五感が狂わす理性
「身体化された認知」(エンボディード・コグニション)という、心理学に起こった革命を、様々な近年の研究成果を元に、社会生活にも応用できるように網羅的に紹介したのが本書である。
「赤を身につけるともてる」という幾分センセーショナルなタイトルは、11章ある中の一章の研究紹介に過ぎないが、異性にもてるというのは、人生の問題としてもとても大きく、日本語化する際にクローズアップされたのであろう。原題は「Sensation The New Science Phisical Intellgence」である。センセーショナルなタイトルは織り込み済みでとうことである。
この本が心理学の最新研究の網羅的な紹介にとどまらないのは、各章の最期に「まとめ」として、研究のレジュメとそこから導かれる結論、応用編が付記されていることだろう。研究の紹介はかみ砕いて説明されているといっても専門性が高いので、読みづらいところは最後のまとめだけを読んでもかまわないようにできている。
簡単にいうと、環境及びそこから刺激を受ける感覚がいかに人間の理性的判断に影響を与えているか、という事例集である。それも潜在的な影響、無意識であり、影響を受けていることは気付いてないケースが多い。つまり、我々は気付いていない間に、環境と感覚の影響を受けており、その過程で重大な判断をしている可能性がある、ということなのである。
特にクローズアップされた、赤色の影響は、色彩学の世界でもよく研究の遡上に上るテーマであるが、色彩の影響も「身体化された認知」の典型例といえるかもしれない。
研究によると、赤を身につけた女性を男性は魅力的でセクシーだと感じる。また、赤を身につけると男性を女性も魅力的でセクシーだと感じると同時に支配性を連想させ、社会的なステイタスがあると感じる。そして、人々はそれらを赤に影響受けていることを、気付かず判断しているのだ。
その他に、温度、手触り、重さ、赤色、光、空間、浄め、匂い、閃きなどの複数の環境、感覚による影響が紹介されている。そして、それらの項目で我々は無意識の内に判断を狂わされる。
温かいものを持たせると、その人も温かいと感じる。
柔らかいソファに座ると、硬い椅子よりも交渉が和らぐ。
ウエイトレスや販売員が客に接触すると、受け取るチップや商品購入の割合が高くなる。
甘いものを食べると人に親切になる。
などである。これらの「身体化された認知」を知っていたならば、それを自覚的に使うこともできる。極めて実践的に使えるレシピになっているのだ。もちろん、それらを悪用することも可能であろう。しかし、人の判断がその瞬間において、環境と感覚に左右されていることを知らない手はないだろう。また、今まで自分が考えてきたことと、その場の判断が違うと気付いた場合、その時の環境と感覚を疑った方がいいだろう。
これらの「身体化された認知」の心理学の革命は、脳科学の発展とは無関係ではない。従来までの心理学的テスト以外に、実際に脳のどこの部位が活発になったかどうか調べることが可能になっているからである。これは心理学が統計的な手法だけではない、確度の高い調査方法を獲得したということであると同時に、認知科学などと近づいているということでもある。
そして、この分野の研究はまだまだ可能性を秘めている。一つは比喩的言語が、「身体化された認知」と極めて密接な結びつきを持っており、比喩的言語の使用が感覚にフィードバッグすることがあることである。それは言語の成立とも深く関係しているだろう。
さらに、インターネットなど媒介とした遠隔通信のコミュニケーションには、身体的な限界が必ずあるということが幾つもの事例から明らかにされることである。ポスト・インターネット時代になっても身体の影響からは逃れられないことがわかると、身体を介したコミュニケーションが様々な観点で見直される可能性が高い。今、このレビューを読んでいる方が、柔らかいスマホカバーか硬いスマホカバーを使っているかでも印象は変わるのである。
それは芸術の経験とも深い関わりがある。デジタル化、AI化すればするほど、「身体化された認知」の重要性はますます高まっていくだろう。
初出『shadowtimesβ』2016年1月11日掲載