ヴィデオを媒介として時間と空間を彫刻し、人々を結び付けた開拓者
「Viva Video! 久保田成子展」
2021年6月2日(火)– 2021年9月23日(木・祝)
国立国際美術館 B3階展示室
久保田成子のことをご存知だろうか?草間彌生やオノ・ヨーコと比較しても、遜色ないキャリアを持つが、日本においては長らく忘れられていた存在だったかもしれない。日本において久保田の大規模な展覧会が開催されるのは、1991年以来、実に30年ぶりであるという。一般的には、ヴィデオアートの創始者、ナム・ジュン・パイクのパートナーであり、現代アートの父とも称されるマルセル・デュシャンをテーマにしたヴィデオ彫刻をつくったアーティストとして知られている。ドクメンタなどの著名な国際展への出展を経て、一人のアーティストとして回顧的に評価された90年代に、日本でも展覧会が開催される。しかし、1996年にパイクが脳梗塞で倒れて、2006年に亡くなるまで献身的に介護したため、その評価と活躍の機会の多くを失っている。その後は、パイクと過ごした人生を振り返る作品などを制作するが、自身も闘病を余儀なくされ、2015年に没した。
本展は、パイク、デュシャンという大きな光の影となっていた久保田を、一個人のアーティストとして光を当て、その足跡と可能性を引き出そうという試みである。そのため、久保田が渡米する前の日本での活動から、渡米後の多岐にわたる活動、パイクが病に倒れてからの、私的なやりとりを含めて、久保田の人生を丁寧にたどるように構成されていた。
1章「新潟から東京へ」、2章「渡米とフルクサスへの参加、パフォーマンスに身を投じて」、3章「ヴィデオとの出会い、女性たちの協働、キュレーターとして」、4章「ヴィデオ彫刻の誕生」、5章「ヴィデオの拡張」、6章「芸術と人生」という、6章構成からなり、150点近くの映像、ヴィデオ彫刻、ドローイングなど様々なメディアの作品が集められた、まさに回顧展にふさわしいボリュームとなっている。久保田の生まれ故郷である新潟にある新潟県立近代美術館、国立国際美術館、東京都現代美術館の合同で企画され、巡回展示される予定だ。本展は、近年の白人男性中心であった現代アートの歴史を見直す潮流に位置付けられることは間違いないが、それだけに納まるものではない。
久保田が興味深いのは、常に先端のメディアを使い、パイオニアとして牽引していることだ。大きく言えば、60年代から80年代にかけて、パフォーマンス、ヴィデオ、ヴィデオ彫刻と変遷しているが、常に最新の表現方法に取り組んでいる。今回はそれ以前の高校、大学、美術教員時代の表現も紹介されており、さらに一貫した姿勢が見えてくる。高校時代はコントラストの強い迫力のある向日葵の静物画で二科会に入選、東京教育大学(現・筑波大学)時代は女性で彫刻の大家がいないということで彫刻を試み、卒業後の内科画廊での個展では、今日でいうインスタレーション作品を制作している。絵画、彫刻、インスタレーションと表現方法を変えても、その卓抜した造形センスが遺憾なく発揮されている。ヴィデオやヴィデオ彫刻といった先端メディアに変えても、構想のスケッチやドローイングから造形センスが維持されていることがわかる。
それらは、実験工房出身の山口勝弘らが牽引し、大阪万博で大々的に展開されたインターメディアやE.A.T.のような科学者とアーティストによる実験のような、万博的で大仰な「マルチメディア」志向ではなく、私的で、詩的なパーソナルメディアとして使用しているのを見逃してはならない。それは放送を利用したマスメディアでもない。ヴィデオを撮影して、放送網を介さず、直接つないでブラウン管で流し、見る方法である。それがフィルムの映画と異なるのは、現像という工程を経ず、電子的なエフェクトに至るまで、個人で完結できるところだろう。ある意味で、「オフライン」のメディアであり、身体を介して体験するところに特徴がある。そこに久保田の繊細な感性が込められている。
詩的、文学的センスは、手紙などにも現れている。内科画廊での最初の個展では、瀧口修造、中原祐介、東野芳明らにラブレターの形式で、招待状を送っている。しかし、久保田の個展は誰からも展評がされることはなく、日本で女性アーティストが認められることはできないと感じ、交流のあったフルクサスのリーダー、ジョージ・マチューナスと連絡を取り、渡米を決意する。現代美術においていかに評論家による展評が重要であったか(あるか)示唆されるエピソードである(ちなみに、パイクは好意的に評価したという)。マチューナスに対しても、渡米するにあたって揺れ動く心情を赤裸々に吐露する手紙を英文で送っている。
渡米してから、パフォーマンスやハプニングを行っていたフルクサスに加入し、自身でもパフォーマンスを行う。《ヴァギナ・ペイティング》(1965)は中でももっとも著名で、ヴァギナに筆を入れて、ドローイングを行うもので、証言と記録写真で知られている。マチューナスやパイクに依頼されたことであると後に述懐しているが、真意は明らかではないという。60年代後半になると、フルクサスのメンバーの多くがNYを離れるが、久保田はマチューナスを手伝い続け、「フルクサスの副議長」と言われたという。久保田は「最大のハプニング」と称した渡米を援助したマチューナスや自身の個展を評価したパイクなど、自身を受け止めてくれた人に対して生涯恩義を忘れない、という律儀さが表れているといえるだろう。ジョナス・メカスは、「久保田成子を事実上日本からニューヨークに呼んだジョージ・マチューナスを彼女がどれほど支援したことか、言葉では到底言い表せないほどありがたいものだった」(p.85)[i]と述べている。
70年代になり、パイクと交流し、ヴィデオを表現手段として使うようになる。この時から始められた《ブロークン・ダイアリー》のシリーズは、映画のような起承転結があるわけではなく、始まりも終わりもないという形だが、それも詩的な印象を受ける。
そのような、ヴィデオの持つ一つの時間軸に沿わなければならない「物語的なもの」に対する違和感は、内容だけではなく、フォームにも向けられる。そこで、ブラウン管で流し、鑑賞者と対峙させ、役割を固定化する形式から、ブラウン管を分散的に使い、オブジェとブラウン管、流されるヴィデオを不可分な形にして、提示したのが「ヴィデオ彫刻」である。
最初は、デュシャンとジョン・ケージとのチェスのパフォーマンスを記録したことをきっかけに、その後亡くなったデュシャンのお墓に参り、「デュシャンピアナ」と言われる一連のヴィデオ彫刻を生み出す。本展では、デュシャンの《階段を降りる裸体 No.2》(1912)を、木製の階段と4台のカラーテレビに映るヌードの女性の映像に転換した、《デュシャンピアナ:階段を降りる裸体》(1975-76)をはじめとした代表作が勢ぞろいしていた。ヴィデオ彫刻は、3次元の彫刻に時間の次元を足した、4次元彫刻と言ってもいいかもしれないが、複数のモニターやモーターなどによる動きが加味され、より複雑な次元が統合されている。
その後、デュシャンというモチーフから離れ、新しい表現を開拓していく。《ナイアガラの滝》(1985/2001)や《River》(1979-81)代表される、《デュシャンピアナ:階段を降りる裸体》のような短期間の動きから、季節の変遷のように時間軸を大幅に拡張し、さらに、水のような自然の素材と鏡やモーターなどの人工の素材を使い、光を介して人工と自然を融合させている。また、《ヴィデオ俳句―ぶら下がり作品》(1981)のように、観客の映像も取り込んで、一つの環境をつくる志向は、インタラクティブやリレーショナルと言われる時代に先駆けている。ここで俳句という日本の詩の形式を参照しているのも忘れてはならない。
その世界的な活躍と足跡が評価されている最中、パートナーのパイクが脳梗塞で倒れ、その介護に追われるようになる。久保田の献身的な介護は2006年に亡くなるまで、10年にわたる。本展では、パイクのリハビリの中で、若い看護師の看護を、エロティックでユーモラスな映像に仕立てた《セクシャル・ヒーリング》(1998)が展示されていた。90年代後半以降のインターネット、デジタル革命を経ていたら、久保田の作品はどう展開していたのか。興味は尽きない。
最後に展示されていた、久保田と親交のあった吉原悠博の映像コラージュ《River:ある前衛芸術家の形見》(2021)が印象的であった。久保田とパイクが住んだスタジオを中心に、ジョナス・メカス、阿部修也、北川フラムら久保田と交流した映像が流されていく。久保田の人生が人々の証言によって万華鏡のようにフラッシュバックする。久保田とパイクのアシスタントを務めたポール・ギャリンは、「久保田の作品はすべて彼女の日記である」と指摘しているが、まさに、断片的な日記を集めたような、メディア・コラージュが久保田のアートであるといってよい。
久保田の作品を魅力的にしているのは、既成のルールに抵抗し、解体しようとする「ブロークン」な要素と、断片つなぎあわせ融合するという、一見相反する要素が、一体となっていることだろう。久保田の人生に照らし合わせすると、男性中心的な封建社会に抵抗する強さと、繊細な感性や愛情深く献身的な優しさなど、対極的な性格となって現れる。それらは両方、強い愛情や情熱に裏打ちされたものだろう。それは周囲の人々にも向けられていた。
久保田の友人であり、ヴィデオ・アーティストのメアリー・ルシエは、「彼女には2つの顔があり、私は強く心を惹かれつつも、戸惑ってしまうことがあった。一方で成子は伝統的な日本女性だった―いつでも歓迎してくれ、陽気で、客が来ると喜んで素晴らしい寿司や天ぷらをふるまってくれた。他方で彼女は急進的なフェミニストであり、日本で女性アーティストとして自分が置かれている立場に不満を持っていて、少しでも不当な扱いをうけたと感じるとたちまち腹を立てた。~中略~私は成子の両極端ぶりに恐れをなしていたが、同時に心のどこかで、激しやすく、アートにおいては野心的、何が何でも成功をつかもうと固く決意しているこの人物に深い親近感を覚えた」(p.44)[ii]と述べている。
久保田の反骨精神とホスピタリティを併せ持つ両極的な性格と、強い意志は、媒介者としての顔にもつながっているだろう。久保田の追悼会で「アーティストとして、キュレーターとして、そして友だちとして成子が重要な役割を演じたことを口々に証言した」(p.142)[iii]とキュレーターのバーバラ・ロンドンは回顧している。デュシャンとケージを記録した本を作り、パイクやマチューナスを公私にわたって支援し、フルクサスにハイレッド・センターを紹介し、アンソロジー・フィルム・アーカイヴスのヴィデオ部門のキュレーターとなって多くのアーティストを結び付け、『美術手帖』に積極的にNYの動向を紹介するなど、久保田自身が一つのメディアであったといえるだろう。それだけにその喪失の影響も計り知れない。それはカタログに収録されている久保田を惜しむ関係者の声からも推し量ることができる。そして、バーバラ・ロンドンは「ヴィデオを周縁から本格的なアートの地位へと押し上げることに貢献した久保田成子の功績はもっと認められていい」(p.142)[iv]と締めくくっている。
久保田の電子と物質、人工と自然、時間と空間を融合させる作品群は、デジタル化が進んだ現在においても刺激的であるし、人間としての久保田が与えた影響もそれに勝るとも劣らないほど大きいと感じさせる展覧会だった。
ちなみに、本展キュレーターの橋本梓氏の展覧会解説動画が、YouTubeで公開されている。左のプレゼンテーション画面と右の肖像画面を同期させる手法は、近年のパワーポイントを使ったレクチャーに慣れている我々にもわかりやすい。これは、美術家・映像作家である山城大督によって編集されており、山城が以前発表した、プレゼンテーション画面と等身大のレクチャラーの投影映像を同期させた《VIDEO LECTURES 》のシステムを応用し、同一画面で展開したものだ。ヴィデオ・インスタレーションを継承する山城が久保田の展覧会に協力していることも興味深い。是非ご覧いただきたい。
[i] 『Viva Video!久保田成子』河出書房新社、2021年、p.85
[ii] 同上、p.44
[iii] 同上、p.142
[iv] 同上、p.142