セザンヌが隠棲した故郷は鉄道の街だった!
(本稿は、amazonで公刊中の次の拙稿の日本語訳である。Tomoki Akimaru, Cézanne and the Railway (2): Cézanne and the Railway (3): His Railway Subjects in Aix-en-Provence, KDP, 2019)
セザンヌと蒸気鉄道(3)――エクス・アン・プロヴァンスの鉄道画題
秋丸 知貴
図25 ポール・セザンヌ《ジャ・ド・ブッファンの家と納屋》1887年
セザンヌが1866年に描いた《ボニエールの船着場》(図15)は、当時における「近代性(モデルニテ)」の象徴である蒸気鉄道を画題化したものであった。それでは、その後セザンヌは、蒸気鉄道やそれに関する画題を一体どのように描いたのであろうか?
これまで一般に、セザンヌは熱心な自然愛好の画家なので、急速に近代化するパリの喧騒を逃れて、田舎の故郷エクス・アン・プロヴァンスの無垢な大自然に隠棲したと語られてきた。しかし、この言説(ディスクール)は、半分だけ正しいが、セザンヌのもう半分の本質を捉え損なっている。
現に、セザンヌはその人生において、蒸気鉄道でエクスとパリを20回以上転住している。また、1896年1月20日付のカミーユ・ピサロの息子リュシアン宛の手紙から、セザンヌがパリ=エクス路線の汽車や電報を利用しており、既に蒸気鉄道のみならず電信もセザンヌの日常生活の一部であったことが分かる。
「あの全く南仏的な開放性で大いに親愛の情を示されたので、オレルはすっかり真に受けて、エクス・アン・プロヴァンスへ親友セザンヌについて行っても良いのだと思った。翌日のパリ=リヨン=地中海鉄道の汽車(train de P. L. M.)で、待ち合わせることになった。『三等車で』と、親友セザンヌは言った。さて翌日、オレルはプラットフォームで目を見開いて四方を見回す。セザンヌはいない! 汽車(Les trains)が動き出す。いない!!! オレルは、とうとう『僕がもう乗ったと思ってセザンヌも乗ったのだ』と自分に言い聞かせ、意を決して乗車する。リヨンに着くと、オレルはホテルで財布の中の500フランを盗まれてしまう。引き返すこともできないので、念のためオレルはセザンヌの家に電報を打つ。セザンヌは、(エクスの)自宅にいた。彼は、一等車に乗ったのだ……![i]」
図26 エクス・アン・プロヴァンスの周辺地図
あまり知られていないが、実はセザンヌの生涯の拠点であるエクス・アン・プロヴァンスは蒸気鉄道の街である(図26)。
事実、エクス中心街にある鉄道駅(図27・図28)は三方向の鉄道路線を連結している。編年的には、1856年10月10日にエクス=ロニャック鉄道路線(25km)(図29・図30)が、1870年1月31日にエクス=メイラルギュ鉄道路線(26km)が、1877年10月15日にエクス=マルセイユ鉄道路線(34km)が、それぞれPLM鉄道会社により開通している[ii]。
図27 エクス・アン・プロヴァンス駅(2006年8月26日筆者撮影)
図28 エクスプロヴァンス駅の鉄道列車(2006年8月26日筆者撮影)
図29 エクス=ロニャック鉄道路線越しのサント・ヴィクトワール山(2006年8月24日筆者撮影)
図30 エクス=ロニャック鉄道路線越しのサント・ヴィクトワール山(2006年8月24日筆者撮影)https://www.youtube.com/watch?v=bAgcIbCuH3U
ここで注目すべきは、エクスにおけるセザンヌの自邸ジャ・ド・ブッファンが、鉄道路線と非常に隣接しており、ちょうどロニャック行路線とメイラルギュ行路線に挟まれた位置にある事実である。そうである以上、セザンヌが約40年間アトリエを構えたこの自邸で過ごす時、近隣を爆走する蒸気機関車を常に身近に意識していたことは確かである(図25)。
実際に、ジャ・ド・ブッファンの門を出て右手を眺めれば、道路の上に架かるエクス=メイラルギュ路線の鉄道橋越しにサント・ヴィクトワール山が見える(図31‐図33)。そうであれば、セザンヌはサント・ヴィクトワール山を背景としてこの鉄道橋を通過する鉄道列車を頻繁に目にしていたはずである。
図31
図32
図33
図31‐図33 ジャ・ド・ブッファンの門前から眺めたエクス=メイラルギュ路線の鉄道橋とサント・ヴィクトワール山(2006年8月23日筆者撮影)
さらに注目すべきは、セザンヌがエクスで蒸気鉄道を数多く画題化している事実である。
まず、セザンヌは、自邸ジャ・ド・ブッファンの庭から壁越しに眺めた、約100メートル先のエクス=ロニャック路線の切通し(図34)を、油彩の《サント・ヴィクトワール山と切通し》(1870年頃)(図35)で描いている。
また、セザンヌは、同じ鉄道路線の切通しに加えて信号機(図36・図37)も、板に油彩の《切通し》(1867‐68年)(図38)や、素描の《切通し》(1867‐70年)(図39)で描いている。
さらに、セザンヌは、切通しと共に線路も、水彩の《切通し》(1867‐70年)(図40)で描いている。
これらの絵画は、セザンヌがエクスで非常に早い時期から蒸気鉄道の画題化に意欲的に取り組んでいた確かな証拠である。
図34 ジャ・ド・ブッファンの庭から壁越しに眺めた蒸気鉄道の切通しとサント・ヴィクトワール山(1935年頃ジョン・リウォルド撮影)
図35 ポール・セザンヌ《蒸気鉄道の切通しとサント・ヴィクトワール山》1870年頃
図36 エクス=ロニャック路線の蒸気鉄道の切通しと信号機(1935年頃ジョン・リウォルド撮影)
図37 エクス=ロニャック路線の信号機(2006年8月23日筆者撮影)
図38 ポール・セザンヌ《蒸気鉄道の切通し》1867‐68年
図39 ポール・セザンヌ《蒸気鉄道の切通し》1867‐68年
図40 ポール・セザンヌ《蒸気鉄道の切通し》1867‐70年
その上で、セザンヌは次第に自らのコンセプトを洗練し、近代(蒸気鉄道)と前近代(山)の対比を強調するようになる。
これに関連して、この鉄道画題と同じ時期に、セザンヌは《レスタックの工場》(1869年)(図41)を描いている。この板張りの紙に描かれた水彩は、隣町レスタックにある工場群を描写するもので、エミール・ゾラの妻アレクサンドリーヌの化粧台の装飾に用いられていた。
この工場も、《ボニエールの船着場》(図15)における蒸気鉄道と電信と同様に、セザンヌが美術評論家ゾラとの友情の証として描いた画題であることは疑いない。なぜなら、ゾラは古い世代が毛嫌いするこうした近代性を芸術において称揚していたからである(なお、この工場を描く絵画は化粧台の装飾として全くそぐわないため、アレクサンドリーヌは好まなかったという)。
図41 ポール・セザンヌ《レスタックの工場》1869年
この最初の工場絵画に続けて、セザンヌは《サングル山付近の工場》(1869‐70年)(図42)を描いている。この作品では、サント・ヴィクトワール山の右側のサングル山の手前にある工場群と、その煙突から煙が噴き上がっている様子が描かれている。
ここでセザンヌは、こうした近代的画題としての工場を本画としての油彩で描いている。より正確に言えば、図41と比較すれば分かるように、この絵画でセザンヌが表現しようとしているものは、近代だけではなく、近代(工場)と前近代(山)の対比である。
図42 ポール・セザンヌ《サングル山付近の工場》1869‐70年
さらに、セザンヌは、エクス=マルセイユ路線の鉄道橋を描いている。
事実、セザンヌは、エクス近郊のアルク川とその渓谷を越えるために架橋された鉄道橋(図43・図44)を、《サント・ヴィクトワール山と大松》(1887年頃)(図2)、《アルク渓谷の前の松》(1883‐85年)(図45)、《アルク渓谷の陸橋》(1883‐85年)(図46)で描写している。
また、セザンヌは同じ鉄道橋とサント・ヴィクトワール山の組み合わせを、《モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山》(1882年頃)(図47)、《サント・ヴィクトワール山》(1890年頃)(図48)、《陸橋》(1890年頃)(図49)、《サント・ヴィクトワール山》(1892‐95年)(図50)、《サント・ヴィクトワール山と陸橋》(1885‐87年)(図51)、《サント・ヴィクトワール山》(1883‐86年)(図52)、《サント・ヴィクトワール山と松》(1883‐86年)(図53)、《アルク渓谷》(1885‐87年)(図54)でも描出している。
特に、《アルク渓谷の鉄道橋》(図46)は、《サングル山付近の工場》(図42)の工場が、背後の前近代的な山との対比において、別の近代的画題である蒸気鉄道(鉄道橋)に置き換えられたものと解釈できるだろう。
図43 1903年頃のアルク渓谷の鉄道橋(撮影者不詳)
図44 モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山とアルク渓谷に架かる鉄道橋(2006年8月24日筆者撮影)
図45 ポール・セザンヌ《アルク渓谷の前の松》1883‐85年
図46 ポール・セザンヌ《アルク渓谷の陸橋》1883‐85年
図47 ポール・セザンヌ《モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山》1882年頃
図48 ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1890年頃
図49 ポール・セザンヌ《陸橋》1890年頃
図50 ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1892‐95年
図51 ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山と陸橋》1885‐87年
図52 ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1883‐86年
図53 ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山と松》1883‐86年
図54 ポール・セザンヌ《アルク渓谷》1885‐87年
そして、セザンヌは、エクス=マルセイユ路線の蒸気機関車も描いている。
実際に、セザンヌは、アルク渓谷の鉄道橋(図55)の上を通過する汽車を、《モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山》(1882‐85年)(図56)、《サント・ヴィクトワール山と大松》(1886‐87年)(図57)、《アルク渓谷》(1885年頃)(図58)で描き込んでいる。
特に、《モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山》(図56)において、セザンヌは、直線的に鉄道橋を疾走する汽車と、エクスへの曲がりくねった道路を歩く人間を描き込んでいる。つまり、ここでもセザンヌは、近代(蒸気鉄道)と前近代(徒歩)の対比を表現している。
実は、1878年4月4日付のエミール・ゾラ宛の手紙で、セザンヌは帰宅の際に汽車に乗り遅れたため、正にこの絵画に描かれているマルセイユからエクスへの曲がりくねった道路を約30キロメートル歩かなければならなかったと書いている。そうであれば、ここで汽車と対比されている徒歩の人物にはその時の彼の疲労感が反映しているのかもしれない。
「僕は、何とかしてマルセイユへ行くつもりだ。一週間前の火曜日に、僕は子供に会うためにこっそり抜け出したのだが(子供は快方に向かっている)、エクスまで徒歩で帰ることを強いられた。僕の汽車(le train du chemin de fer)の時刻表は間違っており、それでも僕は夕食のために家に居なければならなかったのだ。結局、僕は一時間遅刻してしまった。[iii]」
なお、既に前々章で見たように、セザンヌはこのアルク渓谷の鉄道橋を通過する時に車窓から眺めたサント・ヴィクトワール山を、同路線の開通からわずか半年後の1878年4月14日に「何と美しいモティーフだろう」と讃美している。そして、正にこの年以降にこれらのサント・ヴィクトワール山の連作が開始されていることは極めて重要な符合である。
図55 モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山とアルク渓谷の鉄道橋(2006年8月24日筆者撮影)
図56 ポール・セザンヌ《モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山》1882‐85年
図57 ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山と大松》1886‐87年
図58 ポール・セザンヌ《アルク渓谷》1885年頃
興味深いことに、セザンヌがこれらの絵画を描いた場所は、エクス=ロニャック路線の鉄道線路が眼下に走る崖の上である(図59・図60)。従って、セザンヌがこれらの作品を写生している時に足下を爆走する蒸気機関車の轟音をしばしば耳にしていた蓋然性は極めて高い。
図59 モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山とエクス=ロニャック路線の鉄道線路(2006年8月24日筆者撮影)
図60 モンブリアンから眺めたサント・ヴィクトワール山とエクス=ロニャック路線の鉄道線路(2006年8月25日筆者撮影)https://youtu.be/J1Lkb_nGvZE
驚くべきことに、セザンヌは、エクス=マルセイユ路線の汽車のみならず電車さえ愛用している。実際に、1903年6月28日に電気鉄道化されたこの鉄道路線の電車に[iv]、1905年3月末にセザンヌと一緒に乗車したエミール・ベルナールは、「回想のセザンヌ」(1907年)で次のように記録している。
「セザンヌは食事が済むと、御者に帰るように指示された。というのも、突然マルセイユへ行き、『私の家族の残り』に会うことを決められたからである。私達は、電車(le tramway)へ向かい、車内で2時間、酷暑の中を陽気に歓談した。私は、セザンヌの喜びに満ちた表情や、顔色の良さや、打ち解けた気さくさに魅了された。[v]」
これらの事実から、既にセザンヌの日常生活には、近代的な蒸気鉄道はもちろん電気鉄道さえ定着していたことが分かる。そして、セザンヌは、近代生活の画家として、切通し、信号機、鉄道線路、鉄道橋、蒸気機関車などの鉄道画題を精力的に描いたのだと考えられる。より正確に言えば、セザンヌは、自然愛好の画家であると共に近代生活の画家だからこそ、近代と前近代の対比を大いなる情熱を持って表現したのである。
[i] Camille Pissarro, Lettres à son fils Lucien, présentées avec l’assistance de Lucien Pissarro par John Rewald, Paris: Albin Michel, 1950, p.396.
[ii] See Wikia (http://trains.wikia.com/wiki/Aix-en-Provence) (Last retrieved on September 1, 2011)
[iii] Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris: Bernard Grasset, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris: Bernard Grasset, 1978, p. 164. 邦訳『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド編、池上忠治訳、美術公論社、1982年、122頁。
[iv] Marcel Provence, Le Cours Mirabeau: trois siecles d’histoire 1651-1951, Aix-en-Provence, 1976, p. 82.
[v] Emile Bernard, “Souvenirs sur Paul Cézanne” (1907), in Conversations avec Cézanne, edition critique présentée par P. M. Doran, Paris, 1978, p. 77. 邦訳、エミール・ベルナール「ポール・セザンヌの回想」(1907年)、『セザンヌ回想』P・M・ドラン編、高橋幸次・村上博哉訳、淡交社、1995年、137頁。
Fig. 26 is quoted from exh. cat., Cézanne in Provence, Washington: National Gallery of Art, 2006.
Fig. 34 and Fig. 36 are quoted from John Rewald, The Paintings of Paul Cézanne: A Catalogue Raisonné, vol. I, New York: Harry N. Abrams, 1996.
Fig. 43 is quoted from John Rewald, Cezanne: A Biography, New York: Harry N. Abrams, 1986.