「近藤髙弘『生水ーうつろいゆくウツワー』展」@瀬戸内市立美術館
秋丸 知貴
現在、瀬戸内市立美術館で「近藤高弘展 生水(せいすい)―うつろいゆくウツワ―」が開催されている(会期:2016年7月23日~8月28日)。
瀬戸内市立美術館
瀬戸内市立美術館は、その名前から想像されるように瀬戸内海に面した美術館である。岡山県の瀬戸内市役所牛窓庁舎の3階と4階に位置し、エレベータで上がった入口からはすぐ眼前に瀬戸内海のパノラマが広がっている。まず、この海の近さから自ずと身体的に触発される潮騒感覚が、この展覧会全体の展示効果において極めて有効に働いていることを指摘しておこう。
美術館入口から眺めた瀬戸内海
展覧会場に入ると、最初の展示室では、一面の漆黒の暗闇の中に、巨大な円盤状の鮮烈な緑色の発光体が浮かび上がる。よく見ると、その緑光は、円形に敷き詰められた無数のこぶし大の透明ガラスの内部から発している。その緑光の上には、一組の相似する磁器製の人体坐像が互いに背中を向けて座り込んでいる。その「陰・陽」の相補的二元性を示すような白色と黒色(実際は青色)の際立ったコントラストは、この作品が象徴的性格の強い作品であることを暗示している。
一見すると、この視覚的インパクトの強い展示作品は、氷上あるいは溶岩上で座禅する2人の苦行僧のように見える。2体の磁器製坐像には、表面に塗られた金・銀・プラチナが焼成の過程で結露状に凝固する、近藤の代名詞的技法である「銀滴彩」が施されており、そのことが坐像に如実な代謝的生命感を与えている。また、その隙間を空けて互いに後ろ向きに座る姿勢は、内省的なディスコミュニケーションを感じさせると共に、展示空間全体の異様な緊張感を高めることに一役買っている。
しかし、床に広がる透明ガラスは、氷の冷たさを連想させつつあくまでも常温である。また、強烈な緑色蛍光も、高熱を想像させつつ実際には無温である。さらに、坐像も極めて生々しく迫真的である一方で、どちらも身じろぎ一つしないためにどこか作り物めいた非現実感が漂う。これらにより、作品全体は極めて重厚で圧倒的な存在感を示すと共に、どこか実体のない3Dホログラムのようにリアリティが希薄でもある。そして、個々の作品が示す白色・黒色・緑色という非日常的な原色関係もまた、センセーショナルな視覚効果を強めると共に、そのSF的な超現実感を一層強調している。
近藤高弘 《Reduction》 2014年
磁器・銀滴彩・ウランガラス
ここで台座に用いられている透明ガラス群は、近藤が2011年3月11日の東日本大震災から半年後に開始したプロジェクト「HOTARU 20000」の一部である。これらは、ブラックライトを当てると緑色に発光するウランガラスの特性を生かしたキューブ状の作品であり、2012年の比叡山アートプロジェクト「INOCHI Requiem GAIA」を始め様々な展覧会に出品されてきた。また、坐像も、近藤がこの約5年間に18体制作した自画像彫塑としての「Reduction(リダクション)」シリーズ内の2体である。こちらも、2013年のニューヨークのバリー・フリードマン・ギャラリーでの「CLAY BODIES展」を皮切りに様々なヴァリエーションを示しながら継続的に発表されてきた。
このことから分かるように、今回の個展「生水(せいすい)―うつろいゆくウツワ―」は、近藤が東日本大震災後に取り組んできた創作活動の持続的延長であり、一つの集大成的な意味合いを持っている(1)。そのことを最も明瞭に表現しているのが、正にこの最初の展示と言ってよい。
海に間近いという、入場時の潮騒感覚。圧倒的な即物的実在感を示しながら、どこか虚構めいた非現実感を醸し出すウランの反応光の上に佇む抽象的な瞑想座像。これらが象徴する時代状況的含意は、明らかである。つまり、この第1展示室のインスタレーションこそ、東日本大震災後も各地で頻発する大小の地震災害や、根本的解決策を見出せない原子力発電所問題等の緊迫する身近な危機を背景としつつ、閉塞的な小康状態のまま茫漠とした不安を抱えて日々を過ごす現代日本の似姿であり、昨日の鎮魂と明日の活路を希求する今日の私達自身の肖像に他ならない。
近藤高弘 《Unstable》 2013~2015年
クラッシュガラス
第2展示室では、クラッシュガラスによる《Unstable(アンスターブル)》シリーズが並んでいる。白色あるいは無色透明の29個の大小様々なガラス作品が、展示空間一杯に配置されている。最初の印象では、入場以来続く潮騒感覚と相俟って、室内全体は何となく貝殻の散らばる浜辺の波打ち際を連想させる。
これらのガラス作品群は、意図的な幾何学的形態や偶然的な溶融的形態からなり、その造形的多様性にクラッシュガラスの発泡的質感が加味されて、何か文字通り「移ろいやすい(アンスターブル)」ものが絶えず揺らぎながら変形していくような幻視を生じさせる。言い換えれば、まるで鑑賞者は、「形なきものの形を見、聲なきものの聲を聞く(2)」(西田幾多郎)ように、自ずから各所で個々の形体が生まれ、移ろい、崩れていく、自然事象一般の生成と消滅の過程を俯瞰しているかのようである。
さらに、その全体配置には、人為的な幾何学的秩序というよりも、事物相互の「気合いにおける統一(3)」(和辻哲郎)と呼べるような無作為的な呼応関係が感得される。それらの複合効果が、魂を持たないはずのこれらの無機物の散在にそこはかとなく汎魂的(アニミスティック)な詩情を付与している。
近藤高弘 《Reduction》 2014年
東北の原土・登り窯
第3展示室では、台座に乗った2体の坐像が向かい合って座っている。これらも、それぞれ「Reduction」シリーズの一環として2014年に東北の地で採取した原土を現地の登り窯で焼成した作品であり、やはり東日本大震災と縁が深い。
興味深いことに、近藤はこの年からこのように坐像の顔面を断ち切って内部の空洞を露わにする展開を始めている。この視覚的に不気味でショッキングな造形は、近藤自身の説明によれば、人体も一つの「器(ウツワ)」と捉えられるという信念に基づいている。これに関連して、福岡伸一は『生物と無生物のあいだ』で、肉体の構成物質が原子や分子レベルでは半年から一年ですっかり入れ替わり、その動的平衡にある流れ自体が「生きている」ことであると説明している(4)。ここでは、さらにそうした生物学上の滞留的流動性に加えて、自然の一部である人体は元を辿ればビッグ・バンにより誕生した銀河の塵の塊であり、身体はそのまま宇宙を内包する一つの容器であるという宇宙論(コスモロジー)的信念も表明されているといえる。
よく注意して見ると、左側の坐像は肌に火傷のようなささくれ立った細かなひび割れが幾つも入っているのに対し、右側の坐像の肌は極めて滑らかで瑞々しい。つまり、ここでも「陰・陽」の相補的二元性が表象されており、相反する対立項を弁証法的に統合しようとする強い意志が感じられる。もし人体と大宇宙が同質ならば、個々の人体相互の懸隔も究極的には仮構的なものに過ぎない。そのことを示唆するかのように、距離を置いて正対する両者は顔面の空洞を通じて互いに呼応し合い、内外の交感の中で自他の境界を内宇宙的に溶解させていくように感受される。
近藤高弘 《Reduction(宮城県 閖上海岸)》 2014年
映像作品(撮影:Tomas Svab)
その2体の顔無坐像が門番のように座る背後のスクリーンには、浜辺に穏やかに打ち寄せる海の波が映し出されている。この文字通り「閖」を体現する映像作品は、2014年に東北の宮城県閖上海岸で撮影されたものである。
この映像作品では、冒頭から終幕まで一貫して、砂浜に届いては消えていく波飛沫と、それを眺めるもう1体の顔無坐像が映写される。入場以来残存する潮騒感覚は、スクリーン上に広がる沖合が展覧会場を超えて屋外の瀬戸内海と繋がっているように感じさせる。その寂寥とした海岸風景は、人類誕生以前の太古の光景のようにも、人類滅亡後の未来の光景のようにも見える。どこか不穏で懐かしい既視感(デジャ・ヴュ)。波が穏やかであればあるほど、私達は記憶の中で二重写しになる東日本大震災の大津波との振幅の激しさに震撼させられずにはいない。
重要なことは、この映像作品において顔無坐像は自然との一つの向き合い方を象徴している点である。つまり、ここで顔無坐像は、自然に対峙して能動的・積極的に介入するというよりも、自然に逆らわずに受動的・消極的に受け入れる一つの「器」と化している。ここでは、顔面の空洞により物体上の虚体性が表現されていることに加えて、ヴォリューム感の薄い――ただし卓球選手として国際大会の日本代表に複数回選出された潜在的身体能力の高さは感じられる――求道者的瘦身によってもまた精神性が著しく強調されている(5)。言わば、それは海波の絶えず繰り返す往還に呼応する無形の没我的受容体であり、自分を虚ろとすることで大自然に溶け込んでいく解脱的隠者の形姿である。
この文脈においては、「Reduction」シリーズが立像ではなく坐像であることも重要である。それは、ただ単に座禅姿が仏像を彷彿させるというだけではなく、「座る」という行為自体が一つの超越的開悟性の表現だからである。上田閑照が『私とは何か』でマックス・シェーラーやアドルフ・ポルトマンを援用して解説するように、直立姿勢は人間の自我の起源であり、それによる両手の解放は文化創造の根源である。しかし、人類の自我の異常な肥大化がモラル荒廃や自然環境破壊等の心身両面の危機的状況をもたらしている現代文明においては、それを鎮め弁証法的に昇華させるためには再び座るという観点が大いに有効である。すなわち、座るということは、ただ単に座り込むということに留まらず、人間が直立することにより掻き立てられた過剰な自然支配の欲望と昂奮を抑制し、改めて世界との調和的均衡を取り戻す謙虚で明鏡止水的な姿勢でもあるのである(6)。
ここにおいて、これらの坐像に名付けられた「Reduction」の意味も氷解する。ここでいう「Reduction(還元)」とは、近代西洋思想における自然の全体性を要素に解体し分析していく意味での還元ではなく、己を虚しくすることにより個的人間が全的自然に回帰し解消していく意味での還元なのである。この点で、近藤の「Reduction」シリーズには伝統的な日本的自然観の一つの顕著な今日的反映を感取できるだろう(7)。
近藤高弘 《Reduction-波動-》 2016年
磁器・銀滴彩
それと同様の世界観は、第4展示室にも引き継がれる。ここでは、室内に白い坐像が1体だけ台座の上に鎮座している。
「Reduction」シリーズの最新作であり、「波動」のサブタイトルを持つこの坐像は、全身に水飛沫を浴びたような銀滴彩が施されていることに加えて、肌全体に墨を流したような模様が現れている。そのマーブリングを思わせる流水紋は、3種類の色の異なる粘土を練り込むことで自然に生じる模様を活かしたもので、3種の色の違う粘土を練り込み、そこから自然に出てくる模様を生かしているのです。あたかも成人では人体の約60パーセントを構成する体内の水分が循環する様子を表象しているかのようである。ここで、入場以来余韻の残る潮騒感覚は、屋外に広がる瀬戸内海とこの坐像に浮き上がる大小の波紋が共鳴しているように感じさせる。つまり、やはりここでも人体は水を湛える一つの「器」と化し、水という共通の構成要素を通じて内界と外界の相互浸透的な呼応を感受させるのである。
周知の通り、水は万物の生命の源である。海は時に荒れて人間を脅かすこともあるが、水により生命は維持され、水を通じて人体と宇宙は一体的な和音を奏でる。生命の本質としての水を蓄え、有機的に生成変化し、やがて母なる大海へと還りゆく、「器」としての人体。本展のタイトル「生水(せいすい)――うつろいゆくウツワ」には、このような宇宙論的=存在論的な含意を読み取ることができるだろう。
近藤高弘 《「波」銀滴碗》 2015年
磁器練り込み・銀滴彩
この問題意識は、第5展示室では別の容貌で現れる。ここで展示されている銀滴碗《波》と題された茶碗は、その全体に施された共通する銀滴彩と流水紋を通じて、まるで先の「器」としての人体坐像《Reduction-波動-》が流体的あるいは位相幾何学的に変容(トランスフォーメーション)したかのような錯覚を与える。
その点で、この《波》は、あたかも人体と茶碗が共に水を湛える「器」として同形であることを示しているかのようである。また、そのことは同時に、茶碗こそが生命の源泉である水を汲み上げる、人間存在にとって最も本質的で原初的な道具であることを示唆しているかのようでもある。
ここで注目すべきは、この《波》が、飲物の容器としての機能性を備えている一方で、それをある意味で大きく逸脱する銀滴彩と流水紋という非実用的な装飾を大胆に提示している点である。つまり、この茶碗は、実用的な工芸作品であると同時に、純粋に視覚的鑑賞を目的とした美術作品であることも強烈に主張している。
ただし、この《波》は、生粋の美術作品として見た場合でも、いわゆる普通の西洋美術作品とは趣を異にしている。この問題に関連して、高階秀爾は西洋と日本の制作美学の差異について、西洋では人工が自然を完成すると考えるのに対し、逆に日本では自然が人工を完成すると考える傾向があると指摘している(8)。つまり、一般に西洋美術では人間の主体的理性による構想(コンセプト)が一義的に重要であり、自然がもたらす抵抗や偶然は余計なものとして排除される。しかし、この《波》では、素材の特性や焼成における偶然の効果が絶妙かつ豊潤に取り込まれ、むしろ自然と人間の共同作業こそが逆説的な一つの美術上のコンセプトとして具示されている。その意味で、この作品は極めて日本の伝統に即した美術作品といえる(9)。
近藤高弘 《「井戸」銀滴碗》 2015年
磁器・染付・銀滴彩
さらに、この《波》と同様の美意識は、第5展示室のもう一つの銀滴碗《井戸》にも現れている。
染付は、人間国宝の祖父悠三とその後継者である父濶から継承した近藤家の家芸といえる陶芸技法であるが、この《井戸》における染付は、銀滴彩と組み合わされた作家自身の全く独創的なものである。そのグラデーションに富んだ繊細な藍色と燦然たる輝きは、「井戸」という名称の連想も手伝って、内側に冷たく澄んだ無限の地下水源、あるいは星屑を散りばめた大宇宙の深淵が広がっているような幻想を抱かせる。
ここでこの《井戸》もまた、人体と茶碗が共に水を湛える「器」として同位相であり、共にビッグ・バンにより誕生した宇宙の塵の塊として大銀河と深奥的に照応していることを想起させずにはおかない。そして、実用的な工芸作品であると同時に純粋鑑賞的な美術作品でもあり、生粋の美術作品として見た場合には自然と人間との偶然性豊かな協働作業を中心的な美的主題とする点で、この《井戸》もやはり大いに日本の伝統に即した美術作品と呼ぶことができる。
ここで留意すべきは、近藤がアーティストとして長らく封印してきた実用工芸としての茶碗を自らの美術作品として本格的に出品し始めたのが、30年に及ぶ長いキャリアの中でわずか1年前の「琳派四百年 古今展」からであるという事実である。その契機となったのが、東日本大震災直後から夢中で取り組んできた被災者に約2000点の自作茶碗を贈呈する「命のウツワ」プロジェクトであったことも付言しておきたい。なお、ここでは、近藤が美術から工芸に転向したのでもその反対でもなく、美術を追求する過程で工芸が蘇り、それがまた美術に逆影響を及ぼしている点が非常に重要である。すなわち、ここでは工芸と美術という二つの対立項の昇華が看取されるのである。
近藤高弘 《Monolith》 2014年
磁器・銀滴彩・キャストガラス
このように、近藤の作家としての顕著な個性の一つは、対立する二元の統合である。そのことを典型的に示すのが、第5展示室の最後の展示である、磁器とキャストガラスの複合素材(ミクストメディア)による3体の《Monolith(モノリス)》である。
これらの《Monolith》の縦長の形状は、スコットランドのオークニー諸島に今も残る新石器時代の巨大立石群に影響を受けたもので、「天」と「地」という相反する二要素を結び付けることをイメージしたものである。これは、言わば「現代」美術に「古代」的感覚を取り戻そうとする一つの試みといえる。
また、これらの《Monolith》を構成する2種類の素材は、作家自身の家系的ルーツに直結する磁器が「日本」や「工芸」を象徴し、エディンバラ美術大学の修士課程に留学して学んだガラスが「西洋」や「美術」を象徴している。さらに、その制作姿勢は、「西洋」的に個人の主体的理念を重視する美術作品でありながら、「日本」的に素材や偶然という自然的要素との恊働自体を本質的な美的主題としている。その点で、これらの作品は日本工芸と西洋美術の文化的融合を一つのコンセプトとする新しい美術作品ともいえる。
そして、磁器が「火」により焼成されるのに対し、それに施される銀滴彩は「水」を表し、またガラス自体やそれに滲む墨も「水」を表現している。こうした「火・水」という相補的二元性の革新的な弁証法的統合は、近藤の故郷である京都東山の伝統的な「清水焼」との親縁的連続性を想起させるものである。その意味で、これらの作品は「伝統」と「革新」という両義的総合性も備えているといえる(10)。
いずれにしても、既に見たように、本展「『生水(せいすい)』―うつろいゆくウツワ―」には様々な二元対立の昇華が観取される。そして、それらを通じてこの展覧会は、人間による自然支配を主調とする近代西洋的価値観に対するアンチテーゼとして様々な自然共生的な伝統日本的感受性を提出し、それらのジンテーゼとして未来の望ましい持続可能な世界文明の方向性を模索する一つの実践的象徴であると指摘できるだろう。
(写真は全て筆者撮影)
註
(1) 「物気色11・11展」(会期:2011年11月11日~13日、会場:遊孤草舎)、「アート町家作品展」(会期:2012年1月21日~27日、会場:万象の町家(美濃屋町町家))、比叡山アートプロジェクト「INOCHI Requiem GAIA」(会期:2012年3月7日~11日、会場:比叡山延暦寺根本中堂・中庭)、「建築と無常展」(会期:2012年4月22日~28日、会場:関西日仏学館3Fサロン)、「近藤髙弘-Unstable-展」(会期:2013年3月1日~23日、会場:GALLERY CELLAR)、「CLAY BODIES展」(会期:2013年9月19日~10月30日、会場:バリー・フリードマン・ギャラリー)、「続・物からモノへ――うつしとうつわ展」(会期:2014年3月2日~8日、会場:遊孤草舎)、「近藤髙弘-Unstable 2014-展」(会期:2014年4月4日~25日、会場:GALLERY CELLAR)、「廃墟の記憶展」(会期:2014年10月4日~22日、会場:京焼登り窯跡地(旧藤平))、「うつわ(器)と うつし(写)展」(会期:2015年1月20日~24日、会場:パリ日本文化会館)、現代京都藝苑2015「素材と知覚展」(会期:2015年3月7日~22日、会場:Impact Hub Kyoto(虚白院 内))、現代京都藝苑2015「悲とアニマ展」鎮魂茶会(会期:2015年3月11日、会場:北野天満宮茶室梅交軒)、「琳派四百年 古今展」(会期:2015年5月23日~7月12日、会場:細見美術館)、「うつわ と うつし Utsuwa et utsushi展」(会期:2015年12月3日~20日、会場:京都芸術センター)等。詳細は、近藤高弘のウェブレゾネサイト(http://www.kondo-kyoto.com/)を参照。
(2) 西田幾多郎「働くものから見るものへ」『西田幾多郎全集 第4巻』岩波書店、1965年、6頁。
(3) 和辻哲郎「風土」『和辻哲郎全集 第8巻』岩波書店、1962年、190頁。
(4) 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書、2007年、163頁。また、福岡伸一『動的平衡――生命はなぜそこに宿るのか』木楽舎 、2009年も参照。
(5) この問題については、矢代幸雄「日本彫刻に於ける立体性の欠陥」『世界に於ける日本美術の位置』講談社学術文庫、1988年も参照。
(6) 上田閑照『私とは何か』岩波新書、2000年、45‐59頁。また、山折哲雄『「坐」の文化論――日本人はなぜ坐りつづけてきたのか』講談社学術文庫、1984年も参照。
(7) 「人間が『自然』から分れても、人間としてそれに対するに今一つの態度がある。叛逆とか、征服とか言うことの代りに、『自然』の懐に還ると言うことがある。力の代りに愛で相対すると言うことがある。自分は自分でありながら、自分でないと言う心が、いつも『自分が自分が』と言う心の底から、ひょっと出て来る機会があると、叛逆児が忠誠の人となり、悪魔が慈悲の化現となるのである。『人間』が『自然』で、『自然』が『人間』である。」(鈴木大拙「文化批判」『鈴木大拙全集 第19巻』岩波書店、1969年、97‐98頁)
(8) 1973年11月17日・18日に開催された、日本文化会議の第4回東西文化比較研究セミナーにおける当該発言を参照。日本文化会議編『東西文化比較研究 自然の思想』研究社、1974年、60‐63頁。また、近藤高弘「モノと感覚価値――工芸と美術へのアプローチ」『モノ学・感覚価値研究』第1号、京都造形芸術大学/モノ学・感覚価値研究会、2007年。近藤高弘「『モノ』感覚価値――工芸と美術へのアプローチ」『モノ学の冒険』創元社、2009年。稲賀繁美「モノの気色(けしき)――物質性より立ち昇る精神の様相」『物気色』美学出版、2010年。秋丸知貴「モノ学・感覚価値研究会アート分科会活動報告2015――『現代京都藝苑2015』を中心に」『モノ学・感覚価値研究』第10号、京都大学こころの未来研究センター/モノ学・感覚価値研究会、2016年も参照。
(9) これに関連して、神や人間の主体的理性による必然性を重視するキリスト教以後の西洋哲学が積極的に扱わない「偶然性」の問題を、九鬼周造が哲学上の重要主題としていることは興味深い。「東洋の陶器の鑑賞に偶然性が重要な位置を占めていることを考えて見るのもいい。陶器の制作に当たっては、窯の中の火が作者の意図とは或度の独立性を保って制作に与かるのである。そこから形にゆがみができたり、色に味がにじみ出たりする。言わゆる窯変は芸術美自然美としての偶然性にほかならない。」(九鬼周造「偶然性の問題」『九鬼周造全集 第二巻』岩波書店、1980年、222‐223頁)
(10) 鎌田東二・近藤高弘『火・水(KAMI)――新しい死生学への挑戦』晃洋書房、2010年。
※初出 秋丸知貴「近藤高弘『生水(せいすい)』―うつろいゆくウツワ―」shadowtimesβ、2016年7月23日。