変遷する近代化のための装置
美術館という施設が日本で初めて建てられたのはいつどこかご存知だろうか?1877年、東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会である。約10万平米の敷地内に、美術館、機会館、園芸館、農業館の6つの展示館が建てられたのだ。三代歌川広重が描いた《内国勧業博覧会美術館之図》(1877)には、「美術館」の内部の壁面全体に所狭しと絵画や書が飾られている様子が描かれている。1881年の第2回内国勧業博覧会では、ジョサイア・コンドルの設計による美術館が建設された。博物館も、1872年、湯島聖堂博覧会の際につくられ、東京国立博物館は、その1872年を創立・開館の時としている。
日本は、江戸時代、鎖国政策をとったがために、産業革命後の世界の急速な工業化に遅れ、段階的に工業技術を取り入れることができなかった。それだけではなく、様々な社会制度についても、いっきに吸収する必要があった。日本における博覧会とは、社会全体の近代化を進める装置であったといえるだろう。いっぽうで、江戸時代の見世物小屋と明治時代の博覧会の連続性も見受けられる。
本書は、博覧会前史としての見世物小屋を皮切りに、1851年ロンドンで開催された第1回万国博覧会から1970年の大阪万博まで約120年にわたり、世界中の人々魅了してきた国内外で開催された「博覧会」の歴史的経緯を豊富な図版によって紹介する展覧会「博覧会の世紀」の関連書籍である。
本書に掲載されている図版の大半を占める乃村工藝社の「博覧会資料COLLECTION」は、2001年、博覧会研究家、寺下勍氏が所有する博覧会関連資料を、乃村工藝社に寄贈したことに端を発する。寺下勍は、博覧会のパビリオン展示や運営に従事し、会期が終了すると跡形もなく消える博覧会の年表をつくる目的で40年間にわたり収集していた。資料には、明治期の錦絵、一枚刷りの図版、ポスター、会誌、写真帖、パンフレット、絵葉書、入場券、記念品など約1万点に及んでいたという。
寺下勍の「私蔵することなく、世の中に役立てること」という寄贈時の唯一の条件を受け、2005年、乃村工藝社はホームぺージで、「博覧会資料COLLECTION」として公開することになった。「博覧会資料COLLECTION」に登録された1300件のうち、乃村工藝社が関わった博覧会は、1914年から200件ののぼるという。乃村工藝社は、「ランカイ屋」と言われた時代から、博覧会に関わっている生粋の博覧会業者、ディスプレイ業者だといってよいだろう。
現在では、趣旨に賛同した個人や、新たな購入分も合わせて約2万点であり、愛知万博、そして2025年の大阪・関西万博の資料の収集もすでに始まっているという。2002年からは、本書の監修・著者を担当している橋爪紳也が博覧会文化史研究会を主宰し、乃村工藝社を拠点として多くの研究がなされた。私も、この研究会に数度参加したことがあり、膨大な資料や、大正~昭和にかけて博覧会を取り仕切っていた「ランカイ屋」の過去を知る人々に話を聞く貴重な機会を得た。
日本国内で誰も見られる形で公開されている博覧会資料は少なく、貴重なデータベースになっている。そのこともあって赤瀬川原平、荒俣宏、堺屋太一などの著名人や、海外の研究者、最近では2025年大阪・関西万博の実務者が訪れたり、博物館や放送局、教科書、『ブラタモリ』などに資料が使われているという。
博覧会の歴史はすなわち日本の近代史でもある。第2回のロンドン万博は、幕末に開催されているため、当然日本は参加していない。しかし、1840年にアヘン戦争が起こり、国防のために海外事情の収集はより重要性を増したため、《別段風説書》という形で、オランダから報告書が提出され、そこにロンドン万博の詳細な情報が掲載されていた。1867年、第2回目となるパリ万博には、薩摩藩、佐賀藩、徳川幕府が並列で展示ブースを設け、明治維新に向けて国内のパワーバランスが変わっていることがわかる。その際、徳川幕府の使節団に一員として、渋沢栄一が随行したことでも知られている。
明治政府としての最初の万博の参加は、1873年のウィーン万博であり、日本の美術工芸品や庭園、神社などが設置され、ジャポニスムブームに拍車をかけていく。1876年のフィラデルフィア万博でも、日本ブームが巻き起こった。1893年のシカゴ万博では、本格的な日本館パビリオンとして、平等院鳳凰堂をモデルとし「鳳凰殿」を建設している。設計はコンドルの弟子である久留正道。美術には九鬼隆一や岡倉天心が携わり、内装装飾には東京美術学校が担当している。鳳凰殿を見た、フランク・ロイド・ライドは、大きく影響を受け、後に帝国ホテルの設計に活かしたことで知られている。
1904年のセントルイス万博では、川島織物が「若冲の間」を出展し、全30幅からなる「動物採絵」のうちの15幅が織物で織り込まれ、そのうち10幅を展示したという。現在、プライス・コレクションなどの認知もあり、若冲の再評価が進んでいるが、この時点で若冲を海外にプロモーションしているのは非常に先見性が高いといえるだろう。
このような例を挙げればきりがないが、博覧会を通して近代化や日本の海外への認知が進んだと言っても過言ではないだろう。ただし、博覧会は一過性のものなので、博覧会が終わればパビリオンは解体され、資料しか残らない。また資料も書籍や報告書のようなものでまとまっていればいいが、未整理で分散していることも多い。
特に、本書でも掲載されている1940年に開催予定だったが、日中戦争の拡大のため「延期」となった紀元二千六百年記念日本万国博覧会など「幻の万博」の資料はなおさらだろう。実は、その他にも、1938年、新潟で開催予定だった日本海大博覧会、仙台の東北振興大博覧会、甲府の全日本産業観光甲府博覧会、京都の春の京都大博覧会、松江の紙国博覧会など多くの博覧会が中止となっているという。
いっぽう戦後も、終戦間もない1948年、大阪で復興博覧会、1950年、兵庫でアメリカ博覧会、1952年、長崎で長崎復興平和博覧会など、戦後復興にとっても欠かせないメディアとなっていたようだ。その頂点が、1970年の大阪万博であることは言うまでもないが、その大成功受け、地方博ブームが続く。一応の区切りは、1996年の世界都市博覧会の中止かもしれないが、2005年には愛知万博も開催され、2025年には大阪・関西万博が予定されている。
本書では、明治以降から現在まで、博覧会ともに近代化を成し遂げてきた日本の歴史を振り返ることができる。21世紀の万博がどのようなものになるべきか?コロナ禍の中、考えるべきことは多いだろう。その指針をつくるうえでも、貴重な書籍となっている。長崎文化博物館でも巡回展示されるようなので、機会があれば是非ご覧いただきたい。