会場風景
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「近藤高弘 消滅から再生へ」
前期:11月22日(金)-12月7日(土)
後期:12月11日(水)-12月28日(土)
開廊時間:火-土 12:00-18:00
休廊日:日・月・祝
会場:東京画廊+BTAP
(東京都中央区銀座8-10-5 第4秀和ビル7階)
関連トークイベント「工芸と現代美術の境界」
日 時: 12月21日 (土) 16:00-17:30
司 会: 山本豊津
登壇者: 近藤高弘氏、宮津大輔氏、梅津元氏
言 語: 日本語
入場料: 無料(要予約・受付終了)
場 所: 東京画廊+BTAP
2024年11月22日から12月28日にかけて、前期・後期の二期に分けて、東京銀座の東京画廊で、造形作家近藤高弘の個展「近藤高弘 消滅から再生へ」が開催されている。12月11日からは、後期の展示が始まっている。前期のテーマが「消滅」だったのに対し、後期のテーマは「再生」である。
本展の見どころの一つは、一体何が「再生」するのかである。
それにしても、会場に入ると一瞬わが目を疑う。というのも、床一面に見事な白磁の大壺が数多く並べられているからだ。「ここは、日本で最初に現代美術を扱った画廊で、現在も日本のコンテンポラリー・アートシーンの中枢である東京画廊ではないのだろうか……。」「一体、いつから東京画廊は工芸品の展示場になったのだろうか……。」もちろん、そう思わせておきながらそうではないのが本展の狙いである。
それでは、一体何が「再生」するのであろうか。
近藤高弘《白磁大壺》2024年
そもそも、大自然は地水風火の働きを通じて「消滅」と「再生」を繰り返している。例えば、火山のマグマが冷えて固まると岩になる。岩は、風雨にさらされると石になる。石は、さらに風雨にさらされると土になる。土は、さらに風雨にさらされると砂になる。その砂は、再び火山によりマグマと化す。マクロな目で見れば、大地はその変転の繰り返しである。
陶芸という人間の営みはこの縮図である、と近藤は語る。陶土を轆轤(ろくろ)で挽くことを、陶芸家は「水挽き」ともいう。陶土を柔らかくするためには、水が必要だからである。水で柔らかくなった陶土を、陶芸家は轆轤で回して器に成形する。そして、窯の中で風を入れながら火で焼成する。
そうして完成した器は、遅かれ早かれいずれ割れて壊れる。やがて崩れて破片となり砂塵となった器は、一見消滅したように見える。しかし、いつの日か改めて陶土として再生するかもしれない。その意味で、陶芸という人間の営みは、大自然の営みの縮図なのである。
大自然の営みも、人間の営みも、悠久の循環の中にある。2020年以来、誰もが新型コロナ禍という身近な生命の危機を経験した今だからこそ、2018年に同じく東京画廊で開催された二人展「一柳慧・近藤高弘 消滅」のようにただ消滅で終わるだけではなく、改めて再生が希求されていることは間違いないだろう。
しかし、それだけではこれはまだ美術ではなく工芸の問題ではないかと思われるかもしれない。もちろん、本展が工芸の展示会ではなく美術の展覧会であることには、さらに何重にももっと深い仕掛けがある。
近藤高弘《白磁大壺》2024年
まず、会場には大破した白磁大壺が一つだけ展示されている。割れて用をなさなくなった器が、現代美術の文脈では一つのオブジェとして美術作品と化すことは既に前編で述べた通りである。つまり、どれだけ工芸品として見事な白磁大壺が数多く並べられようとも、この一点が担保している限り、本展はいわゆる工芸展示会とはみなせずあくまでも美術展覧会としての意味合いを持っている。
近藤高弘《白磁大壺》2024年
また、会場壁面には白磁大壺が撮影された写真も展示されている。この写真は、最初期の写真技法の一つであるいわゆるカロタイプによるもので、白磁大壺の外観をカメラ・オブスキュラを用いて硝酸銀を塗った印画紙に太陽光で焼き付けたものである。
焼き締めた白磁大壺はいずれ壊れて失われてしまっても、焼き付けられた印画紙の写像は往時の姿を映し続けているだろう。あるいは、焼き付けられた印画紙の写像はやがて紫外線に晒されて消えてしまっても、焼き締めた白磁大壺は現実に存在し続けているだろう。そして、カロタイプは世界初のネガポジ方式による複製可能な写真技法であり、この印画紙自体もオリジナルの消滅とコピーの再生を含意している。
つまり、ここには火あるいは光を通じた「消滅と再生」の多層的なダブルイメージがある。その点で、この白磁大壺と写真の組み合わせは一種の思索的なコンセプチュアル・アートである。従って、やはり本展はいわゆる工芸展示会とはみなせずあくまでも美術展覧会としての意味合いを有している。
◇ ◇ ◇
これらのことから分かるように、美術と工芸を分かつのはコンセプトの有無である。その背景には、ルネサンス期に人間の理知的働きを示す「ディセーニョ」という概念を通じて全造形作品の中から絵画・彫刻・建築を抜き出して上位の「美術(ファイン・アート)」と位置付け、それ以外を下位の「工芸(プラクティカル・アート)」と定位してきた近代西洋の芸術観における階層構造(ヒエラルキー)がある。
このコンセプトの有無の問題に、西洋と日本の境界面で長年切り結んできた造形作家の一人が正に近藤である。近藤は、2002年に文化庁派遣芸術家在外研修員として英国エジンバラ・カレッジ・オブ・アートの修士課程に留学した際に、西洋と日本の芸術観の相違に直面する。その時の経験を、近藤は「『モノ』感覚価値――工芸と美術へのアプローチ」(2009年)で次のように述べている。
例えば私が、エジンバラの大学院に一年間在籍した時に、学生たちの制作方法を観察していて、違いを感じたことがある。私が陶器の勉強を始めたときは、「土を知れ」ということをよく言われた。この素材は、どういう性質なのか、何度で焼いてやればいいのか、この土は、どういう特徴を持っているのか。まさに、モノ感覚価値として、土と対話する、素材の方に歩み寄っていこうと努めることが重要であると悟ることが必要であった。そしてその上に自分のテクニックを磨いて、プロセスを積み上げていくことが、陶芸の勉強の根本だと考えていた。ところがエジンバラ・カレッジ・オブ・アートの陶芸科の学生たちは、土は単なる土でしかないといった感じで土を扱っているように見えた。この土が赤い土か白い土か、荒いか細かいかくらいの違いを区別していた程度で、この土は何度で焼いてやればベストか、どういう収縮をするのか、土の特質をどう生かしていくのかというような部分をあまり考慮に入れることなく、ただ自分の表現したいコンセプトをカタチに置き換えてゆく表現手段である、ということが、彼らの土に対する制作態度であるように感じた(1)。
続けて、近藤は次のように語っている。
また、私がよく教授に聞かれたのは“intentional”かどうかだ。intentionalというのは、「故意」にとか、自分が「意図」しているかという問題である。もちろん作家であるから自分の表現したい方向性はあるし、その目的に向かって制作は進む。しかし、どうしても陶芸は土の変化や乾燥・焼成ということで、偶然性や意図できない部分が関与してくる。そのノイズを了解した上で制作が進行し作品化される。いわば、偶然やノイズ・味という感覚をプラスに引き寄せ、モノをどうまとめるか、生かすかが、陶芸の特徴でもある。そこで、intentional=故意かどうかをはっきりさせるための説明には非常に苦労した覚えがある(2)。
陶芸は、日本では素材である土の性質を知ることが重視されるが、西洋では作者のコンセプトが何よりも重要であり素材である土の性質はほとんど考慮されない。また、日本では人為を尽くした上で乾燥・焼成といった自然の偶然の働きに任せるところがあるが、西洋ではそれはあくまでも作者の明確な意図なのかどうかを厳しく追及される。つまり、西洋の陶芸はどこまでも主体的であることを目指すが、日本の陶芸は主体的に没主体を目指すという違いがある。この差異には、人間が自然を管理・支配するのを理想とする西洋の伝統的な自然観と、人間が自然に回帰・一体化するのを理想とする日本の伝統的な自然観の差異が反映している。
この延長上で、2012年から近藤は、満を持して敢えて工芸品としか見えない白磁大壺の連作にファイン・アーティストとして取り組むようになる。それらの白磁大壺の直径は平均50センチであるが、それは轆轤を挽いて陶土で大壺を成形する際に、近藤が全身で抱え込んでコントロールできる大きさの制約により自ずから決まってきたものである。さらに、そのコントロールも、回転運動の中で身体全体で大壺と触れ合う過程でしばしば主体と客体が入れ替わり、自分が主体なのか素材が主体なのか分からなくなる時があるという。これは正に、主客合一・主客融合的な体験であり、文字通り人間と自然の協働作業である。
その点で、これらの白磁大壺は、一見工芸品であるように見せかけて、実は日本の伝統的な工芸的感受性を近代西洋の美術の文脈で表現するという一種の考え抜かれたコンセプチュアル・アートである。要するに、あくまでも近藤は、意図的に日本の伝統的な工芸的感受性やその根底にある自然観をコンセプトとして提示する理知的なファイン・アーティストなのである。
上記のことから、本展で「再生」しているものは、忘れがちな大自然の永久循環への畏敬であり、産業社会で衰退している身体性であり、近代西洋美術から取りこぼされた日本の伝統的な工芸的感受性であり、近代西洋の自然支配型と補い合う日本の伝統的な自然共生型の自然観であると指摘できるだろう。その点で、相次ぐ震災や新型コロナ禍を経て、今なお世界的な戦争や環境問題の渦中にある2024年において、一見地味で控え目な本展は極めてアクチュアルでヴィヴィッドな問題意識を孕んだ美術展覧会だと指摘できる。
なお、東京画廊の山本豊津代表は、西洋が依然としてグローバル・スタンダードを強固に占め続ける一方で、中国が強力に台頭してくる現在の国際的なアートシーンにおいて、日本が確かなプレゼンスを発揮するためには自らの文化が長年培ってきた持ち味を生かすべきであり、日本の伝統的な自然観こそはその一つであると常々語っている。その意味で、本展はギャラリストとアーティストによる理想的なコラボレーションの一つであり、今後もこの本質的で意義深い取り組みの展開から目を離すことはできない。
註
(1)近藤高弘「『モノ』感覚価値――工芸と美術へのアプローチ」、鎌田東二編著『モノ学の冒険』創元社、2009年、284頁。
(2)同上、284‐285頁。
近藤高弘公式ウェブサイト
http://www.kondo-kyoto.com/
【関連論考】
展評「近藤高弘 消滅から再生へ(前編)」東京画廊 秋丸知貴評
展評「近藤高弘 消滅から再生へ(後編)」東京画廊 秋丸知貴評