四方田さんのレクチャーをお聞きするのは確か3回目だと思う。2017年の「アウシュヴィッツは描きうるか」その後いつかは忘れたがパリ5月革命を中心に1968年の学生運動についてが2回目、今回はゴダールへの偏愛が結実した『ゴダール、ジャン゠リュック』(白水社)の上梓に伴うレクチャーだ。「アウシュヴィッツは描きうるか」では(覚えてないけど)アドルノのテーゼを元に、クロード・ランズマンの『ショアー』とアラン・レネの『夜と霧』といった映画を中心に、表象の不可能性と可能性についてお話しだった(と思う)。その辺りではアドルノにリテラルに引きつければ私としてはパウル・ツェランが最も重要なのだが、ジャンル違いということで置いておく。
今回も司会は浅田彰先生。会場には吉川学長や吉岡洋先生のお姿も(なんせ一番後ろの席から見てるからね)。冒頭四方田さんは「映画の世界にはデュシャンがいなかったことが幸いした」と発言。美術の領域への挑発かと思われた。「デュシャンの影響で音楽の世界にはジョン・ケージが生まれてしまった」と今度は音楽ジャンルを刺激。映画で言えばスタン・ブラッケージなども大概だと思うけど…と思いつつもまぁ聞き流すこととする。新著のタイトルは本当は「ゴダール馬鹿一代」が良かったとのことだが、帯に記されるに留まった。とはいえ、高校生の時に始まったゴダール体験(その当初は日活アクション映画のパクリではないか?との疑念から始まるが、のちにそれは逆だということがわかる)が一生を通じるものとなり、ついにゴダール本人の死によって全体像を探る契機となった旨が述べられた。
が、レクチャーというかトークはさまざまなエピソードへと脱線していく。合間合間に浅田先生による力強い抑揚を伴った交通整理が入るのだが、それを受けつつも、敢えてそれこそ軟体動物的な逃走を試みるかのように話は繋がりながらジャンプあるいは舞踏するように転がっていく。印象的だったのは、奥村昭夫への敬意と川喜多和子の日本へのゴダール普及への献身的な街頭活動や、『ゴダールと女たち』でも書かれているような女性に逃げられる男でありながら、新しい女性との関わりによって新たな展開を生み出す様、配偶者の名前が全員(杏じゃなくて)アンナ/アンヌであり、トルストイのアンナ・カレーニナも大好きということで(ウッディ・アレンへのインタヴューでも冒頭ではダジャレを連発して臨んでいたが、アレンが理解できず?無視して?引っ込めた、、って地口好きはデュシャン的ではないか??)それと同時に晩年までの長年を共に過ごしたアンヌ=マリ・ミエヴィルの大きな存在と、スイスーフランスでは少数なプロテスタントとしてのゴダールの宗教的立ち位置(二番目の妻のアンヌ・ヴィアゼムスキーの母方の祖父はフランスの代表的なカトリック作家であるフランソワ・モーリヤックであり、父方の祖父はプーシキンの親友であったヴィアゼムスキー公、ちなみにこの話はなかったがアンナ・カレーニナのモデルはプーシキンの娘である)、引用という意味ではエズラ・パウンドとの共通性が語られ、引用元としてのボルヘス…(続きはリンク先で)
https://note.com/kkatsumata/n/n556b70ca33a2