵谷玲、加藤杏奈、黒沢聖覇、鈴木葉二、李京林によるコラムも、簡にして要を得ている。
2010年代以降、現代日本アートに対する西洋からの関心が高まっている。ただ、そこには市場の論理が働いており必ずしも現代日本アート自体を正当に評価しているとは限らない。だからこそ、今日本人自身による現代日本アートの魅力を論じる通史が求められている。本書は、その確かな里程標(マイルストーン)といえよう。
※初出 秋丸知貴「長谷川祐子編『ジャパノラマーー1970年以降の日本の現代アート』水声社・2021年」『週刊読書人』2021年9月24日号。