知られざるセザンヌとゾラの友情の証『セザンヌと蒸気鉄道(2)――フランス印象派の最初の鉄道絵画』秋丸知貴評

印象派で最初に蒸気鉄道を描いたのは誰か?

(本稿は、amazonで公刊中の次の拙稿の日本語訳である。Tomoki Akimaru, Cézanne and the Railway (2): The Earliest Railway Painting Among the French Impressionists, KDP, 2019)

セザンヌと蒸気鉄道(2)――フランス印象派の最初の鉄道絵画

秋丸 知貴

 

フランスで最初に鉄道画題に本格的に取り組んだのは、印象派である。従来、その印象派の鉄道絵画の中で最も早い時期に描かれたのは、カミーユ・ピサロ(1830-1903)の《ポントワーズ、パティの風景》(1868年)(図13)や、クロード・モネ(1840-1926)の《田舎の汽車》(1870年)(図14)であると言われてきた。

しかし、実は印象派の中で最初に鉄道絵画を描いたのはセザンヌである。この問題は、セザンヌこそが、シャルル・ボードレールが称揚した前衛画家の重要な特質としての「近代性(モデルニテ)」に最も鋭敏だったことを意味する点で極めて重要である。

 

図13 カミーユ・ピサロ《ポントワーズ、パティの風景》1868年

 

図14 クロード・モネ《田舎の列車》1870年

 

一般に1870年前後のフランスでは、蒸気機関車は轟音を上げ猛烈なスピードで驀進する醜悪な怪物と見なされており絵画に描かれることはなかった。同様に、鉄道線路も自然風景を台無しにする侵入者として嫌悪されていた。

そのため、画家達は風景に蒸気鉄道を描き入れることを避けていた。もし蒸気機関車が描かれるとしても、遠景に小さく描かれるだけで、それも素描か版画であることがほとんどであった。本画の油彩画で蒸気機関車が描かれることはまずなかったといってよい。

だからこそ、ピサロやモネを中心とする印象派の画家達は、フランスで最初に油彩画で蒸気鉄道を画題化した革新的な画家達と考えられてきたのである(それでもなお、ピサロの図13では蒸気機関車は気付かれないほど小さく描かれ、モネの図14でも汽車は木立の陰に隠されていることを指摘しておきたい)。

 

図15 ポール・セザンヌ《ボニエールの船着場》1866年夏

 

興味深いことに、一般に自然愛好の画家として知られるセザンヌは、同じぐらい近代生活の画家でもあり、ピサロやモネよりも早く蒸気鉄道を描いている。事実、セザンヌは1866年の夏に《ボニエールの船着場》(図15)を描いている。

実際にこの景色の現場に立ってみると、画面の左側に描かれている電信柱の付近にはパリ=ル・アーヴル路線のボニエール駅が位置し、鉄道列車が左右に往来しているのが分かる(図16‐図21)。

セザンヌが描いているのは、正にそうした近代的な場所である。ここで注意すべきは、セザンヌがこの《ボニエールの船着場》で、すぐに分かる船着場だけではなく秘かに鉄道駅も描き込んでいる事実である。つまり、ここでセザンヌは玄人好みのかたちで「前近代と近代の対比」こそを表現しているのである(なお、この時セザンヌもまだ蒸気機関車自体を描くことにはためらいがあったと私は推測する)。

ちなみに、ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』(1977年)によれば、19世紀の電信網は、汽車の適切な運行のために鉄道網に添って発達した[i]。ボニエール駅が開通したのが1843年5月9日である以上、ここでセザンヌが描いている電柱と電線が蒸気鉄道の一部であることは間違いない。すなわち、ここでセザンヌは、鉄道駅と電柱電線という二つの鉄道画題を描いているのである。

 

図16 ボニエール駅を通過する鉄道列車(2006年8月28日筆者撮影)https://www.youtube.com/watch?v=qobYkS1_oWA

 

図17 ボニエール駅を出発する鉄道列車(2006年8月28日筆者撮影)https://www.youtube.com/watch?v=Pspn6bJ9fZI

 

図18

 

図19

 

図20

 

図21

図18・19・20・21 ボニエール駅周辺(2006年8月28日筆者撮影)

 

ここで注目すべきは、セザンヌの中学以来の親友である小説家エミール・ゾラ(1840-1902)が、正にこのセザンヌが最初の鉄道絵画を描く直前に出版した『我が憎悪』(1866年)で、3回「蒸気鉄道と電信」に言及している事実である。

実際に、ゾラは冒頭の序文(1866年5月27日付)で、「我々は、蒸気鉄道と電信(les chemins de fer et le télégraphe électrique)が我々の肉体も精神も無限かつ完全に運ぶこの時代にいる。人間精神が新しい真実の陣痛の内にある、深刻で落ち着きのないこの時代に[ii]」と書いている。

また、ゾラは「文学と体操」(1865年10月5日付)で、「我々は、笑いがしばしば不安の苦笑でしかない蒸気鉄道(des chemins de fer)と息切れした喜劇の時代に、極端な結果が厳格で無残な現実である電信(du télégraphe électrique)の時代にいる[iii]」と記している。

さらに、ゾラは「芸術家イポリット・テーヌ氏」(1866年2月15日付)で、「私は文学と美術の批評における新しい科学を、電信と蒸気鉄道(du télégraphe électrique et des chemins de fer)の同時代物と見なす[iv]」と綴っている。

こうしたゾラの「蒸気鉄道と電信」の強調は、科学技術の発達により急速に発展する同時代の社会的現実から目を背け、空想上の理想美ばかり追い求めようとする前世代の古い美意識に異議を唱えるものであったといえる。端的に言えば、アカデミズムに対する反発である。

これに関連して、ゾラは「我が友P・セザンヌ[v]」に捧げた自伝的小説『クロードの告白』(1865年)で、「嘘は沢山だ! 人生の問題に苦悩している者には、赤裸々な真実は奇妙な甘美さを持っている[vi]」と主張している。

また、ゾラは「小説の二つの定義」(1866年)で、「『近代』の科学的・数学的傾向」の下に「観察と分析の小説」が生まれたと説いている[vii]

さらに、ゾラは『我が憎悪』(1866年)で、文学における「科学」的探究という新しい潮流を論じ、「近代社会はここにあり、歴史家達を待っている[viii]」と告げている。

そして、ゾラは「我が友ポール・セザンヌに[ix]」献じた『我がサロン』(1866年)で、「科学」の時勢における絵画では、「夢想を描くことは女子供の遊びだ。男には現実を描く責任がある」と檄している[x]

この文脈で、後にゾラは「テオフィル・ゴーティエ」(1879年)で、「夢想家達は、世紀の精神まで毛嫌いした。科学と工業の偉大な運動は、彼等が嫌悪するものだった。彼等にとっては、蒸気鉄道と電信(un chemin de fer, un télégraphe électrique)は最も美しい風景を台無しにするものだった[xi]」と回想している。

興味深いことに、セザンヌは1865年3月15日付のカミーユ・ピサロ宛の手紙で、自分達の新しい美意識を認めようとしないサロンにわざと挑戦的な絵画を出品することを計画し、「アカデミーを激怒と絶望で真っ赤にしてやるつもりです[xii]」と意気込んでいる。

その上で、セザンヌはこの《ボニエールの船着場》を描いた1866年の夏に、ゾラと一緒にボニエール周辺で夏休暇を過ごしている。そして、その時にその場で描かれた《ボニエールの船着場》は、亡くなるまでゾラの所有物であった。つまり、この《ボニエールの船着場》は、20代のセザンヌとゾラの一夏の青春の記念であり、現場を知る二人にとって、画面に「留守絵」的に描き込んだ「蒸気鉄道と電信」は、前世代の古い美意識に反抗して同時代事物の芸術的主題化を称揚するゾラに対する、セザンヌの親密な同志的共感の表明であったと解釈できる。

さらに興味深いことに、ゾラはセザンヌを主人公クロードのモデルの一人とする小説『制作』(1886年)で、パリからボニエールへの鉄道旅行を魅力的な同時代風俗として取り上げ、正にこの《ボニエールの船着場》に描かれたのと同じ場所を次のように記述している。

「クロードは、一日中クリスティーヌと一緒にいられることに狂喜し、彼女を郊外へ連れ出したいと考えた。遥か遠く、大きな太陽の下で、彼女を独占したかったのである。クリスティーヌも、大喜びだった。二人は夢中で飛び出し、サン・ラザール駅(la gare Saint-Lazare)に駆け付け、発車間際のル・アーヴル行の汽車(un train)に飛び乗った。クロードは、マントの先にあるベンヌクールという小村を知っていた。そこには、芸術家達の常宿があり、彼も時々仲間達と出かけていた。蒸気鉄道(chemin de fer)で2時間なら気にならず、まるでパリ近郊のアニエールに出かけるように、クロードはクリスティーヌをベンヌクールに昼食に連れ出したのである。クリスティーヌは、この果てしなく続く旅行に大はしゃぎだった。遠いほど素敵、世界の果てまでも! 二人には、夜なんて永遠に来ないかのようだった。10時に、二人はボニエール(Bonnières)で下車し、渡し舟に乗った。古舟は、軋みつつ鎖を伝って航行した。ベンヌクールは、セーヌ河の対岸にあるのだ[xiii]。」

そうであるならば、この文章と同じ場所を描写している《ボニエールの船着場》にもまた、ここで描出されているのと同様の蒸気鉄道がもたらすハイスピード的解放感が「判じ絵」的に表象されていると指摘できる。従って、セザンヌが1866年夏に描いたこの《ボニエールの船着場》は、フランス印象派画家における最初の鉄道絵画と結論できる。

 

図22 サン・ラザール駅からボニエール駅への車窓風景(2006年8月28日筆者撮影)https://www.youtube.com/watch?v=VgN-tcmip-c

 

図23 ボニエールの船着場と鉄道駅(2006年8月28日筆者撮影)

 

図24 ボニエールの船着場と鉄道駅とセーヌ河

 

【註】引用は、全て既訳を参考にさせていただきつつ訳し直している。

[i] Wolfgang Schivelbusch, The Railway Journey: The Industrialization of Time and Space in the 19th Century, Berkeley and Los Angeles: The University of California Press, 1986, pp. 29-32.

[ii] Émile Zola, Mes Haines (1866), in Œuvres complètes, tome I, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 723.

[iii] Ibid., p. 750.

[iv] Ibid., p. 835.

[v] Émile Zola, La Confession de Claude (1865), in Œuvres complètes, tome I, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 407.

[vi] Ibid., p. 439.

[vii] Émile Zola, Deux définitions du roman (1866), in Œuvres complètes, tome II, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 510.

[viii] Émile Zola, Mes Haines (1866), in Œuvres complètes, tome I, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 820.

[ix] Émile Zola, Mon Salon (1866), in Œuvres complètes, tome II, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 617.

[x] Ibid., p. 642.

[xi] Émile Zola, “Théophile Gautier” (juillet 1879), in Documents littéraires (1881), in Œuvres complètes, X, Paris: Nouveau Monde, 2004, p. 710.

[xii] Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris: Bernard Grasset, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris: Bernard Grasset, 1978, p. 113.

[xiii] Émile Zola, L’Œuvre (1886), in Œuvres complètes, XIII, Paris: Nouveau Monde, 2005, p. 109.

 

【連載記事】

『セザンヌと蒸気鉄道(1)――19世紀における視覚の変容』秋丸知貴評

『セザンヌと蒸気鉄道(2)――フランス印象派の最初の鉄道絵画』秋丸知貴評

『セザンヌと蒸気鉄道(3)――エクス・アン・プロヴァンスの鉄道画題』秋丸知貴評

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評者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2020年4月から2023年3月まで上智大学グリーフケア研究所特別研究員。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。上智大学グリーフケア研究所、京都ノートルダム女子大学で、非常勤講師を務める。現在、鹿児島県霧島アートの森学芸員、滋賀医科大学非常勤講師、京都芸術大学非常勤講師。

http://tomokiakimaru.web.fc2.com/

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