ハイビジョンの描写と発光する画面。写実と装飾を統合した
「没後50年 福田平八郎」
会期:2024年3月9日 ~5月6日
会場:大阪中之島美術館
大阪中之島美術館で開催されている「モネ 連作の情景」展は、予想通り来場者数20万人を超え、同館で開催された展覧会の中でもっとも動員数を誇ることになりそうだ。おそらくしばらくはその記録は抜かれないだろう。印象派という美術館の最強のコンテンツの上、その中でも最も人気が高いモネだけの展覧会だから予想通りの結果といってもいいかもしれない。
モネがチューブ入り絵具の発明もあって、戸外で描くことを重視し、それは実は自然光によって蛍光発光する顔料を使うことで画面を発光させる効果を取り入れていたからではないかと前回書いた。もちろん、モネはアトリエにおいても記憶をたどりつつかなり手直しをしているので、単なる戸外において早く描くことを重視したわけではないだろう。しかし、自然光による発光の効果は明確に意図していたように思える。
そのような蛍光発光する顔料を用いて、画面を発光させる表現は、モネ以外の印象派の画家には見られないことなので、その技法は継承されなかったと思う。しかし、時を経て藤田嗣治(レオナール・フジタ)は、赤・緑・青という3種類の蛍光発光する白い顔料を用いて肌の質感を再現していると、筆者らの研究では推測している。
しかし、よく考えて見れば日本の絵画は、暗い家屋の中で見るため、弱い光を補う金箔や銀箔、あるいは反射する鉱物系の顔料が多用されており、自然光も床の間のサイド光や畳をバウンドさせる形で当てられていた。その意味では、フジタは、青く蛍光発光する胡粉を使用していたかもしれないことも含めて、モネや印象派の影響というよりも、日本の技法をうまく活かしたといえる。その証拠に東京美術学校のフジタの師であり、日本に印象的表現を輸入した黒田清輝は、蛍光発光する顔料を意図的に使った痕跡は全く見られなかった。
前置きはずいぶん長くなったが、モネ展と同時開催されている福田平八郎展は、むしろ画面を発光させる効果を、かなり意図的に使用していた画家なのではないかという印象をもった。
日本絵画の展覧会というと、支持体や媒体、顔料が傷みやすいということもあって、だいたい薄暗い照明のなかに飾られていることが多い。しかし、本来ならば、反射する箔や顔料、自然光によって補完されて、自然や家屋との関係の中で見るものであり、美術館で見る体験は条件的にはかなり限定されたものだといってよい。にもかかわらず、展覧会全体が、まるで家電のテレビコーナーに迷い込んだような、高精細のモニターが並んでいるように感じた。それにはいくつかの理由があるだろう。
福田は、写生を重視し、多くのスケッチを残した。大分出身の福田は京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校で学んでおり、四条円山派以来の伝統である写生を重視している。写実的な絵画であることは間違ないが、円山応挙がもともと眼鏡絵を描いており、一点透視図法的な写生を描いたように、その写生は非常に正確で、かつカメラ的なものが感じられる。福田が写真を写したということではないが、この時代すでに写真的な描写は内面化されていたのではないだろか。
そして、構図の上手さである。映像的なフレーミングに見えるのだ。美しい風景を撮影する番組があって、いくつかのカットが流れていく、その1シーンを見たという感覚である。おそらく福田は写生をする際、対象だけではなく、シーンとして把握したいのではないかと思われる。静止画ではあるが、描かれていない前後の映像が感じられるのだ。実際、そこには絵画になっていない無数のスケッチが隠れていることだろう。
陰影はなく、平面的に描かれているように見えるし、背景は箔などで覆われている場合も多いが、それがまるで4Kや8Kといった大画面高精細のテレビで、被写体にフォーカスがあたり、背景はアウトフォーカスでボケている、つまり単色が発光している映像のようにも見える。《朝顔》(1926)などはその典型的な例だろう。そして、当然意識しているとは思うが、鈴木其一の《朝顔図屏風》ほど抽象化されているわけではない。《朝顔》もこのまま見ていると、上に映像がチルトしたり、横にパンしたりするのではないかと想像してしまう。《菊》(1928)や《朝顔》(1926年頃)も同じように思える。
しかし、この時期をピークに写実性から、琳派風の装飾的な表現に移行する。かといって、その構図の巧みさがなくなったわけではない。その代表作といえるものが、展覧会のポスターにもなっている《漣》(1932)だろう。波の模様を抽象化、還元化し、地と太い青の線だけで表現している。《漣》に構図が近いバージョンが展示されていたが、その元となるスケッチには、四角く紙でフレーミングされていて、それを拡大したことがわかる。まさに、映像におけるクローズアップ的手法である。
忘れてはならないのは、プラチナ箔の上に群青で描かれており、おそらく光の反射の効果によって、実際の漣のように見せていたことだろう。すでにプラチナ箔のきらめきが褪せているのが惜しい。それは蛍光発光で画面を輝かせていたモネに通じるものだろう。モネが、睡蓮を描いていくうちに抽象画化していったように、新発見された《水》(1935年頃)では、緑と青の波紋で表されたその絵は、ほとんど抽象画のようである。
40年代に描かれた竹でも、フレーミングの妙は生きているが、個々の竹の配色の違いを見分け、強調するようなエフェクトがかけられている。これも写生を突き詰めた結果、抽象化に至った例だろう。
戦後になって、写生、画面の発光、形態の還元化、映像的フレーミングの技術は統合され、ある種の到達点に達している。例えば《新雪》(1948)では、新雪でまだ雪の結晶が見えるような状況を表現するために、明るい紫色の下地に胡粉を置いて、刷毛で叩くという作業を繰りかえして描かれているとのことだが、胡粉は青く蛍光発光するため、自然光で見たら、《新雪》は青みがかっているように見えるだろう。そして、雪もまた青く見えるのである。理由は、雪は本来色がついておらず、雪の結晶が、長い波長の赤を吸収し、短い波長の青を反射しているからである。つまり、福田は雪の現象を正確に表現していることになる。
それは《雲》(1950)にもいえる。太陽光は大気中の微粒子にあたり、四方八方に散乱する。光の波長よりも小さい窒素や、酸素の分子に当たって散乱が起きることをレイリー散乱という。その際、赤のような長い波長よりも、波長が短い青や藍の方が散乱が強く、あらゆる方向からわたしたちの目に飛び込みことで、空は青く見える。いっぽう雲は、雲の粒子は可視光と同程度のサイズであり、すべての色が同じ強さで散乱する。それをミー散乱という。さらに、雲粒子は高密度のため散乱を繰り返す多重散乱になり、すべての波長が等しくなることで白くなるのだ。《雲》はそのような大気の科学的な現象を正確に捉えているといえる。雲はプルシアンブルー、つまり北斎が使用したというベロ藍が使われている可能性が指摘されている。最初の合成顔料といえる、プルシアンブルーの発色の良さと深みで空を表現したのだろう。
写生と画材、画法を突き詰めて、自然の現象や人間の見えを再現するという点において、モネやフジタに通じるものがある。そして、写実性と抽象性・装飾性を高い次元で統合している。それは、近代化した日本画のある種の到達点といってもいいかもしれない。写真を使ってはいないが、ゲルハルト・リヒターにも通じる何かだろう。
いっぽうで極東で完成したこのモダニズムの絵画が、捨象したものである。それは、文人画のような文字や意味との関係であり、触覚的感覚だろう。それは高精度のモニターではあるが、何か画面越しに見ている感覚はぬぐえない。その点は、フジタがカンヴァスを「皮膚化」したこととは異なる。目と光の表現であったといってよいだろう。同時にそれはデザインとしての可能性を秘めたものだ。近年、「日本画」を再起動する動きが活発だが、どこに向かうにしても、福田はその極点としての役割を果たすだろう。