
展覧会「具体美術協会と芦屋、その後」が開催されれていた芦屋市立美術博物館
ー【ARTS STUDY 2025】で体験する前衛美術の聖地巡礼ー
はじめに —
現代に息づく学びのコミュニティ【ARTS STUDY】開講
現代のアート界において、単発的な展覧会鑑賞だけではなく、より深い学びと体験を求める人々が増えている。そんな中、神戸で30年以上活動を続けているC.A.P.(特定非営利活動法人 芸術と計画会議)が2023年に始動した【CAP STUDY】(現・【ARTS STUDY】)は、アートを通じた新しい学びのコミュニティとして注目を集めている。
今年開催の【ARTS STUDY 2025】では、よそおいも新たに講座をリニューアル、アートの学びとつどいをテーマに、専門家による講座、実地見学、参加者同士の交流を組み合わせた半年間の継続プログラムを発表。単なる座学ではなく、実際にその場所に足を運び、作品を間近で体験し、同じ興味を持つ仲間と語り合う—そんな立体的な学びの場を提供する。
2025年8月24日、【ARTS STUDY 2025】の1回目が開講した。テーマは[「具体」再考]である。

前回【ARTS STUDY 2024】の講座の様子
今回取り上げる[「具体」再考]プログラムは、戦後日本を代表する前衛美術グループ「具体美術協会」を多角的に学ぶ講座だ。関西を拠点とした具体の活動の舞台である芦屋を実際に歩き(1.芦屋遠足編)、作品と対話し(2.芦屋市立美術博物館学芸員トーク&展覧会鑑賞編)、専門家の解説を聞く(3.平井章一講師・講演編)—半日かけての3部構成の講座、まさに五感で「具体」を体験する一日となった。本稿では、2025年8月24日に開催されたプログラムをレポート形式でお伝えする。
「破壊から創造へ」戦後日本が生んだ革命的アート集団・具体美術協会
最初に、「具体」とは何かについて触れておきたい。1950年代、関西から世界のアート界に衝撃を与えた日本の前衛美術グループ、それが具体美術協会だ。1954年に大阪で結成されたこの集団は、従来の絵画や彫刻の常識を完全に打ち破る、まさに「型破り」な作品を次々と発表していた。
具体美術協会は1954年、大阪で吉原治良を中心に結成された。戦後復興期の日本で、若い芸術家たちは「これまでの美術とは全く違うものを作りたい」という強い想いを抱いていた。彼らのスローガンは「人間と物質の関係を探る」こと。つまり、絵の具やキャンバスといった従来の画材だけでなく、あらゆる「モノ」を使って新しい表現を生み出そうとしていたのだ。その活動は常識破りの連続だった。田中敦子は電球を身にまとった「電気服」を着て歩き回るパフォーマンスを行い、村上三郎は紙を張った大きな枠に勢いよく体当たりして突き破る作品を発表した。白髪一雄は足に絵の具をつけて巨大なキャンバスの上を歩き回り、ロープにぶら下がって足で描く「フット・ペインティング」を生み出した。嶋本昭三は絵の具の瓶をキャンバスに投げつけて破壊することで作品を完成させた。
「え、それってアート?」と思うかもしれない。でも、それこそが「具体」の狙いだった。彼らは「美術」という枠組み自体を疑問視し、「表現とは何か」「創造とは何か」を根本から問い直そうとしていたのだ。特に注目すべきは、彼らが「プロセス」そのものを重視したことだ。従来の絵画は完成した作品を鑑賞するものだったが、「具体」の作家たちは「作品を作る過程」「身体を使って表現する行為」そのものをアートとして提示した。これは現在の「パフォーマンス・アート」の先駆けとも言える革新的な発想だった。国際的な評価も高く、1957年にはニューヨークの画廊で展覧会が開催され、アメリカのアート界に衝撃を与えた。フランスの美術評論家ミシェル・タピエは具体を「東洋から生まれた真に独創的な前衛芸術」と絶賛した。
しかし「具体」が本当にすごいのは、単に奇抜だっただけではないということだ。彼らの背景には、戦争で価値観が根底から覆された日本社会への深い問題意識があった。既存の権威や伝統を疑い、新しい時代にふさわしい表現を模索する姿勢は、戦後日本の若者たちの心情を代弁していたとも言える。現在、「具体」の作品は世界中の美術館で高く評価されている。草間彌生や村上隆など、現在活躍する日本のアーティストたちも、「具体」の精神を受け継いでいる部分がある。具体美術協会は1972年に活動を終えたが、「既成概念にとらわれない自由な表現」という彼らのメッセージは、今でも多くのクリエイターにインスピレーションを与え続けている。美術に限らず、音楽、ファッション、デザインなど、あらゆる創造的分野で「常識を疑い、新しい可能性を探る」ことの大切さを、「具体」は私たちに教えてくれているのだ。
現在も息づく具体の精神を求めて
こうした革新的な活動を展開した具体美術協会だが、実は私たちにとって身近な場所にその足跡が残されている。それが兵庫県芦屋市だ。芦屋は具体美術協会にとって特別な意味を持つ場所である。リーダーの吉原治良がアトリエを構え、多くのメンバーが集まって議論を重ねたのもこの地だった。また、「具体」の代表的な野外展示「具体美術野外展」の舞台となった芦屋公園をはじめ、彼らの創造活動の痕跡が今なお残されている。
現在の芦屋を歩けば、当時の前衛芸術家たちがどのような環境で革新的な作品を生み出していたのか、その息吹を感じることができるだろう。美術館や記念碑だけでなく、彼らが実際に生活し、制作活動を行った街の風景そのものが、具体美術協会の歴史を物語っている。戦後日本から世界に向けて発信された「GUTAI」の精神は、時を経た今でもこの街に静かに息づいている。具体ゆかりの地・芦屋を訪れることで、教科書では知ることのできない、より生き生きとした彼らの姿に出会えるはずだ。

2025年8月24日(日)JR芦屋駅集合 【ARTS STUDY 2025】開講!
1.【芦屋遠足編】具体の聖地を歩く—現在に息づく前衛精神の記憶
革新的建築空間から始まる物語—芦屋市民会館ルナ・ホール
私たちの具体巡礼は、関西大学教授 平井章一講師を筆頭に、JR芦屋駅から程近い芦屋市民会館ルナ・ホールから始まった。1970年に開館したこのホールは、坂倉建築研究所大阪事務所の山崎泰孝による設計で、当時35歳という若さで手がけた革新的な建築だった。現在の安藤忠雄がコンクリート打ちっぱなしの代名詞となる以前から、山崎はこの手法を用いていた。ルナ・ホールの内装は徹底的に黒く塗られ、現実から別世界への導入口として機能するデザインになっている。

RENAISSANCE CLASSICS 芦屋ルナ・ホール
ここで最も興味深いのは、吉原治良による壁画の存在だ。一方向から見ると直線に見えるが、角度を変えると凸凹に見える立体的な作品で、階段、床、天井といった異なる材質の表面に白い線を描き、特定の角度から見ると一直線に見えるよう工夫されている。山崎がエントランスホールの絵を依頼したところ、吉原は「空中に絵を描きたい」と答えたという逸話が残されている。

芦屋ルナ・ホール内部(この日は講演会があり中には入れなかった)。中央斜めに走る白いラインが吉原治良の壁画。
山崎と「具体」の関わりは深く、中之島にあったグタイピナコテカの代替施設として、淀屋橋近くに50メートルほどの巨大タワー型美術館の設計を任されていた。エレベーターで上がって螺旋階段を降りながら作品を鑑賞するという斬新なプランで、設計図まで完成していたが、グタイピナコテカの取り壊し時に散逸し、現在も所在不明となっている。

炎天下にも関わらず、平井講師による芦屋ルナ・ホールの説明を熱心に聞く参加者たち
・革新的な芦屋ルナ・ホール|具体フィールドミュージアム
・グタイピナコテカ|具体フィールドミュージアム
・二つあった新グタイピナコテカ構想|具体フィールドミュージアム
晩年の住まいと創作の記憶—川西町の吉原治良邸跡
次に私たちが訪れたのは、吉原治良が1968年から1972年まで最後の4年間を過ごした川西町の邸宅跡だ。現在はマンションになっているが、かつては立派な石垣に囲まれた邸宅があった。特徴的だったのは、隣接する黄色いレリーフで、これは彫刻家の渡辺ヒロシによる作品だった。渡辺は二科会の会員で芦屋在住、吉原も「具体」結成前は二科会に属していたことから、そのつながりで初期に「具体」にも参加していた。この黄色い門のデザインは吉原自身が手がけ、FRP(プラスティック樹脂)で制作された横長2階建ての邸宅の個性的な顔となっていた。

(仮)吉原治良邸(川西町)の黄色い門扉が特徴的だった
ここは「具体美術協会」の活動が本格化してからの住まいで、1970年代の万博を巡る政治的な議論も、こうした場で交わされていた。現在はその作品群が芦屋市立美術博物館と大阪中之島美術館に分かれて収蔵されている。
「具体」創作の聖地—公光町の自宅とアトリエ跡
最も重要な場所が、1926年から1968年まで吉原治良が住んだ公光町の自宅とアトリエの跡地だ。現在はマンションが建っているが、この場所こそが「具体」の活動拠点だった。邸宅のデザインは吉原自身が考案し、大林組が施工を担当した。壁際には鬱蒼とした森のような植栽があり、外からは家が見えないようになっていた。敷地内には邸宅、土蔵、そして1939年に吉原が自ら建設したアトリエがあった。鉄筋に見えるが実際は木造で、近代的な設計だった。このアトリエには細くて高い扉があり、大きな絵を運び出すための工夫が施されていた。
阪神芦屋駅から徒歩3分という立地の良さから、「具体」のメンバーたちが作品を持参して吉原に見てもらうために頻繁に訪れた。イタリアのトリノでの「具体」展に送る作品を選定する際には、庭で作品を並べて吉原を囲んでメンバーたちが検討している写真も残されている。白髪一雄や村上三郎らが椅子に座る吉原の脇で一緒に作品を見ている光景は、「具体」の民主的な運営方式を物語っている。
当時の芦屋はまだ武庫郡精道村と呼ばれ、1920年に阪急電鉄が開通したばかりの新興住宅地だった。吉原は結核を患い転地療養のためにこの健康地に移住した。大阪の商売人たちが職住分離のライフスタイルを求めて郊外に移住する流れの中で、空気が清浄で静かな芦屋は理想的な住環境だった。
・阪神芦屋駅周辺|具体フィールドミュージアム
新人発掘の場—芦屋市立精道小学校の講堂跡と芦屋公園
芦屋市立精道小学校右隣の敷地、現在、芦屋市消防署があるこの場所には、かつて芦屋市立精道小学校の講堂があった。ここで芦屋市展が毎年開催されており、この市展は「具体」メンバーの登竜門的な役割を果たしていた。吉原治良が面白いと思った作品を入選させ、後で制作者に連絡を取って「具体」に誘うという発掘の場として機能していた。

芦屋市立精道小学校前にて。看板より右側に講堂(現・芦屋市消防署)があった。
また、次に向かった芦屋公園では「具体」による2回の野外展示が行われた。1回目は1955年の「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」、正式に具体美術協会の名前で開催されたのは翌1956年の「野外具体美術展」だった。当時の芦屋公園は現在とは大きく異なり、すぐそばが海岸で海水浴場になっていた。24時間開放された公園での展示は、海水浴に来た人々や潮干狩りの人々にも開かれており、当時の記録写真には、海水パンツ姿の人たちが多数写り込んでいる。一般の人々が気軽に現代美術に触れられる場となっていたが、それゆえにいたずらをされることも多かったそうだ。

芦屋公園と松林

当時の野外展の様子を想像しながら、芦屋公園の松林を歩く
・国鉄・阪神電鉄の開通とリゾート開発|具体フィールドミュージアム
2.【芦屋市立美術博物館 大槻学芸員 トーク&展覧会鑑賞編】 具体の精神を受け継ぐ芦屋の文化的気概
芦屋市立美術博物館の確かなコレクション基盤
芦屋市立美術博物館での大槻学芸員のお話は、机上の学問ではない、生きた「具体」の記憶を私たちに伝えてくれた。1991年に開館した同館は、約1700点の美術作品と博物・歴史資料を収蔵しており、具体美術協会の作品においては、初期メンバーから第二世代・第三世代まで包括的に収集している点で他の美術館と一線を画している。

芦屋市立美術博物館 開催中の展覧会は「具体美術協会と芦屋、その後」

「具体美術協会と芦屋、その後」の担当大槻学芸員の話を聞く。
講座当時、開催中だった展覧会「具体美術協会と芦屋、その後」(2025年7月5日〜8月31日)は大きく二部構成で、第一部では1954年の結成から吉原治良が亡くなる1972年までの18年間の軌跡を、第二部では1960年代後半からの万博準備期の動向を中心に展示している。
・展覧会レビュー:「具体」が駆け抜けた時代、その精神が芦屋に刻んだもの 「具体美術協会と芦屋、その後」
1992年の野外具体美術展 再現プロジェクトの感動的エピソード
大槻学芸員が語った最も印象的なエピソードは、1992年の野外具体美術展再現プロジェクトについてだった。当時の学芸員たちが1955-56年に開催された野外具体美術展を芦屋公園で再現するという画期的なプロジェクトを実施した際、具体美術協会の初期メンバーがまだ健在で、彼らと一緒に作品制作を行い、位置関係を考慮しながら展示を行った。
この再現展で特に印象深いのは、1955年の野外展を実際に見たという女性が現れ、「野外展をその当時見たときに、戦後日本がやっと自由になれたということを感じた」と語ったことだ。この証言は、具体美術協会が美術史における先鋭的な存在としてだけでなく、日本の戦後復興期における精神的解放の象徴として人々の暮らしに影響を与えていたことを物語る。
芦屋川国際ビエンナーレとルナ・フェスティバル
具体美術協会解散後、芦屋では新たな文化的動きが生まれていた。調査により、芦屋の山手にある滴翠美術館を舞台とした大規模な展覧会「芦屋川国際ビエンナーレ」が1972年と1974年に開催されていた事実が明らかになった。また、1975年には芦屋ルナホールで「ルナ・フェスティバル」が開催され、当時の現代芸術家、音楽家、舞踏家などが招聘された。これらの活動は、具体美術協会が芦屋の人々にもたらした新しい風と芸術への刺激が、継続的な文化活動として花開いたことを示している。
元永定正の《液体(赤)》、再制作の企業秘密
展覧会で展示されている元永定正の代表作《液体(赤)》にも、興味深い背景がある。具体美術協会解散後、元永定正が各地で作品《水》の再現を行っていた時期に、改良を重ねながらたどり着いた手法が現在使用されている。再制作は中辻悦子や娘の紅子らによって行われ、ビニールや色を再現するインクも最適な色が選ばれている。ロープの巻き方や使用するロープの種類、水の量まで詳細に規定されているが、その具体的な内容は企業秘密として守られている。

元永定正 《液体(赤)》1956年 / 2025年 真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展(1955年7月) 撮影:ERINA YASUKAWA
3.【平井先生講演編】1970年大阪万博—「具体」が描いた未来の万華鏡
光と影を宿す三つの舞台—具体の万博参加概要
平井章一先生による講演は、1970年の大阪万博における具体美術協会の活動を、豊富な資料をもとに詳細に解説してくれた。「具体」の万博参加は1968年4月頃から具体化し始め、上前智祐の日記や吉田稔郎のノートには、この時期から万博関連の打ち合わせが頻繁に記録されている。
具体美術協会として大阪万博に参加した主要な催しは3つあった。まず、1970年3月15日から9月13日までの全会期にわたって開催された「みどり館の具体グループ展示」と「ガーデン・オン・ガーデン」という屋外合作展示。そして、8月31日から9月2日までの3日間、夜7時から8時半まで行われた「具体美術まつり」というパフォーマンスである。

1)みどり館—最後の具体グループ展示
みどり館は三和銀行の取引企業32社が集まって出展したパビリオンで、これらの企業は「みどり会」と命名された企業グループを形成していた。高島屋がみどり会として共同出展したパビリオン「みどり館」の展示の目玉は「アストロラマ」という全天全周映画で、天井のドーム全体に映像を映し出すシステムだった。総合プロデューサーは大林組の大林芳郎 (現・株式会社大林組代表取締役会長の父)、脚本は谷川俊太郎、音楽は黛敏郎が手掛け、そして全体の美術コーディネートを吉原治良が「エントランスホール展示企画監修指導」として担当した。
エントランスホールは円形構造で、外側と内側の両方に作品が展示された。特に注目すべきは、電気仕掛けで動く作品が多数含まれていたことである。松田豊の回転する作品、嶋本昭三の音に反応して玉が見えたり見えなかったりする装置、ヨシダミノルの「バイセクシャルフラワー」など、当時の最新技術を用いた作品が並んだ。吉原治良をはじめ、村上三郎、今井祝雄、大原紀美子、小野田實、上前智祐、白髪一雄、名坂有子、吉田稔郎など具体の主要メンバーが参加し、結果的にこれが「具体」として作品を並べた最後の展示となってしまった。
・みどり館 | 万博記念公園
2)ガーデン・オン・ガーデン—関西代表としての合作
万博美術展の企画の一つとして、「関東対関西の文化的競演」という趣旨のもとに関東チームと関西チームのアーティストがそれぞれ合作を出品する催しがあった。関東側は美術評論家の東野芳明を中心とする「ホーム・マイ・ホーム」という作品で、ネオダダイズム・オルガナイザーズの吉村益信がコーディネーターを務めた。
いっぽうで、関西代表として「具体」が選ばれ、14名のメンバーが一つの作品を共同制作した。プロデュースは吉原治郎、構成は白髪一雄が担当した。かまぼこ型の大きなモルタルのオブジェをベースに、各メンバーが様々な要素を加えていく共同制作形式だった。制作過程は映像作家クリスチャン&マイケル・ブラックウッドによってドキュメンタリー「ジャパン・ザ・ニューアート」として撮影された。この27~30分の作品は現在Amazon Primeで有料視聴でき、YouTubeでもサンプル版を見ることができる。
・Japan: The New Art (Short 1970) – IMDb
3)具体美術まつり—未来への最後の花火
万博の終盤、8月31日から9月2日まで、万博会場「お祭り広場」において「具体美術まつり」が開催された。お祭り広場を覆う大屋根は建築家、丹下健三氏の代表作の一つで、東西108メートル、南北291.6メートルに及び、重さは約5000トンという壮大な空間だった。制作・プロデュースは吉原治良、構成は白髪一雄、演出は元永定正、演出補佐は嶋本昭三と村上三郎が担当した。約1時間20分の催しには10個の出し物が含まれていたが、個人名は一切表示されず、具体グループとしての出し物として統一されていた。
嶋本昭三による〈とぶ 光る〉で始まった催しは、大きなバルーンに人がぶら下がって高い所まで上がるスリリングな演出と、光る玉を転がす地上での演出を組み合わせたものだった。続く〈箱〉では複数の大きな箱から楽器を持った演奏者が飛び出し、マイクの前で様々な音を奏でた。〈スパンコール人間〉は元永定正による、スパンコールを付けた衣装の人物たちが照明に照らされてキラキラと光りながら動き回るパフォーマンスで、映像技術も駆使された美しい場面だった。〈毛糸人間〉は村上三郎の発案とされ、実際に演じたのは村上の息子の知彦 (当時高校生)だった。〈101匹ワンちゃん大行進〉はディズニーの犬のぬいぐるみ101匹が電池仕掛けで箱から次々と現れる愛らしい演出で、予期しない展開として、子供たちが入り込んで触り始めるという本当の「ハプニング」も起こった。最後の〈ふくらむ〉は元永定正によるビニールチューブに煙を送り込んで膨らませる作品で、科学消防車2台から泡が噴射され、出演者たちが泡まみれになりながら壮大なクライマックスを迎えた。
・宇宙時代の美術「阪神パーク」と「具体」|具体フィールドミュージアム
・万博と「具体」|具体フィールドミュージアム
記録と継承—映像に残された歴史的瞬間
吉原治良は早くから写真や映像による記録の重要性を認識していた。単に作品を作るだけでなく、それを記録し、印刷物にして世界中に送るメディア戦略を重視していた。具体美術まつりも16mmフィルムで高画質な記録が残されており、現在、この映像の長版は大阪中之島美術館に収蔵されている。
残念ながら、パフォーマンスの音響部分は現在失われており、完全な復元は困難である。しかし、2013年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で大規模な具体展が開催された際、名坂千吉郎のパイプ作品が再現されるなど、視覚的な再現により当時の雰囲気を伝える試みがなされている。
記憶の地層から未来への創造へ—現代に息づく前衛精神の継承
この芦屋巡礼を通じて私たちが体験したのは、単なる史跡見学ではなく、前衛美術の創造的エネルギーが生まれた現場への深い洞察だった。吉原治良という卓越したリーダーのもとに集まった若い美術家たちが、既成概念を打ち破る実験的な表現を模索した場所の数々を歩くことで、「具体」という運動の本質により深く触れることができた。
1970年大阪万博における具体美術協会の活動は、日本の前衛美術史における決定的瞬間だった。みどり館での最後の「具体」グループ展示、14名による合作「ガーデン・オン・ガーデン」、そして壮大なスペクタクル「具体美術まつり」を通じて、「具体」は技術と芸術の融合による新しい表現の可能性を示した。皮肉にも、この華々しい活動が「具体」の「白鳥の歌」となり、1972年の吉原治良の死去と共にグループは解散したが、「見たことのないものを創る」という具体の精神は現代に継承されている。
芦屋という文化的土壌が「具体」を育み、具体が芦屋の人々に与えた刺激が新たな文化活動を生み出していく——この相互作用の中に、アートが社会に与える真の意味を見ることができる。現在は住宅地となった場所に眠る記憶の地層から、戦後日本美術史における「具体」の革新性と国際性、そして芦屋という土地が持つ文化的な豊かさを再発見する貴重な機会となった。
次回のテーマは、1|②「具体」再考|『「具体」と万博-その光と影ー:第2部 「具体」にとって大阪万博とは』
日時:2025年9月5日(金)19:00~20:30
場所:BARまどゐ (神戸市中央区山本通2丁目3−12 まなびと北野基地)
第2部では、これら語られてこなかった大阪万博の「影」の部分に目を向け、光と影を併せ見ることにより、「具体」というグループの本質について、平井章一先生に語っていただきます。
詳細は【ARTS STUDY 2025】 アートの学びとつどいまで