鎌田東二 第二詩集
鎌田東二『夢通分娩』(土曜美術社・2019年)
秋丸 知貴
ビビッと、ビートが効いている。宗教学の京都大学名誉教授にしてフリーランス神主である、鎌田東二氏の第二詩集である。
意味不明な単語、脈絡のない文章。疾走感ある、世界との生な出会い。文体だけを見れば、本書は1920年代のシュルレアリスム詩や、1950年代のビート詩の系譜に位置づけても良いだろう。しかし、過去の単なる焼き直しでないのは、本書が実践的宗教学者の半世紀を超える求道的営為の一つの果実だからである。
詩と聖なるものの関係は、時流とは関係なく常に古くて新しい。本書は、詩作を通じた霊性探究の試みと言って良い。安易な手すさびではなく、真摯な曼荼羅の一片なのである。
それでは、人間は一体どこで聖なるものと出会うのだろうか? それは、意味の始源でである。
本能で生きている動物は、迷いはないが自由もない。一方、人間は本能を抑えて自然から自由になることを覚えた。しかし、あまりに野生から切り離されてしまうと、心は乾き、世界は煤け、内外のあらゆる連続性は断ち切られてしまう。
ジョルジュ・バタイユの「至高性」や、ヴィクター・ターナーの「コミュニタス」の議論を援用するならば、本来そうした失われた連続性を回復しようとする心の昂揚こそが、詩であり、歌であり、踊りであり、祭りである。童謡が、パンク・ロックが、阿波踊りが、踊り念仏がそうであるように(君にも、魂のビートが聴こえるかい?)。
意味のコスモスに絡み取られる前に、底なしの無意味のカオスを鷲掴みすること。意識を保ったまま、無意識の深淵にダイヴ=オーヴァードライヴすること。目覚めたまま、忘れかけた奥深い夢に超光速で転生すること。その時、人は聖なるものの臨在に触れるだろう。そっと、内なる異性と再会しつつ。
念仏という極意を秘密漏洩してくれた/金星少女
君の指通信はいつも黄昏れ/消息しぐれ/宵の明星と三密加持する
ほら/夢通分娩真っ最中/きらきら星だよ(74頁)
稀に、子供の心のまま大人になる人間がいる。コリン・ウィルソンに倣うならば、どうも右脳が関係しているらしい。このタイプは、宗教家と芸術家に多いようだ。左脳を酷使するためか学者には多くないけれど、それでもごく稀に空海や南方熊楠のような学者兼宗教家兼芸術家も世に出る。
高校生の時に投稿した詩が寺山修司に認められた経験を持つ鎌田氏もまた、そのタイプではなかっただろうか。「右脳が活性化すると、左脳も活性化するんだよ」と、以前鎌田氏に言われてポンと膝を打ったことがある。
本書の紡ぐ言語空間は、「日常」的ではないという意味で「異常」である。しかし、決して病んではいない。むしろ、「人」と「人に非ざる者」の境界を軽業のように行きつ戻りつする健康で強靭な意志と精神力を感じる。そして、読後に残るのは、明るく透徹した生の本源的な哀しみであり、佳境を迎える前の祭りの一瞬の静寂である。
夢通分娩。
世界の果てで、宇宙の創造を寿ぎ軽やかに歌い踊る神道ソングライター。
鳴響するマントラと、BACK宙ムーンサルト……!
さあ、見えないヴィジョンに触れ、聞こえないビートを体感しよう。幾千の夜を超えて、色鮮やかな朝を迎えるために。
本書は、ただの詩集ではない。一つのポータブル聖地であり、意味の極北への航海記録であり、あなたを銀河鉄道の旅へと誘うフリー・パスポートなのである。