近代西洋において「Art is long」はどのように読み替えられたか?
ペーター・シュプリンガー/前川久美子著『アルス・ロンガ――美術家たちの記憶の戦略』(工作舎・2020年)
秋丸 知貴
アルス・ロンガ、ヴィタ・ブレヴィス(Ars longa, vita brevis)。
英語では「アート・イズ・ロング、ライフ・イズ・ショート(Art is long, life is short)」と訳されるこのラテン語の格言は、元は古代ギリシャの医聖ヒポクラテスの『箴言』に由来している。ここでの「アルス」は「術」の意であり、「医術の道は長いが人生は短い(ので勉励すべし)」が本来の意味である。東洋における「少年老い易く学成り難し」とほぼ同義である。
ところが、西洋では、次第に「芸術家の一生は短いが、その芸術作品は永遠である」という別の意味が派生していく。この転意の過程を、ルネサンスから現代まで幅広く様々な角度から実作品を通して追跡すると共に、その精神史的背景を探求するのが本書の狙いである。
取り上げられる芸術家はビッグ・ネーム揃いだが(マンテーニャ、レオナルド、ラファエッロ、ミケランジェロ、ティツィアーノ、ヴァザーリ、ルーベンス、プッサン、カノーヴァ、アングル、ロダン、セザンヌ、ゴッホ、ピカソ、シーレ、マレーヴィチ、デュシャン、ロスコ、ポロック、ジャスパー・ジョーンズ、ウォーホル等)、あまり知られていないエピソードが多く新たな発見がある。図版も豊富で飽きさせない。ただ、議論が多岐にわたりやや拡散していく傾向があるので少しだけ補助線を引いておこう。
西洋におけるこの格言の意味変化は、「芸術」概念の成立の並行現象である。つまり、ルネサンスから科学革命にかけて数理的精密「科学(サイエンス)」が形成される中で、「術(希:テクネー/羅:アルス)」からこれに結び付く合理的に反復可能なものが「技術(テクニック)」として抜き出され「科学技術(テクノロジー)」が成立した際に、残った合理的に反復可能でないものが「芸術(アート)」と呼ばれることになる。
また、ルネサンス期に本来異質な「絵画」「彫刻」「建築」を同質の「芸術」として統合する原理として称揚された「ディセーニョ」(デッサンやデザインの語源)の本質は、作者個人の精神的な創造の営みである。これにより、芸術は職人の卑しい手業ではなく芸術家の高尚な知的活動とされ、芸術作品はそうした芸術家の優れた人格的個性の表れとされる。さらにロマン派の時代には、芸術作品は芸術家の独創的天才性の反映と見なされる。これらにより、芸術家が死んでもなお、その芸術作品に表象される芸術家の唯一無二の魂は永遠に不滅とされる。これが、近代西洋に独特な「アルス・ロンガ」の解釈である。
実は、こうした近代西洋的芸術観の背景にはキリスト教的人間観がある。つまり、この場合の芸術作品は、神の似姿として理性を与えられた人間が、自らの構想(コンセプト)を異質で管理すべき自然に貫徹させ、日常的自然から時間的にも空間的にも自律的かつ超越的に分離させて完結させた人間理性の栄光の象徴なのである。
もちろん、自らの制作物の中に個性が反映し、それが死後も永続すること自体は、古今東西普遍的である。ただし、近代西洋では宗教的風土を背景としてこれがより先鋭的かつ先駆的な芸術観として理念形成されたと言えるだろう。
ペーター・シュプリンガーの遺稿を編集しつつ本書を共同執筆した前川久美子による、本書の成立経緯を解説したあとがきに心を動かされた。本書もまた、一人の美術史家の永遠の魂の結晶であり、二人の美術史家の不滅の友情の証である。
※初出 秋丸知貴「ペーター・シュプリンガー/前川久美子著『アルス・ロンガ――美術家たちの記憶の戦略』工作舎・2020年」『週刊読書人』2020年3月20日号。