美術から見た変動する国際情勢における日本の文化的アイデンティティの行方
北澤憲昭・古田亮編『日本画の所在――東アジアの視点から』(勉誠出版・2020年)
秋丸 知貴
「日本画」は、覇権国家として進出してきた西洋に対応するために明治以後に新たに「創られた伝統」(ホブズボーム)である。つまり、油彩画を頂点とする西洋の絵画体系に沿うものを「(西)洋画」とした時に、その対概念として従来の絵画的伝統を新たに再編したのが「日本画」である。そもそも「絵画」も西洋絵画への対応から生まれた新概念であり、絵画を最上位に置く「美術」も、西洋美術を規範とする翻訳概念であった。こうした制度論的な再考で自明視されていた「美術」の諸概念を相対化したのが、編者の北澤憲昭の名著『眼の神殿』(1989年)以後の近代日本美術史研究の成果である。
ところが、20世紀後半から本場の西洋では油彩画を必ずしも至上としない現代美術が隆盛し、さらに昨今では中国が新たな覇権国家として台頭してくる。こうした状況で、新たに「日本画」の意味を問い直す2018年のシンポジウムの内容をまとめたのが本書である。
序論で北澤は、文化人類学の「クレオール(植民地的文化複合)」概念を援用し、伝統的にクレオール性を持つ日本の絵画は中国文化圏から西洋文化圏へ移行したという歴史観から、現状を再び「東アジア」という観点から捉え直すことを提唱する。それを受けて、もう一人の編者である古田亮は、西洋的クレオールとしての近代日本画が成立する過程を江戸・明治・戦前と辿り様式分析する。そうした近代日本画の意義について、チェルシー・フォックスウェルは西洋人からの視点を提示する。
続けて、佐藤道信は明治以後の日本・韓国・中国・台湾のそれぞれの自国画の様相を概観し、板倉聖哲は明治以前の中国的クレオールとしての日本画の諸相を解説する。また、明治以前の日本画から西洋的クレオールとしての近代日本画へ移行する様態を、塩谷純は「書画」から「美術」への転換における「描く」から「塗る」への推移として論じ、天野一夫は東洋的主題の「新按」や東洋化された西洋的光表現としての朦朧体の問題として論述している。これらの議論を、岡村桂三郎は実作者の立場から逆照射している。
さらに、荒井経は戦前から戦後にかけての日本・韓国・中国・台湾のそれぞれの自国画の現状を概説し、齋藤典彦は近代日本画を主導する東京藝術大学の教育制度について、間島秀徳は近代日本画の今日的な教育と創作の現場について報告している。その一方で、三瀬夏之介は近代日本画に内在する多元的実体性を「東北画」の問題として提出し、野地耕一郎は戦後の近代日本画においても中国文化圏の伝統が息づいていることを呈示し、峯村敏明は日本の現代美術にも日本の絵画的伝統が反映していることを指摘している。さらに胡明哲は、水墨以前の岩彩を公分母とするもう一つの絵画における中国文化圏の可能性を示唆している。
本書の議論は以上に尽きるものではなく、より適切な見通しは巻末の加藤弘子の概要に譲りたい。いずれにしても、本書が現時点における近代日本美術研究の最前線の一つであることは確かである。
本書は、「東アジア」という枠組みを提出する時には政治的含意に無頓着であってはならないことを再三自戒している。その上で、美意識の通底性は、改めて民族や文化や国家を超えた融和と協調の可能性も垣間見させてくれる。これは、今後の実制作の大きな課題の一つでもある。
「日本画」は、紛れもなく日本の文化の典型的象徴である。その意味で、「日本画」の所在を問う試みは、今後の日本の国際社会におけるアイデンティティを見定める営為であるとも言えるだろう。
※初出 秋丸知貴「北澤憲昭・古田亮編『日本画の所在――東アジアの視点から』勉誠出版・2020年」『週刊読書人』2020年7月10日号。