勝又公仁彦個展 自作ステートメント
東京京橋に新しくオープンしたROD GALLERYにて個展のお話をいただき、ディレクターのセレクトにより「Skyline」と「Hotel Windows」の二つのシリーズによる個展「Perspective –遠/近 Ochi-Kochi – Skyline / Hotel Windows」を開催しました。
この展覧会に向けて新たに記したステートメントと、各作品について以前に書いたテキストを紹介します。
プライマルギャラリーではないということでもあり、新作はモニターでの発表でした。
6/9には美術史家の伊藤俊治先生にトークをお願いしましたので、またYoutubeにアップしたらご紹介いたします。
会期2023年6月9日(金)〜6月26日(月)
「Perspective –遠/近 Ochi-Kochi – Skyline / Hotel Windows」展に寄せて、
ギャラリーの依頼に応じてさささささっと書いたのは以下の一文です。
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視線が投げられる距離の遠近は視る主体の存する空間に規定される。
あるいは同一の空間においても、視る主体の姿勢に体勢により、また心の状態によっても変化する。
閉じられた空間では近くを見るし、そこに穿たれた開口部があり、それが隣接した建物に塞がれていない限り、窓の外に広がる遠景を眺めることもある。
窓には透明なガラスが嵌められているのが通常で、そこには視る主体や室内が映り込むと同時に外界の光景が見えるという内と外との多重な視覚的認知状態が発生する。
写真機を意味するカメラはそもそもラテン語で部屋のことであり、描画の道具として始まったカメラ・オブスクラに起因している。
描く、あるいは映す、写し止める、ということはカメラの内側でおこなわれることであり、外を視るあるいは表象するために内に篭るというパラドックスが芸術の秘密の一端に触れている。
今やカメラは我々の手の内にあり、内部と外部は反転してしまった。
それでも外部を通じて歴史を感じ、内面をかすかに託す行為は終わりそうにない。
少なくとも私にとっては。
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改めて読み返すと、ずいぶん大袈裟ですね。
特に「芸術の秘密の一端に触れている」
などというところなどは大きな勘違いぶりが感じられます。
何らか高揚していたのでしょう。よくあることです。
以下は各作品シリーズについての短文です。
「ステートメントはポエムにならないように!」という指導をされている講座やご発言などを目にしますし、尤もなことだと同意しますけれども、私自身はポエムだろうがなんだろうが、そんなのは作家の自己判断だと思います。
詩魂は大切だけど、下手な詩は目も当てられないよ、という親切なアドバイスだとは思いますが、そもそも作品を発表なんてことをしている時点で恥も何もないわけですから上塗りに上塗りを重ねてやればいいんです。
まぁ重ならない方がいいんですけど。
では一曲目「Skyline」聴いてください。じゃないか。
これもかなり昔からの歌ですよ。
Skylineは2001年に制作を開始し、2003年くらいからののParisPhotoやAIPAD、LAPhotoなどに出品し、2004年に横浜のPastraysで個展でした。
その後、東京国立近代美術館に購入されています。
そこの君も今すぐ買いなはれ。
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Skyline
都市の中にありながらも、それを少し引いたところ−多くは高台−から眺めてみる。
すると、自然の稜線ではなく、人間の営みがつくり出した稜線が見えてくる。
都市の内側で渦巻きうごめいている人々の欲望が、地面を這いずり、とぐろを巻き、あるいは深く澱のように沈澱し、たゆたうともなくたゆたって、長い時間を経ながら少しずつ空に向かって、光に吸い込まれるようにゆっくりとした上昇を続けてゆき、少しずつ少しずつ何かに洗われるように、空に溶けていくように見える稜線だ。
そのとき僕は、人の欲望や悪意や嫉妬、黒々とした情念や邪念と、建設的な意志や想像力と献身研鑽の努力、そういった都市にまつわる全てを祝福したい気持ちにかられる。
日本においてこの線のほとんどは、この60年あまりの歳月の中で形作られてきたものであり、今も日々移り変わっている。
そしてそれが一瞬にして−天災、戦乱その他の暴力、あるいは新たな都市計画によって−崩れ去り、改変を余儀無くされることも今後あるかもしれない。
しかしこの線のどれもが欠けてはならないと思うのは、死すべき運命をもつものの感傷なのだろうか。
それにしても、一体どこまでが地でどこからが空の領分なのだろう?
(2002年)
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このシリーズは2001年の911事件を契機に開始され、国内外での撮影と発表を重ね、進行中である。
追記:2011年の311以降、都市やそれを作り維持して来たことや ものへの私の意識と評価は変わって来ている。
そのため、部位をはっきり特定はしないが上の文章の中には、今の考えとはそぐわない部分もあるようだ。
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都市の形成と人間と自然の境界について。
写真における「線」の問題について。
2001年のNY同時多発テロに衝撃を受けたまま、大阪から東京に戻って、改めて東京で何を撮るか、
というときに、地上は昔から誰もが撮っている、で、師匠の畠山直哉さんが既に「Underground」で地下は撮っている、地表の建築物は「Untitled」で俯瞰で撮っている、ということで、残された部分で何かできないか?
さらには先行するPanning of Daysシリーズと同様に新しい現代のパノラマの一つとして何かできないか、
また夜景しか発表していなかった私も昼間も撮れるよと知らしめるべしw
と考えたわけです。セザールとイヴ・クライン(ともう一人、だれだっけ?)の世界の表象の素材の3分割を思い出しますよね??思い出しますよね?
出さんか?出そうぜ。
電子書籍だよ。
↑↑↑ここクリックすると謎の早回し動画(1秒?)にリンクしてます。
「Hotel Windows」は2003年に撮影を開始したシリーズで、最初の発表は雑誌の連載で、
その後2015年に個展を大阪の橘画廊で行いました。
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Hotel’s Window 光差す部屋
イタリアでの旅は「カメラ」の中で眠る旅だ。
客室を「カメラ」と呼ぶ国で写真機はマキナという。
写真機としてのカメラの前身は
「暗い部屋」を意味する「カメラ・オブスキュラ」だ。
部屋に穿たれた窓から一筋の光が射すとき、外界の映像が揺らめく。
それはカメラに差した世界の光。
人々が喧噪から離れ、安息を得、心落ち着かせ、愛を交わし、夢見る、暗い部屋。
それこそが映像の胚胎する場所なのだ。
世界の光、それは身体を貫き、心を照らすだろう。
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2003年にイタリアで開始され、その後諸国で撮影継続中。
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>世界の光、それは身体を貫き、心を照らすだろう。
ここに違和感あり。
なんかクサイ。違う!ということで
今回、書き直したはずが…保存されていない!
思い出したら修正します。
てなわけで。
トークの日にIさんに言われたこと(不正確)
「伊藤先生曰く”美が虐殺されている時代”に美しくあること」
そのことの反時代性を多少恥ずかしく思いつつも、私、これらの作品だけじゃないしw
リクエストに応えて出しているだけなので、one of them ですww
と何故か言い訳、言い訳はあかん。やめなはれ。
次の予定は台湾とACKでっす〜。また違うシリーズからだよ。お知らせしますね、またまたご高覧よろしくお願い申し上げます!!!で、買えよ〜。